日誌、二人でやるつもりなんかなかった。
だってそもそもこんなの二人でする仕事じゃない。一冊の日誌を書くのに顔をつきあわせて書き合いっこするなんて、せいぜい小学生とか、中学生までだ。それも大抵、女子同士の間での話。
影浦くんは今日、二時間目の休み時間に登校してからは毎回授業後の黒板を消してくれた。私が立ち上がろうとすると「俺がやるからいい」って返事も待たずにずかずか黒板まで歩いて行って、長い腕でがしがし消してくれた(「まだ写してたんだけど」というブーイングにも、「うるせー授業中にやっとけ」って、全然気にしていなかった。そういうところ、いいな、って思った)。でも、だから余計、日誌くらいは私が引き受けないと、仕事量のバランスが取れないのだ。
なのに影浦くんは今、私に身体を向けて座っている。マスクを顎元まで下げたまま膝を大きく開いて、机に肘をついて、私の手元をじっと見ている。元はと言えば私が昼休みに日誌を受け取りに行くのを忘れていたせいだし、一人でできるとも言ったのに。なのに彼は村上くんからの誘いを断って、こうして隣にいる。
――なんでだろう。全然理由がわからない。
緊張しすぎて、途中まで書いていた日誌の、当番の氏名を書くところ――影浦くんの名前を書く手が震えた。影浦まさと、って響きは知っていたけれど漢字までは確証がもてなくて、「あの、影浦くん。まさと、って、雅な人、でよかったよね……?」って、顔を上げられないまま尋ねてしまう。影浦くんは少しだけ間を空けると、ちょっとぶっきらぼうに「……別に平仮名でいいだろ、名前なんて」って言った。合っているとも合っていないとも言わないから、思わず顔を上げてしまった
「え、間違ってた? 『雅』に『人』じゃなかった?」
「間違ってねー、雅雅連呼すんな」
「わ、よかった、間違えてたかと思った……。……雅人くんって、綺麗な名前だよね。雅って漢字、すき」
ほっとしたせいで、つい口を滑らせてしまった。自覚したのは、影浦くんの顔色が僅かに変わったからだ。微かに見開かれた目、何とも言い様のない形に歪んだ眉。いつもマスクで隠れている口元は半開きになって、そこから他の人よりも尖った形をした歯が覗いていた。
ひゅ、と心臓が縮こまる。彼本人に「怖い」って印象はもう抱いていないけれど、緊張が全くなくなったかっていうと、やっぱりそんなことはないらしい。「ご、ごめんなさい」って咄嗟に謝れば、だけど影浦くんの強張っていた顔が、気が抜けたように緩んだ。不意打ちを食らって、困惑しているようにも見えた。乱暴に後頭部を掻いた影浦くんは、「何がだよ、謝る必要ねーだろ」って言う。私はそれに、上手く言葉を返すことができない。
――影浦雅人。
見慣れた私の筆跡で書かれたその名前の部分だけが、光を受けて白んでいるように見えた。
の字は本人の内面を表してでもいるみてぇに丸くて、筆圧が薄い。
不意に下の名前を呼ばれたとき――正確に言えば、それは「呼ばれた」ではなく「口にされた」、だったが――首筋のあたりがちり、と焼けるような感覚があった。ランク戦の最中、攻撃を受ける寸前に感じ取るときのそれに似ているようで、明らかに違う。感情が刺さったと言うよりは、俺の中で何かが動いてそうなったような(実際、から放たれていたもんに俺への攻撃意識は欠片も存在しなかった。ふわふわした、綿菓子みてえに輪郭の曖昧な感情が、くすぐるように俺に纏わり付いていた)、奇妙な感覚だった。
の抱いた動揺と喜びが、瞬きの度に比重を変えながら俺の皮膚を掠めていく。日誌の空白部分を埋めながら、は明らかに隣に座っているだけの俺を意識している。落ち着かない様子で、椅子から腰を僅かにあげ、スカートの襞を整えてから座り直す。
こんな風に緊張させてまで、なんで一緒に居残ってんのか、自分でもわからない。
今から日誌を書くのは面倒だろうとは思った。でも、二人いたって時間の短縮になるわけじゃねえ。二人で書くもんでもねえし、二重でチェックしなきゃなんねえもんでもねえ。実際俺は今手持ち無沙汰だし、が言うように一人で充分だ。防衛任務は明後日までないし、ランク戦も先。誰かと個人戦の約束をしているわけでもねえからボーダーに行く必要はなかったとは言え、それでもコレを優先する理由には決してならないと自分でも分かっていた。
でも、放っておけなかったのだ。
一人でやらせるのは、違う気がして。
一人、また一人と教室から生徒が去って行く。「ちゃん、また明日ね」と、女子が声をかける度、はぱっと顔をあげて「うん、またね」と手を振り返している。再び日誌に目を落とすの、真剣な目。無意識にか尖らせた唇は小さくて、瞬きの度に睫毛の作る影が揺れていた。耳に落ちた髪をかける細い指は、関節の部分が小さい。
俺達以外の最後の一人が教室を出て行った。その直後、急激に人の気配は遠のいて、この箱に俺達だけが隔離されているような錯覚を覚える。磨いた貝みたいな爪。セーラー服の皺。曲線を描く耳朶。つるりとした、指に引っかからなそうな髪。俺とは真反対の生き物。
そろりとが俺を見た。首を傾げて、困ったように眉を下げて。それで、ようやく見すぎていたことに気がついたのだ。
「…………なんか、影浦くんに見られてるとドキドキして字が変になる」
――これ、なんて答えるのが正解なんだよ。
分からなかったから、「……なんでだよ」とだけ言った。口内が乾いていたせいか、掠れた声になった。もどうすべきかをはかりかねていたのかもしれない。何も答えず、視線を周囲に彷徨わせてから、日誌へと戻した。
「変になる」と言う割に、の書く字は整然と整っていた。「体育、男子は今サッカーなんだっけ」と聞かれて、「いや、今日から長距離だったな」と教えてやれたことだけが、俺が今の隣にいる意義みたいなもんだった。
結局は、一人で日誌を書き終えた。
雲の重くたれこめた空は太陽の存在を押しやって、大粒の雨を落とす。晩秋のひんやりとした空気が節電のため灯りの落とされた薄暗い廊下に漂って、足の裏から這い上がるような寒気に思わず制服につつまれた腕をさすった。季節はいつも知らないうちに進んでいて、時々自分だけが取り残されたような気分になる。
窓硝子を叩く雨音に気がついたのは、書き終わった日誌を職員室に届けた後だった(影浦くんとどちらが出しに行くかでちょっと揉めて、結局二人で行ったのだ)。「あ、雨降ってる」とほとんど独り言のように言ってから、はっとした。私、今日、傘を持ってきてない。
「うわ、結構降ってやがんな」
「……ね、これ、すぐやむかなあ?」
「すぐはやまねぇだろ」
「あー、そうだよね……」
さっき日誌を書いていたときには沈黙ばかりが周囲を埋め尽くしていたことを思えば、影浦くんと当たり前のように喋れているのは進歩だと思うけれど、今はそれに喜んでばかりもいられない。だって傘がないのだ。朝は晴れていたとは言え、天気予報を見ずに家を出てきてしまった私が悪い。
バタバタと音を立てて窓にぶつかる雨は影浦くんの言う通りすぐにやむようには見えず、途方に暮れてしまう。走って帰るには雨足が強すぎるし、コンビニで傘を買うにしたってその道中でびしょびしょになるだろう。そんなことになったら、風邪をひく自信しかない。やむまで待つか、その気配がなければお母さんの仕事が終わる時間まで教室で時間を潰すしかない――。
だけどその時不意に頭の上から声が降ってきた。
「傘、忘れたのか?」
いつの間にか、影浦くんは下げていたマスクを鼻のあたりまで戻していた。ぎざぎざの歯は黒いマスクに覆われて、それでも彼の見た目が与える怖さは和らぐことはないって思っていたのに、今の私は彼の目の奥にあるやわい光を見つけてしまっている。
私はそれを、きれいだと思っている。
「うん。実は忘れちゃって。やむまで待つか、迎えにきてもらわないとかも……。影浦くんは?」
「……あー、俺も傘はねぇな」
「わー、そっかぁ……。ごめんね、付き合わせたせいで、天気崩れちゃったね……」
「なんでそーなるんだよ、ボケ」
ボケ。
言われた強めの言葉にびっくりしてしまうけど、影浦くんの方もハッとして、バツが悪そうに「わりぃ」って目を逸らした。咄嗟に強い言葉を使ってしまったことを謝るなんて、私に遠慮がある証拠だ。
いいのに、と思う。
私はもう、影浦くんが優しい人だってこと、知っている。口が悪いけど、いろんなことに気がついてくれる人だって知っている。私が馴れ馴れしく書いた答案の「おしい!」に怒ったりしないし、消しゴムを拾ってくれるし、教科書も見せてくれる。黒板を消すのだって代わってくれる。影浦くんはいい人だ。だから、もうちょっと適当に扱ってもらっても平気だ。村上くんや穂刈くん、ボーダーの人たちにするみたいに、思ったことを言ってもらっても傷つかない。もう影浦くんのことを「怖い」とは思っていないから。それを上手く言葉にできる自信はなかったから、念を飛ばすしかないけど。
でも影浦くんはエスパーでもなんでもないから、私の念になんか気付かない。窓硝子の向こうの空を見上げて、彼は「ひでー雨」って、ほとんど独りごちるみたいに言った。
「こりゃやむまで教室で待ってたほうがいいな」
遠くの空に稲光が走る。本当は直後の雷鳴に「おわ」って声をあげそうになったのに、影浦くんの言葉がどうしても胸のあたりで引っかかって、上手く取れなくて、今は口を開くことができないでいる。