最近の私は、ちょっとおかしい。
 気がつくと影浦くんのことばかり考えている。学校だけじゃなくて、帰り道でも、家でも、ご飯を食べていても、買い物をしていても、机に転がり落ちた飴を取った影浦くんの指だとか、私に向けてくれた、細められた目を思い出している。
 なにか眩しいものでも見るような眼差しだった。そう思うけど、私の脳が再生を繰り返している間に都合良く歪めた幻だった可能性もある。むしろそうでないとちょっと困るかもしれない。影浦くんの笑った瞬間を思い出す度、私は新鮮にドキドキしているんだから。
 そんな日々が続いているうちに、この間はとうとう学校から家までの道中、いつも通らない道をわざわざ選んで、影浦くんのおうちのお好み焼き屋さんとおぼしきお店の前を通りかかってしまった。偶然を装って会おうとしたわけではないけど(そもそもその日、彼はボーダー本部にいるはずだった)、いくらなんでもストーカーだ。というか、ボーダー本部にいるはずとか分かっているのも、まあまあまずい。
 店先にかかった暖簾の「かげうら」って字を認識した途端、急に体温が下がった気がして、お店の外まで漂う油の香りから逃げるみたいに走り去った。変なところで道を曲がってしまったせいで、思いも寄らぬ場所に出てしまったけれど、それに動揺している余裕もなかった。肩で息をしながら、その辺にしゃがみこんでしまいたいのを懸命に堪える。このままじゃ、越えてはいけない線を知らないうちに越えてしまいそうな気がした。








 その日は早朝から防衛任務が入っていて、俺が登校したのは二時間目の授業が終わった後だった。
 休み時間の喧噪につつまれた教室に一歩踏み込んだ瞬間、廊下側の席に座る鋼に「カゲ」と声をかけられる。「任務お疲れ」と続けられたものだから、なにかボーダーに関係する話でもあるのかと思ったが、鋼の口から出たのは「今日お前日直だぞ」とか言う、平和極まりないものだった。



「あ? 日直? マジかよ、だりぃな」



 うちの学校の日直は、隣の席と組まされる。ちらりとの姿が過ぎったのを見透かしでもしたかのように鋼は黒板をちょいちょいと指差し、「手伝った方がいいんじゃないか」と薄く笑った。鞄を肩に引っかけたまま視線を投げれば、そこには背伸びをしながら前の授業の板書を消しているの姿がある。授業後の黒板消しは、日直の仕事だ。
 よりにもよって二時間目は黒板の端から端まで解説を書く(問題集の答えの丸写しだと評判がクソ悪い)生物の教師の授業だったらしく、背の低いが限界まで腕を伸ばしても、黒板は消しきれていないのが見て取れた。軽くジャンプしては上の方を消しているが、明らかに効率が悪い。腕の力が足りないのか、薄らチョークの痕が残ってやがるし。どんだけヘタなんだよ。つか、黒板消しがヘタってなんだよ。
 あまりに苦労している様子を見るに見かねたのか、一番前の席に座っていた男が立ち上がっての肩に手を伸ばしかけた。――その瞬間、何か考えるよりも先に「おい」と声をあげていた。俺の声は低いせいか、意識して腹から出すと良く通る。大股で教壇に上り、びくりと肩を揺らしたの背後に立つ。そうしてみると、はやっぱり小柄で、俺の影にすっぽり収まっていた。視界の端で、立ち上がっていた男が席へと引き返すのを見届ける俺に、「わ、影浦くん、びっくりした、おはよう」って、何も分かってない顔では言う。



「おう」

「ボーダーのお仕事だったんだよね。お疲れ様。えっと、私たち、今日日直だって」

「鋼に聞いた。――それ、あと俺がやるからどいてろ」

「え、いいよいいよ、もうすぐ終わるし。影浦くん、来たばっかりでしょ? 荷物片付けたりとか……」

「俺がやるっつってんだろ、おめーは座ってろ」



 言ってから、言葉尻が強すぎたか、と気がついた。
 これでもセーブはしたつもりだ。もしこれがボーダーの男相手だったら、「おめーは下手くそか、寄越せボケ」くらい言っている。付き合いの深い女子と言ったらとは正反対のタイプのヒカリくらいで、ヒカリなら俺が何と言おうが傷付きはしないし、俺が言い過ぎてれば文句も言ってくる。だがは、ああいう感じではない。言い返すより、飲み込むタイプだ、多分。真正面から俺の言葉を受けて、落ち込んだって仕方ない。
 だが、直後俺に飛んできたのは恐怖でも失望でもなかった。俺の首筋を包み込むみたいな柔らかな感触に、思わず首を押さえる。目の前のの、驚いたような顔。それが緩やかに朱に染まる。…………なんでだよ。



「え、えっと、じゃあ、おねがいします……」



 黒板消し、一旦その辺に投げといてくれりゃあいいのに手渡そうとしてくるからビビった。指先が触れ合いそうになって、はそれでようやく自分の行動に気がついたのか、益々顔を赤くする。
 教壇から下りて、ほとんど小走りで席まで戻るその後ろ姿を、が席に着くまでの間、つい見送ってしまった。そうするとどうしても、すぐそこに座っている穂刈の顔が視界に入る。頬杖をついて俺を見る穂刈は「分かっているぞ。俺は」とでも言いたげで、無性に腹が立つ。だからそういうのやめろってこの前も言っただろ、と言いたいのを飲み込んで、鞄を左肩に引っかけ直した後、から受け取った黒板消しで、薄ら痕の残る黒板を力任せに消した。








 放課後になる頃には、どんよりした雲が空を覆い始めていた。間断ない雲に隠された太陽は、この時期沈むのが早い。
 さっさと帰ろうと席を立ちかけたとき、教室後方まで歩いて来た担任が「やーすまんすまん、昼に渡すって言ってたのに忘れてたな」と俺との顔を交互に見て、それからの方に何かを差し出した。何かと思えば、学級日誌だ。もはっとした顔をして、「あっ、そうだった……私ももらいに行き忘れてて、すみません」と深々礼をしている。会話の内容から察するに、本来なら朝のHRのときに渡されるはずの日誌を担任が忘れた、昼休みに渡すということで話はついていたのに、担任ももそれを忘れていたために今になって持ってきた――ってことらしい。俺も黒板を消すばっかでその存在をど忘れしていたから、二人に対して文句を言える立場ではない。
 担任が教室を出て行った後、は学級日誌を机の上に広げる。当然のように、今日のページは真っ新だ。俺に声をかけないところを見るに、一人で引き受けるつもりらしい。でもそれ、今から書くの、めんどくせえだろ。部活や下校の準備で騒がしい教室をちらりと見回したら、鋼と目が合った。



「カゲ、今日も行くだろ。俺も本部に用事があるから一緒に行こう」



 そう席から声をかけられる。返事を飲み込んで、の机の上に目を落とした。日付、それから今日の当番、そこに俺の名前を書いているを見たら、何とも言いようのない気持ちになったのだ。何も言われちゃいないのに。



「――わり、今日は行かねえ」



 声を通らせるためにマスクを下げて、鋼に向かって言う。そのとき、ぴくりと視界の端のの肩が動いたのを、俺は確かに見えた。



「そうか? 分かった。じゃあまた明日」

「おー、じゃあな」



 軽く手を振る鋼に目だけで合図をして、肩にかけていた鞄をもう一度机に下ろした。椅子を引いて、腰を下ろす。肘をついての方に身体を向けて座れば、だが、は殊更驚いたような顔で俺を見ていた。突き刺さる感情から推測しなくても、の考えていることは分かる。「なんで帰らないの」、だ。
 物言いたげな唇は、言葉を選んでいるのだろう。何度か迷うように動いて、だけど結局何も発することをしないから、笑いそうになった。



「やるんだろ、それ」



 言ってから、マスクを下げたままだったのを思い出す。引き上げるのが面倒で、そのまま頬杖をついた。からの棘のない感情に晒されても、皮膚は引き攣れなかった。目と口を丸くしたまま俺を見るが、「ひとりでできるよ」と弱々しく口にした。お前の声はざわめきの中でも真っ直ぐ届いたのに、俺は聞こえないふりをしている。