すげえ慌ててんな、こいつ。
授業はもう始まってるってのに、の机には珍しく教科書がなかった。机を漁ったり、脇に引っかけてあるリュックを広げたりを何度か繰り返している様子を見るに、多分、家に置いてきたんだろう。珍しいこともあるもんだ。優等生然としてはいても、案外抜けているヤツ、ってのがこの席になってからの俺のへの評価だったが、それでもはこれまで忘れ物の類はした様子がなかったから。
青ざめた顔で机を覗き込んでいたは、しかし思い当たる節でもあったのか、急にはっと息を飲む。それで、そのまま俺と目が合った。咄嗟にやべぇと思ったが、今更視線を逸らすには不自然だろう。
緊張、動揺、不安。それらが全部ないまぜになったような感情が俺の皮膚を掠めていく。
「か、影浦くん」
俺にしか聞こえないよう、極限にまで声を抑えて、は言った。抑揚の少ない、滔々とした教師の声音に比べてそれはずっと弱々しかったくせに、俺の耳はの声だけを器用に拾おうとしている。
「ごめんなさい、教科書、みせてもらえませんか……」
机に放っといた教科書に視線を落として、思わずため息を吐いた。「勝手に使えよ」と渡したって、は「そういうわけにはいかない」って、机を寄せるだろうと分かっていた。
なんで日本史の教科書がないんだろうってめちゃくちゃ焦ったけど、そういえばこの間柚宇ちゃんに貸して、それがまだ返ってきてないんだった。最近日本史の授業がなかったから、すっかり忘れていた。人から借りたらちゃんと返してほしいと思うけど、柚宇ちゃんとはその間に何回か顔を合わせて喋っているくせに貸していることをすっかり失念していた私が言えたものではなかった。多分、柚宇ちゃんも忘れているんだろう。
だから、誓って言うけど故意じゃない。
確かに、机が離れているの、なんだか嫌だなって思っていた。他の皆は隣同士でちゃんとくっつけあっているのに、私たちの間だけにあるその空白は、分かりやすい溝みたいに思えて。でも、それをどうにかしようと思って教科書を貸してほしいって頼んだわけじゃないのだ。机をくっつけたくてわざと忘れたわけじゃない。信じてほしい。……なんて、言い訳みたいにぐるぐる頭の中で考えたって、そもそも影浦くんは私が机をくっつけたいなって思っているってこと自体知らないんだから、意味が無い。
影浦くんは、「教科書を見せてほしい」って頼んだ私を、ちょっと呆れた目で見ていた。もしかしたら(席替えをした直後に勝手に想像していたように)「は? なんでだよ」って断られるかもと思ったけど、ため息を一つ吐いただけで、机を寄せてくれた。「ページわかんねえから、勝手に見ろ」って、あんまり傷んでない、付箋も書き込みもなければチェックもされていない真っ新な教科書を、机と机の間に置いてくれた。影浦くんは、やっぱり、優しかった。
学校生活を送っていれば起こり得るなんてことない日常の一つなのに、その時、なんで私は、咄嗟に声をあげたくなったんだろう。
影浦くんのごつごつした大きな手が、同じ成分でできているとは思えないくらいに精巧な模型みたいに見えた。青く太い血管。手首のあたりの大きな骨。ほんの数秒視界の端に収まっただけなのに、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。いつもよりほんの数センチ物理的な距離が縮まったってだけなのに、無性にドキドキして、意識しなければ呼吸も上手くできなかった。
開いた教科書を見るふりをして、こっそり影浦くんを盗み見る。
窓の外を眺める影浦くんの、量の少ない黒い睫毛。肘をついて、彼は退屈そうに目を眇めていた。マスクに覆われた鼻筋。歯の作りが人より尖っているのも、知っている。
その横顔が、どうしてだかものすごく美しく見えて、うっかり泣きたくなった。
「影浦くん、ありがとう、助かりました……」
「別に、なんもしてねえよ」
「や、先生にも教科書読めって当てられちゃったし、ほんとに助かったので……!」
授業が終わって深々と頭を下げる私に、影浦くんは面倒臭そうに目を細める。以前だったらこの表情一つで萎縮して、逃げ出してしまいたくなっていたと思うけど、もう全然怖くなかった。彼は穂刈くんとか村上くんにも同じように接するって、知っていたから。この表情と声色、態度が影浦くんのデフォルトなのだ。
「あ、あのそれで、影浦くん、お菓子とかすきですか」
会話が途切れて沈黙になる前に、絶対に言う。
授業中からそう決めていたけど、実際に口にするとなると口内がからからに乾いて、舌が上手く回らなかった。だって私、そもそも影浦くんとはまともに話したことなんかなかったんだから。ほとんど席を立ちかけていた影浦くんは「あ?」って短く口にする。
「えっと、その、お礼。よかったら」
リュックのポケットに手を伸ばす。指先が震えて、上手くチャックが開かなくて、力任せに引っ張った。
ポケットの中には、お菓子の詰まったポーチがある。ちょうど昨日、お菓子の補充をしたところだったのだ。個包装のグミとか、ラムネとか。まさかこんなにすぐに機会が巡ってくるとは思ってもみなかったけれど。
「すきなの食べて……!」
お菓子でパンパンに膨らんだポーチを、口を開いてから机に乗せた。無理矢理詰め込んでいたのど飴が一個転がり落ちたその瞬間、だけど影浦くんは、ふは、って、息だけで笑った。
笑ったのだ。
私はそれが、最初、信じられなかった。
聞き間違いかと思って、思わず顔を上げる。でも、そんなことなかった。影浦くんは、笑っていた。背中の窓からの日差しを背に、目を細めていた。眉を下げて、ちょっと馬鹿にするみたいに。
光に透けた輪郭が周囲の景色と滲んで混じり合って、綺麗だった。
「流石に詰め込みすぎだろ、それ」
なんで笑われているのかちっともわからなくて――というか巡らすべき思考が影浦くんの笑顔を前に完全に停止してしまっていて、私は影浦くんがそう口にするまで、彼の顔を間抜けな表情で見上げていた。
はっとして、何か言葉を返そうとしたときには、だけど影浦くんは私のお菓子だまりに手を伸ばしている。彼は迷う様子もなく「んじゃこれ、もらってくわ」って、机に転がり落ちていた飴を取って、そのまま教室の前の方、穂刈くんたちがいる席の方に歩いて行った。
その後ろ姿を見送りながら、時間差で、頬を張られたような気になる。顔に熱が籠もって、心臓がバクバクして、何が何だかわからなかった。
影浦くんが、わらった。
いや、厳密に言えば「笑った」んじゃなくて、「笑われた」の方が正しいのかもしれないけれど。変なヤツ、って思われたのかもしれないけど。それでもいつもイライラして、怒ったような表情でいる影浦くんが初めて私に見せてくれた笑顔に、私ははっきりと動揺していたのだ。
その直後に「やーごめんごめーん、教科書借りパクしちゃってたわー」って柚宇ちゃんが教科書を持ってきてくれたときも、私はまだずっとドキドキしていた。頭は紗がかかったみたいに上手く回らなくて、「ありがとう、柚宇ちゃん……!」なんて手を握りながらお礼を言ってしまったせいで、柚宇ちゃんに「いや借りてたのわたしじゃん」ってめちゃくちゃ怪訝な顔をされてしまったけど、説明なんかできるわけなかった。