柚宇ちゃんと北添くんと別れた後の私は一人、「かげうら」の前で立ち尽くしていた。
 影浦くんの言っていた通り、さっきまで明るかったはずの外はもうすっかり日が落ちている。この辺りの繁華街はまだ店の灯りや人で賑わっているけれど、蔵先町方面まで一人で帰るとなると、確かに影浦くんも心配になるのかもしれない。例えそれが私じゃなくっても、多分こんな風に送っていくって言ったんだろう。
 だから浮かれちゃだめだ。舞い上がって勘違いしてはいけない。分かっているのに、ちっとも冷静にはなれなかった。落ち着かなくて、ドキドキして、せめてこの緊張だけでもどうにかならないかと手の平を広げて「人、人、人」って書いていたら、不意に「わりぃ、待たせた」って声をかけられて、飛び上がるところだった。



「い、いえ、全然待ってない、大丈夫」

「なんで片言なんだよ」



 影浦くんは、エンジンの切った原付を引いて立っていた。おわ、と口にしそうになったのを、どうにか飲み込む。私を送った後その足でボーダーまで行くためなんだろう。以前彼が原付で学校に来ているのを見かけたことがあったはずなのに、今こうしてその姿を間近で見ると、その時どうして何も思わなかったのが不思議なくらいかっこよく見えて、まともに直視できなくて、困ってしまう。
 口を開いたら、「かっこいい」って口にしてしまいそうだった。それはまずい気がしたから、影浦くんが「さっさと行くぞ」って言ってくれて、助かった。








 秋の日暮れは早く、店を出た直後はまだ紫がかっていた空もみるみる暗くなっていく。
 日はとうに建物群の奥に沈んで、疎らな街灯が住宅街に点々と灯りを落としていた。暗渠を辿るのが一番近道――が言うからその通り付き合っているが、大通りから離れたせいで人通りどころか滅多に車も通らないし、いざってときに逃げ込める店もない。普段からこの道を歩いているっていうなら、考え直した方が良い。原付を押して歩きながら、どことなく湿った土のにおいに息をつく。
 最初に俺が「送る」と言ったとき、は分かりやすく動揺していた。なんで。どうしよう。そんなこといいのに。申し訳ない。そういう感情がちくちく刺さって、でも腹の底から俺を拒絶していたわけじゃないのはその言動からみても明らかだった。夥しい「どうしよう」の中に混じった「嬉しい」を俺は知っていたから、だからほとんど押し切るような形でこうしての隣を歩いているのだ。少し強引だったかもしれないが、不審者が出るなんて聞いてしまえば余計に一人で帰らせるわけにもいかなかった。



「――や、やっぱりもう暗くなると寒いねえ」



 秋ってかんじだね! 独りごちるというには朗々と口にするの少しだけ強張った声に、曖昧に返事をする。



「えーっと……影浦くんは暑いのと寒いのだったらどっちが好き?」

「着込める分寒い方がマシだろ」

「そっかぁ……。そういえば影浦くんって、夏も長袖着てたよね。寒がりなの?」

「あー……。まあ、そんなもんだな」

「へえ~、意外……!」



 別に寒がりじゃないが、他人の感情を肌で感じるクソみてぇなサイドエフェクトを持って生まれたせいで、常に皮膚に何かが刺さっているような感覚が纏わり付いてうざってぇとは言えなかったから、適当に流した。
 俺はこのサイドエフェクトが、物心ついたときから鬱陶しくてたまらなかった。余計なもんまで見えちまうせいで神経を逆撫でられるわ、表情と感情が揃ってない相手にいちいち嫌悪を覚えるわで、ちっとも良いもんなんかじゃない。そう思っていたくせに、それでも今こうしての隣にいるとき、の心を確認してどこかで安堵している。
 の「どうしよう」を肌で感じながら、何も言わずにいる。
 不安と緊張。俺への申し訳なさ。それから――喜び。それが妙にくすぐったくて、慣れなくて、つい原付を支える腕をさすった。その様子を見たは、俺の押している原付と俺とを改めて見て、「ええと、影浦くんもこのあと、ボーダーに行くんだよね?」と尋ねた。放課後一緒に居残ったときもそうだったが、はよく喋る。沈黙が苦手なのかもしれないと、頭の端で思った。



「まあ国近んとことは違って非番だけどな」



 は「非番」と噛みしめるように繰り返すと、小さく頷く。の目には、未だ微かに緊張の色が滲んでいる。



「そういえば影浦くん、隊長さんなんだよね」

「あ?…………なんで知ってんだよ。んなこと話してねーだろ」

「あ、その、さっきお店で柚宇ちゃんが影浦くんのことそう呼んでて……影浦くんが席を外してるときに」

「あー……あいつ余計なこと漏らしやがって」

「私、ボーダーのこと全然わかんないけど、隊長さんなんてすごいね」

「すごくねーよ別に。何十ある隊のうちの一つでしかねぇ」

「ううん、私たちのこと守ってくれてるんだもん。それで、隊長さんなんでしょ?……かっこいいなあって思う」



 そう口にしてから、ははっと目を丸くする。「かっこいいって言っちゃった」とでも思っているんだろう。いちいち肌で感じなくてもその表情でそう考えているのが分かるから、こいつといるのは楽だった。
 の本心から出た「かっこいい」に少しも動揺しなかったとは言わないが、何と返すべきか分からなくて、つい口を結ぶ。でも、礼なんか言えなかったとしても、「そーかよ」くらい言ってやりゃあよかった。口を滑らせたことを後悔しているらしいは、ほとんど無意識といった様子で前髪を整えた後、カーディガンの袖口を引っ張って、国近が取ったっていう、どっかで見たようなとぼけた顔のライオンを腕に抱えて、目線を足元に落としていた。薄闇に溶けるその横顔を、が俯いているのをいいことに、ただ見ていた。
 首の裏あたりにリボンのついたカーディガン。制服のときよりも丈の短いワンピースから出る足は白くて頼りない。やわくまとめた髪はが歩く度に揺れていた。いつものリュックとは違う、財布と携帯くらいしか入らなそうな小さな鞄。……俺の知らないだ。国近と店に現れたときは驚いたが、恐らくこいつは国近に、ほとんど無理矢理連れてこられただけだったんだろう。暖簾をくぐったときの困ったような顔が、その所在なさを如実に表していた。
 はうちみたいな店で飯を食うのは初めてだったらしい。「お好み焼き屋さん初めてだから」と口にされたとき、それを染みこませるみたいに瞬きをした。ゾエのぬるい視線が鬱陶しかったが、反応したらは兎も角国近にはバレそうだったから、足を蹴飛ばすこともできなかった。国近が席を移動していたせいでの正面に座る形になったときはつい舌打ちしてしまったが、あれも仕方ないだろう。俺だってこいつを目の前において、意識しないわけにはいかないのだ。
 はお好み焼きを焼いてやっただけだってのに、えらく感動していた。育ちが良いのか、箸の持ち方から食い方まで綺麗なやつだった。「おいしい」と目を輝かせたときの顔が、目に焼き付いていた。
 柄にもなく、嬉しかったのだ、あれが。



「……臭い、ついたんじゃねえの」



 俺の口にした言葉に、は「え?」と顔を上げる。
 きょとんとした顔だった。俺の言葉を理解しかねているような。
 と関わるようになって、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。「もう」と呼ぶべきか、「まだ」と呼ぶべきなのかは、いまいち判然としない。それでも俺がこいつの一挙手一投足やこいつから放たれる感情にいちいち意識を持って行かれているのは間違いなかった。のことを考えると、強張っていた感情が解けていくのを、俺は知っていた。
 これはが俺に向けている感情と同じものだ。そんなのとっくに認めていたのだ。



「店、油臭かっただろ。臭い、うつってねえか?」



 折角髪も服もお洒落してんのに。
 そういう意味で言った言葉だったが、ややあってからようやく目を丸くしたははっと息を飲むと、袖や髪ではなく、何故か「においするかな!?」と、持っていたライオンのぬいぐるみを勢いよく持ち上げ、確かめるように自分の鼻に押し付けた。
 なんでだよ、と思ったのだ。これまで何度もそう思ったように。



「え、わかんない……! 気になんないけど……!」



 正直、意味がわからなかった。そんなつもりで言ったんじゃなかったから。
 普通、ぬいぐるみより他に気になるとこあんだろ。服とか髪とか、良いのかよ。自分よりもらったぬいぐるみなのかよ。
 ――変なヤツ。
 そう言いたいのに、いつまでもぬいぐるみを気にしているがどうにもツボに入っちまって、口に出来ない。しかもあろうことか、は俺の鼻先にまでそのぬいぐるみを差し出してきたのだ。「多分大丈夫だと思うんだけどどうかな……!?」って、バカみたいに真剣な顔で。
 笑わないやつなんかいねえだろ。
 ぶは、とマスクの下で吹き出した。目を細めて、堪えきれず微かに頭を下げる俺を、は驚いたような顔で見ていた。



「――なんで自分の方気にしないんだよ、おめーは」



 今日折角可愛い格好してんのに、そっち気にしてどうすんだ。そう口にしたとき、は何か、暗闇の直中でどこかに光源でも見つけたかのような顔で、俺を見た。
 住宅の連なる暗渠の脇。車のライトが近づいてくるのを背中で感じて、ほとんど無意識にを腕で庇いながら、込み上げる笑いに目を伏せた。背後を流れるテールランプ。の顔が一瞬、オレンジ色に照らされた。ライオンのぬいぐるみは未だ俺の鼻先にあって、笑う合間に息を吸ったとき、そこからは確かに馴染みの油のにおいがした。――おい、めちゃくちゃ臭いすんじゃねーか。なんで毎日店にいる俺の方が臭いに敏感なんだよ。笑いの沸点が低くなったせいかちっとも収まらないもんだから、マスクが口に張り付いて鬱陶しくて、つい指先で顎まで下げた。の目は、空に散る星をそのまま映したみたいに、きらきらしたまんま。



「あー……。クソ、なんなんだよお前」

「ご、ごめんなさい……?」

「んで謝んだよ……。はー、おもしれぇ」

「おもしれぇ……!?」



 自身に自覚はないんだろう。動揺と不審が、けれど他のやつらの発するものよりはずっと柔く俺を撫でていく。



「お、面白くはないよ……? いつも真面目だよ……!」



 知ってんだよそんなこと。
 から向けられる感情は、いつも仄かなぬるさがあった。今はもう慣れたけれど、最初の頃、俺はそれがくすぐったくて――くすぐったすぎて、少し気持ち悪かったのだ。
 はじっと俺を見つめている。「なんで笑われてるんだろう」。「嬉しい」。「好き」。「好きだ」。「大好き」。その目と漏れ出る感情が、切々と訴えていて、俺は、俺なんかの何がいいんだよと思う。
 は、だいぶ男の趣味が悪い。なんなら最悪だと思う。俺よりもに相応しい男は大勢居る。もっと真面目で、口が悪くなくて、例え身内がコケにされても手を出さない誠実で優しい男。そう言うヤツの方が、絶対いい。
 でも、譲りたくなかった。怖がっていたかと思えばテストに馴れ馴れしく「おしい!」とか書き込んで、消しゴムを落として絶望していたかと思えば俺が拾ってやったことにえらく喜んで、コロコロ表情が変わる。が広げたお菓子のポーチ、いつもパンパンに詰まっていて、感情で溢れたお前みたいだった。背が低いのに背伸びして、懸命に黒板を消しているところ、俺に見られていると緊張して字がおかしくなるとか言うところ、表も裏もなくて、嘘なんか吐けないところ。俺とは違って真面目なところ、そのくせ要領がさほど良くないところ、全部顔に出るところ、俺の行動にいちいち一喜一憂して、今みたいに眩しいものを見るかのようにいてくれるところ。雨の降る空を見上げるほの白い横顔。俺の焼いたお好み焼きに見開いた目。ちっせぇ口。
 今すぐ自分のものにしたかった。
 でも、いくらサイドエフェクトでからの好意を知っていたとは言え、せめて俺の方は「好きだ」と口にしておくべきだったな。
 鼻先のぬいぐるみをどかして、その唇にほとんど噛みつくようなキスをするより先に。



「――んぇ」



 身を乗り出したから、片腕で支えていた原付がぐらついた。の持っていたぬいぐるみがアスファルトの上に落ちて、歩道側に転がる。晩秋の風が、の髪を浚うように撫でていた。顔を離した俺を見上げるの、ぽかんとした顔。乱れた前髪を指で払って、額に触れる。――こいつの全部が世界で一番可愛いと思うが、そんな言葉は俺らしくなさすぎて決して口にはできない。
 言葉にしなくてもわかってほしくてそのまま額に指を擦りつけたら、はたっぷり十秒は間を置いてから唇を両手で押さえ、「え、えぇ~……!」と、裏返った声をあげて、そのまま後ずさった。
 きらきらした目だった。いつかの青を吸い上げて、永遠に光っているような。
 サイドエフェクトがなくても今ので充分俺の気持ちは分かっただろうに、「な、なんで」と口にするから、つい、小さく笑う。「今ので分かれよ」と言った瞬間、の目が少しだけ見開かれた。の指の下で、その口が「嘘」って動いたのを、見ていた。



「……好きじゃなきゃこんなことしねぇよ」



 瞬間、皮膚を貫かれるほどの衝撃を受けたのは、一生の笑い話だ。
 は俺の言葉に口元を押さえたまま、わあ、と声をあげて、ちょっとだけ泣いた。








 影浦くんは、人の心が読めるらしい。
 厳密に言えば、他人の考えていることが一言一句分かるとかそういうものじゃなくて、他人が自分に向ける感情の種類が皮膚感覚でわかるっていう類のものなんだそうだ。ボーダー隊員として戦うために必要なトリオン能力っていうものに関係があって、その影響で生じた力を総称してサイドエフェクトって言うんだって。
 いまいちピンとこなかったけど、でもそれってつまり、彼の隣にいる私の感情は常にダダ漏れだったってことだ。怖がっていたことも、緊張していたことも、好きだって思っていたのだって。その事実に気がついてショックを受けていたら、影浦くんはいつかみたいに小さく笑って、「でもお前、大体顔に出てるから意味ねえんだよな」って言った。「――楽でいいわ」って。それが影浦くんなりの「好き」なんだって思ったら嬉しくて、嬉しくて、さっき止まったばかりの涙がまた目の奥で熱を持って、困った。
 今まさに私の気持ちが影浦くんには手に取るように分かっているっていうのは承知の上で、すきだ、って思う。すき。影浦くんのぶっきらぼうな優しさも、いつも怒ったような顔で周囲を遠ざけるところも。念じるみたいに好きだって思っていたら影浦くんは横目で私を見て「やめろバカ」って言った。懐に入れてもらえた気がして、嬉しかった。
 柚宇ちゃんが取ってくれたぬいぐるみを抱きかかえて、ちかちかと星の瞬く夜の道を行く。ひんやりと澄んだ秋の空気は清廉としていて、思わず背筋が伸びる。



「明日学校に行ったら、机くっつけてもいい?」



 どうせ考えていることがバレているんだったらと思って、思いきってそう言った。影浦くんは「はぁ?」って眉を寄せたけど、最後には「好きにしろよ」って、呆れたように口にした。