「ま、また明日ね、影浦くん……!」
「…………おー」
――犬。
最近のを見ていると、昔まだうちが東三門の方にあった頃近所で飼われていた犬を思い出す。
今時珍しい外飼いで、身体の小さい柴犬だった。確か名前はコロ。人が通りかかる度慌てて小屋の奥に引っ込むくらい小心者だってのに、頻繁に前を通りかかっていたせいか俺には懐いて、俺の顔を見るとひょっこり顔を出して、尻尾をぶんぶん振っていた。
はあの犬に似ている。身体が小さくて、感情が分かりやすいとこ。俺が来ると微かな緊張を孕ませながらも「おはよう」や「またね」と言い、それに返してやるとほっとしたような顔で緊張を解いて、喜んでいるのを隠す様子もなく笑う。単純なやつだった。俺の皮膚を刺激するくすぐったいそれとの表情に、一切の矛盾はなかった。から漏れ出るのは、いつも真っ直ぐすぎるくらい歪みのない感情だった。
俺のこと、怖がってたはずなんだけどな、こいつ。
採点の交換とか消しゴム拾ってやったとか、それだけで懐かれてしまったってのは、今でも理解し難い。
おはようとかまた明日とか、そういう挨拶は(未だに緊張はするけど)ちゃんとできるようになった。たぶん、それなりに自然に。自分のことを客観的に見たことがないからわからないけど。もしかしたら私、すごく変な顔で挨拶しちゃっているのかもしれないけれど、でも影浦くんはいつも「おう」って返事してくれるから、いいってことにする。机は相変わらず隙間が空けられているけど、良く考えたら影浦くん、誰と隣でもそうしていたような気がするし。最初は嫌われているんだって思ったけど、そんなこと、ないみたいだし。……多分。
あんなに怖いと思っていた影浦くんは、見た目がそうってだけで、本当に普通の男の子だった。
退屈そうに授業を受けて、村上くんたちと話すときは気を抜いていて、噛み殺す気のないらしい欠伸はいつもおっきかった。勉強は好きじゃないみたいで、ノートはあんまり取ってなかった。おうちはお好み焼き屋さんって聞いたことがあるけど、お昼ご飯はお好み焼きじゃなくてパンを食べていることが多かった(友達は、「学校でお好み焼き食べなくない?」って言う。確かにそうかもしれない)。机の端っこに置かれた手は大きくて、指は筋張っていた。良く知らない人の話を、村上くんとしていた。知らない単語は、いくつも聞こえた。ボーダーの話だと思う。聞かれて困るような話はしないだろうけれど、一応聞こえないふりをして聞き流していた。
ボーダーのお仕事って、大変そうだ。訓練とか、ポイントがどうとか。防衛任務のため、いつも誰かしら、途中で帰ったり、遅刻してきたりしている。彼らは高校生でありながら、私たち市民を近界民から守ってくれている。
ちょっと前までは、影浦くんが防衛任務でいないとき、私はほっとしていた。これで緊張しなくて済む、って。でも、今はもう違うのだ。私は影浦くんがお仕事で教室にいないとき、なんだか物足りないような気がしている。「カゲ、明日防衛任務だっけ?」村上くんが尋ねたそれに「あー、午後からな」って答える影浦くんに、そっかあ、と思っている。
隣の席が空っぽだと、窓からの光が真っ直ぐ届きすぎて、ちょっと目に痛い。
影浦くんのことは隣の席に偶々なっただけで、友達になったとか、そんな図々しいことは思っていない。
なんなら影浦くんの方は、私の名前も知らないんじゃないだろうか。これまで一回も同じクラスになったことはなかったし、話(というか、ほぼ挨拶だ。今のところ)をしたのだって、この席になってようやくだから。個人的な連絡先なんか、勿論知らない。影浦くんのおうちのお好み焼き屋さん、多分ここかな、って薄ら思ってるけど、行ったこともない。
私たちはただのクラスメイト。冬になって、春がくれば、もう会うことすらも二度とないかもしれない希薄な関係。そうじゃなくてもこれから先また席替えをして隣同士じゃなくなったら、また挨拶すら交わさなくなるんだろう。目も合わせなくなる。それはなんだか、寂しいな、と思った。せめてお友達とは言えなくても、連絡先を知らなくても、挨拶のもう一個向こう側、どうだっていいお話ができるくらいの関係にはなりたかった。「私から話しかけたりしないからゆるして」って、席替えをした日の私は思っていたのにね。
理由はわからないけど、それでも私は影浦くんのことが、もうちょっと知りたかった。影浦くんが穂刈くんたちと話をしているとき、影浦くんたちがど忘れして思い出せなかった芸人さんの名前を、知ってるよ、って自然に教えてあげられるくらいにはなりたかった。もやもやうずうずして結局話に入れないのは、ちょっと嫌だったから。
だから私はその日、ものすごい勇気を出して、ばくばくの心臓に見ないふりを決め込みながら「影浦くん」と呼んだのだ。
三時間目の終わり、「防衛任務」のために早退する影浦くんに、「がんばってね」って言えたら、もう一歩進める気がして。
影浦くんは、名前を呼んだ私のことを、何か信じられないものでも見るような目で見ていた。私の緊張を全部知っていて、これから私が何を言おうとしているか、既に分かっているみたいに見えた。そんなの、絶対気のせいだろうけど。
あれだけ怖かった影浦くんの目は、でも、もうちっとも怖くなくて、それだけで充分な気もしていた。
午後から防衛任務が入っていた。
二日にいっぺん程度回ってくるそれのために早退や遅刻になるなんて、別段珍しいことじゃない。そんなんだから、俺じゃなくたって鋼とか穂刈、水上――その辺の誰かしらが教室から欠けているのなんて、当たり前の光景だった。俺以外のあいつらが、「頑張れよ」だの「よろしくな」だの声をかけられているのを見ることだって、しょっちゅうあった。
別に、なんにも思っちゃいねえ。俺にそーいう言葉を向けてくるヤツがいねえのなんざ、気にしたこともねえ。ただ、この日三時間目の授業が終わってすぐ、鞄に荷物を放り込む俺の首筋にちくりとした感情が突き刺さったとき、が「か、影浦くん」って、緊張した声色で俺の名前を呼んだのを聞いた瞬間に、あ、と思ったのだ。
おはようだとか、また明日だとか。そういうのを俺に言うときにが未だ放っている細やかな緊張より、その時俺の首筋に走ったそれは、よっぽど重かった。自白する寸前の人間みてぇな感情の塊。定規で引っ張ったみてぇに真っ直ぐで裏がないの感情は、いつも角が取れていた。それが俺にはくすぐったくて――くすぐったすぎて仕方が無かったってこと、きっとは知る由もないんだろう。
「えっと、影浦くん。ボーダーのお仕事、がんばってね、気を付けて……!」
そんなこと言うやつ、俺の周りにはいなくて当たり前だったんだよ。
頭を殴られたような衝撃があった。の感情が俺を殴っていったんだと思いたかったが、実際のところどうなのか、判然としない。ただマスクの下で口元が引き攣ったのだけは間違いなくて、それを誤魔化すように一度、咳払いをした。
俺に向ける感情じゃねえだろ、それ。
喉元まで出かかった言葉を、だけど口に出すことはできない。なんと言うべきか正解がわからなくて、いつも挨拶を返すときと同じような、曖昧な返事をした。そんなんでもほっとしたように、嬉しそうに笑うはやっぱり、昔俺に懐いていたあの犬に似ていた。