授業中、影浦くんの席の方に消しゴムを落としてしまったときは、「終わった」って思った。
もうシャーペンのおしりについている小さい、どう頑張ったってちゃんとは消せないこの消しゴムもどきを使うしかないって思ったのだ。だって、拾ってくださいってお願いできる気がしなかったから。だけど私の消しゴムが転がり落ちたことに気がついた影浦くんは、私から頼まれもしないうちに自身の椅子を軽く引いた。自然な仕草だった。それで、身体を折って、窮屈そうに腕を伸ばして、私の消しゴムを取ってくれたのだ。
びっくりした。
ほんとに、ほんとにびっくりした。時が止まったみたいだった。拾ってくれるんだ! って思った。面倒臭がる素振りも見せず、舌打ちもせず、影浦くんは拾った私の消しゴムを、私の机の上に置いてくれた。咄嗟に口にした「ありがとう!」って言葉には、「おう」って、低く返してくれた。頭を掻いて、彼はそのまま、窓の外に顔を向けた。
今あの瞬間を思い出しても、目の端っこのあたりで小さな光がぱちぱちと爆ぜるような感覚がある。影浦くんの手の中で、私の消しゴムはいつもよりずっと小さく見えた。机の上に転がったそれが、宝石みたいに見えた。胸の内側がふわふわして、黒板の字も、教室の前の方に貼られた校訓も、皆の背中も、全部全部輝いて見えた。
影浦くん、怖い人って思っていたけれど、そんなことない。すごく優しい人なんだ。そう友達に話したら、「普段行いが悪いヤツが一個良いことしただけで良いヤツに見える原理じゃないの?」って言われてしまった。そうかな、って考えたけど、でもどれだけ頭を巡らせたって私自身は影浦くんに何か酷いことをされたことなんて一回もない。怒鳴られたことも、うざいって言われたことも、嫌悪の滲む目で見られたこともない。机や椅子を蹴られたことだってない。全部私が、勝手に空想していただけ。そういうことをされたらどうしよう、って一方的に怖がっていただけ。
本当になんにもなかったのだ。私たちの間には「同じクラスの人」っていう、今年限定の薄らした関係性が横たわっているだけだった。それは来年以降空気に立ち上って、なかったことになってしまうものだった。
影浦くんは本当は優しくて、性根の真っ直ぐな人なんじゃないだろうか。春にクラスの男の子の机を蹴飛ばしたのも、いつもイライラしているように見えるのも、何か事情があるからなのかもしれない。私が勝手に怖がっていただけなのかもしれない。
そう思ったら、なんだかうずうずした。私は影浦くんのことを怖いとは、もう思っていなかった。私の中にあった影浦くんの像は、この数日で呆気なく壊れてしまっていた。
お話してみたいな、と思ったのだ。
折角隣の席なんだもん。せめて挨拶くらい自然にできるようになりたい。いや、する! そう決意した隣の席に、いつも通り遅刻ギリギリで影浦くんはやって来た。挨拶なんかしたことは今まで一回もないけれど(私は彼が登校する度背中を丸めて、ひっそりと息をしていた)、でも今日言えなかったら私の決意はしおしおに萎びて一生言えなくなるだろうっていうのは、きっと間違いじゃなかった。
両の手を拳の形に握りしめて、欠伸をかみ殺しているような表情を浮かべて鞄を机に放る影浦くんの顔を見る。丸まった背。学ランのポケットに突っ込んだ両手。それから、長い、鬱陶しそうな髪、その下の目はこの教室にいる他の誰よりも鋭かった。今日のマスクは黒くて、益々怖く見えて、ほんとはぎょっとした。心が、ちょっとだけ折れそうになった。でも、今しかない。
ざわつく教室で息を吸う。他の人に言っているって勘違いされないよう、影浦くんの顔を、きちんと見る。私が口を開くより先に、影浦くんも私を見てくれた。心臓が爆ぜ散りそうだった。顔に熱が籠もっているのを自覚したまま、「影浦くん」って、名前を呼ぶ。かげ、までひっくりかえって、顔から火が出そうだった。でも、言葉はもう引っ込めなかった。目を丸くして私を見ている影浦くんに、それで、言ったのだ。やっとの思いで。
「お、おはよう……!」
影浦くんは、椅子に腰を下ろすこともしないまま私を見下ろしていた。急に挨拶なんかしてしまったせいで、びっくりさせたんだと思った。実際、影浦くんは言葉もないまま、多分きっかり三秒くらいは固まっていたと思う。もし影浦くんが「……おう」って口にするのがあと少し遅かったら、息の止めすぎで酸欠になるところだった。
「おう」がおはよう、ってことなんだろうか。瞬きを一つしたその後、影浦くんは目を逸らして、マスクを指先で引き上げながら低く、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの声量で続けるから、ほんとは、わあって声にしたかった。
「………………はよ」
その「はよ」が私にとってどれだけの価値があったのかを、影浦くんは、きっと知らない。
教室に入っての背後を通り過ぎたあたりから、朝からミョーな感情飛ばしてんな、とは思っていた。
恐怖や侮蔑とは違う。張り詰めまくった緊張だ。悪意の籠もったもんよりはマシだが、これほどでけえとなると、正直不快じゃねえとは言えねえ。皮膚にたてられた爪に身体中を引っ掻かれるような感覚に、こっそり息を吐く。ここまでに緊張される理由が、ちっともわからなかった。
お前、なんで俺に緊張してんだよ。俺が何もしてこねえってことくらい、もう分かってんだろーが。
無視するつもりだったのに、ついの方を見てしまったのは、があからさまにこっちを見ていたからだ。物言いたげな、大きな目。こんな風に目を合わせられるのは初めてだった。は俺が席に着くと、いつも身を竦めるようにして存在を消そうとしていたから。
座っているせいか、はいつもより小さく見えた。肩に落ちる、癖のない髪。机の上で握られた手は、力んでほとんど震えていた。瞼がゆっくりと瞬いた直後、が俺の名前を呼ぶ。
「影浦くん」
少し裏返った、柔らかい声。俺に向けられる人間の声の中で、こいつのそれは抜きん出て丸かった。
「お、おはよう……!」
は? と言いかけたのを飲み込んだだけ、上出来だ。
おはようって、俺に言ってんのか。どういう心変わりだ? てか、それ言うのに、あんな馬鹿みてぇな緊張抱えてたのか、こいつ。
本気かよ。
の「おはよう」は、だけど間違いなく俺に向けられたもんだった。は俺を見ていたし、そもそも「影浦くん」と、直前に呼ばれていたのだから。――ボーダー隊員以外からこーいう風に挨拶されんのは、いつぶりかもわからねえ。狼狽がモロに顔に出そうになって、「……おう」と口にしながら目を逸らした。「おはよう」とちゃんと続けるべきか、そこで止めるべきか迷って、だけどの、飯を待つ犬みてぇな目が突き刺さって、変に胸のあたりが疼いて、結局マスクを引き上げながら、口にしてしまう。
関わり合いになる気なんかなかったのに。
「………………はよ」
こんなん、ゾエあたりに見られたらぜってぇなんか言われるな。
一体何が嬉しかったのか、の顔が分かりやすく輝いた。瞬間、春のぬるい風が肌を撫でるような感覚が全身を通り過ぎていって、それに思わず呼吸が止まる。昨日消しゴムを拾ってやったときと似た――だけどそれとは全く比較にならないくらいの、大きな感情の塊。それをまともに食らって、ぐらりと眩暈がしたのだ。耳のあたりがくすぐったくて、熱い。胸がざわざわして、内臓を引っかき回されているみたいだった。肌を刺されるような普段の痛みとは明らかに違う。違うのに、煩わしい。全身を掻き毟りたくてたまらない。
挨拶を返してやっただけで「これ」って、なんなんだよ。こいつ。
言いたくても言えなかった。席に腰を下ろして、机に肘をつき、が視界に入らないよう、得体の知れない痒みに堪えながら窓の方へと僅かに身体を捻る。
制服で覆われた腕のあたりは、粟立ったような感触が続いていた。いつまでも消えない感覚に隣のをこっそり盗み見れば、は嬉しさを隠しきれない様子でいたから、教室のざわめきに飲み込まれるくらいの大きさの舌打ちをして、今度こそ机に顔を突っ伏した。