影浦くんは授業態度があんまり良くなくて、起きてきちんとノートをとることはごく稀。窓の外を見ていたり、机に突っ伏して眠っていることの方がよっぽど多かった。
それでもそういう状況を先生たちから見て見ぬふりをされることが多いのは、影浦くんが先生たちから見ても怖いからなのか、彼がボーダー隊員だからなのか――どっちなんだろう。よくわからない。私がボーダー隊員になって、影浦くんと同じことをしてみて、もし私だけが怒られたら前者ってことになるんだろうなとは思うけど、そんな実験は規模が壮大すぎてできそうになかった。それにそもそも、私みたいな鈍臭い女はボーダーもお断りだろう。ボーダー隊員はやっぱり、影浦くんたちみたいに運動神経の良い人が求められているんじゃないかと思う。なんて、内情を知らないから、憶測でしかないのだけど。
隣の席になってからこんな風に影浦くんのことを意識してしまうのは、彼が私の書き込んだプリントの「おしい!」に何の反応も示さなかったことが影響しているのは間違いない。
怒られると思った。椅子や机に蹴りを入れられたっておかしくないと思った。なのに影浦くんは眉の一つも動かさずにいたから、びっくりしたのだ。想像と、全然違っていて。彼が窓の向こうを見ているのを良いことに、こっそり視線を送ってしまう。
癖の強い、量の多い髪。離れて見ると、ウニみたいだと思っていた。絶対言えないけど。目に入りそうなそれに時折鬱陶しそうな顔を見せるのに、短く切ったりする気はないみたいだった。いつも不機嫌そうに細められている目。表情はマスクや髪で隠れているけれど、彼がいつもイライラしているのは、誰にでもわかる。
だけど、彼は私に怒らなかった。睨むことも舌打ちをすることもなかった。私の想像していた影浦くんより、隣の席の影浦くんは、角のない人なのかもしれない。実は、あんまりこわくない人なのかも。
とは言え彼の隣に座っていて緊張の一切がないとは嘘でも言えない――っていうのが、ここ最近の私の本音だ。影浦くんの機嫌が悪そうなときはハラハラしすぎてお腹が痛くなるし、影浦くんが咳払いをしたらびくりと身体が跳ねた。遅刻ギリギリで席につく影浦くんに「おはよう」って言えたことは、まだ一回もなかったし、ボーダーのお仕事が入って彼の席が空くと、相変わらず肩の力が抜けた。
拳一個分の隙間の向こうで、影浦くんは今日も退屈そうに窓の外を見ている。先生が読む古文の文章が、なにかの呪文みたいに午後の気怠げな空気を纏った教室をふわふわ揺蕩っていたけれど、影浦くんの耳にはなんにも届いてなさそうだった。その自由な感じがいいな、って、ちょっとだけ思ったけど、目が合いそうになって、全部飛んだ。
この席になってから一週間が経って、皮膚に生じる感覚が微妙に変化してきているのは何となく分かっていた。一番近い場所――要するに真隣のだ――からの「恐怖」が、僅かに形を変えはじめているのだ。
つっても針で刺されるような痛みが、爪をたてた指が皮膚を緩く走るような感覚になったってだけだ。煩わしいのには変わりねぇし、俺が欠伸やくしゃみをするだけでそれはまたチクチクしたもんに戻る(俺の生理現象なんかにいちいちビビってんじゃねーよと言いたいが、俺の体質を知る由もない人間にこんな話しても仕方ないから、口にはしねぇ。それに言ったら言ったで、多分怯えさせるだけだろう。俺は口も悪ぃし、目つきも悪ぃから)。でも、怖がられているより緊張されているだけの方がマシなのは間違いなかった。……勿論、俺に伝わってくる感覚の、ウザさの種類に関しての話だ。痛ぇよりは引っ掻かれるだけの方が気にならないからな。
数センチほどの隙間を空けた隣の席で、は俺と目が合わないよう細心の注意を払いながら、背筋を伸ばして座っている。シャーペンを離さず、教師の言葉を一つも聞き逃すまいとしている。そうして眺めていると、は、やっぱりどうしたってこんな俺とは生きている世界が違う、遠い場所にいる人間に見えた。
「あっ……!」
授業中、短い悲鳴が聞こえたと思った直後、視界の端で黒い何かがの机から転がり落ちていったのを見た。
隣の席から息を飲むような音が聞こえたのと、深く突き刺さるような痛覚が身体に走ったのは、ほとんど同時だ。不意打ちだったもんだからその不快な感覚には思わず眉を寄せたが、には見られてはいなかったと思う。つーか、の視線は、が今落としたらしい消しゴムにしか注がれていなかった。丁度俺の足の下に転がり落ちた、黒い消しゴムに。
終わった――とでも思ってんだろう。俺のサイドエフェクトは他人の心を完全に読むなんて万能なもんじゃないが、その顔には分かりやすくそう書いてあったから、出かかった舌打ちをどうにか飲み込んだ。他人に、にそんな顔をさせたいわけじゃないのだ、俺だって。
席替えをしてから日が経ったとは言え、隣同士でも会話をすることなんか滅多にないから、の俺への印象は、恐怖から緊張へと微妙に形を変えた状態のままだ。好印象は抱かれていないってのは猿でも分かるから、授業中は寝たふりで距離を取った。ペアでの学習も小テストの交換もあれ以来なかったから、問題はなかった。
そんな中で、の消しゴムが落ちた。
俺の足元に転がった消しゴムだ。気付かなかったなら兎も角、気付いていて拾わない、なんて意地の悪いことは、自身の性根の悪さを自覚している俺であっても流石にしない。拾ってくれって頼まれたわけじゃないから、少しも逡巡しなかったとは言わねえけど。
自分のだったら適当に足を使ってこちら側に転がしてから取るが、俺のじゃねえしそんなことは勿論しない。椅子を引いて、身体を縮めて机の下に手を伸ばす。床と椅子が擦れる音に紛れて、が「わ」と漏らした。わ、ってなんだよ。なんの「わ」だよ。角の丸まった消しゴムに手を伸ばしながら、腹の奥で考える。
だけどその瞬間身体を駆け巡った言い様のない感覚を、どう表現したもんだろう。
肌が粟立って、全身の毛が逆立ったような気がした。だけどそれは俺を警戒させる類のものではないのだ。初めてではない。「これ」を向けられたことがなかったわけじゃない。ゾエなんかからはしょっちゅう飛んで来るそれを、だけど俺は、から向けられるとは思っていなかった。
たかだが消しゴム一個、拾ってやったくらいで。
「ご、ごめんね。影浦くん……!」
俺のこと、消しゴムも拾わねえ男だと思ってたのかよ、こいつは。
「ありがとう……!」
「……おう」と口の中で呟いて、拾ったばっかの消しゴムをに差し出しながら、思わず眉を寄せる。目を輝かせ礼を言うが俺の手から消しゴムを直接受け取ろうとした瞬間、それよりも早く机の上に置いてしまったのは、胸のあたりがむず痒くて仕方なかったからだ。
嫌悪や恐怖、嫉妬、敵意、憎悪――そういう感情を向けられる方が圧倒的に多い分、プラスの感情にはどうにも慣れない。
くすぐったくて、どうにも落ち着かなくて、マスクを鼻の頭まで引き上げた。
――調子が狂う。
から俺に対する「恐怖」がかき消えたのは、その日のそれがあったからだ。感情受信体質とかいうサイドエフェクトにはうんざりさせられてはいるが、そういうのがはっきり分かるのは、案外嫌なもんでもなかった。