怖がられてんのは分かってたから、が意を決した様子で机をくっつけてきたとき、自分の机をのそれから指数本分だけ離すようにしてずらした。
瞬間、さっきまでピリピリしていた肌に爪で引っかかれたような痛みが走って、舌打ちしそうになる。なんだよ、離してやったんだから喜べよ。なんでショック受けてんだよ、こいつは。
は俺と机の隙間を見比べ、目を丸くしている。だけど机と机の間に生まれた指数本分のその隙間を、そこから詰めようとはしなかった。何も言わずにそのまま椅子に腰を下ろして、しゃんと背筋を伸ばして、まだ騒がしい教室の後方から教師の顔をじっと見つめていた。
皮膚の痛みはいつの間にか遠のいたが、またいつもの不快な感覚が纏わり付く。これには慣れているとは言え、うんざりしねえとは言えない。こっちを気にしないようにしているんだろうが、悪い意味で意識してんのはバレバレだった。
机に肘をついて、気を紛らわせようとすぐ隣にある窓の外に目をやる。消しきれない落書きの跡が残る壁も、葉の落ち始めた木々の隙間から見える無人のグラウンドも、アホみたいに晴れた空も、席替えのくじごときで騒ぐクラスの連中も隣のも全部が遠く感じて、そうしているうちじわじわ眠気がやってくる。マスクの下で欠伸をしたら、がびくりと肩を揺らして、俺の皮膚まで強張った。なんでだよ。欠伸しただけじゃねえか。誰も取って食いやしねえよ。
は俺の様子を視界の端で窺って、それから分かりやすく胸を撫で下ろす。俺の一挙手一投足を気にしすぎだろ。うざったくて、苛ついた。
教室の一番後ろの窓際。一番後ろってだけで当たりどころか大当たりの部類に入るんだろうが、こいつからしたら俺が隣ってだけでそうでもねえんだろう。そう思うと薄ら悪いような気持ちも芽生えるが、くじなんだから仕方ない。こればっかりはお互い様だ。
同じクラスってんじゃなければ接点すらも生まれないだろうタイプのは、俺に酷く怯えていた。同じクラスになったこの春から、ずっとだ。
例え俺に「感情受信体質」なんつーサイドエフェクトがなくてもわかるってくらい、あからさまに。
影浦くんは、怖い。
目付きが鋭いし、髪の毛とかマスクで表情が全然見えない。姿勢があんまりよくなくて、舌打ちが多くて口も悪くて、手も靴も一つ一つが大きくて、男の子! って感じ。それで、なんか、いつもイライラしている。三年生になって初めて同じクラスになったけど、話したことなんか一回もなかった。ボーダーに所属しているってのもあって、私とは別世界にいる人みたいだった。
別に、ボーダー関係者が珍しいってわけでもない。うちの学校ってボーダー提携校だからボーダーで活動してますよって人は大勢いるし、だれだれに助けてもらったとか、だれだれがこの間入隊試験を受けたとかって話もよく聞くから。だから私が影浦くんに感じる距離感みたいなのは、多分それが影浦くんだからなんだと思う。
だからそんな影浦くんと隣の席になったとき、どうしよう、って思った。
影浦くんと隣なんて、鼻をかんだだけでも睨まれそう。うっかり教科書を忘れても見せてくれなそう。お腹が鳴って舌打ちされたら、生きていけない。それでも意を決して通例通りに机をくっつけたら、全然普通に離された。横にしたシャーペンの長さの半分くらいの距離が私と影浦くんの机の間に作られてしまって、びっくりした。嫌われてるんだ。わたし。全然知らなかった。
引いたくじが一番後ろの席だって気付いたときは、やったー、って思った。多分影浦くんも、やったー、って思ったと思う(影浦くん、やったーって絶対言わなそうだけど)。なのに私がとなりで、きっと物凄くがっかりしただろう。机をくっつけたくないくらい嫌な女が隣に来るなんて、想像しただけで申し訳なくなる。
だけど同時に、ものすごく胸が痛かった。お腹までしくしくした。自分だって影浦くんのことを怖がっているくせに、嫌われていたと知ったら傷つくなんて、なんて嫌な女なんだろう。そっと影浦くんの方を盗み見たら、影浦くんは多分、欠伸をしたところだったみたいだ。マスクの下の口が大きく動いて、ぎょっとした。口、想像してたよりおっきかった。私の三倍は開いてる気がした。サメみたいで、慌てて目を逸らした。
いっそ黒板が見えないって嘯いて、誰かと席を交換してもらうべきだろうか。それこそ、前の方に座っている穂刈くんだったら、影浦くんと同じボーダー隊員同士で影浦くんも嬉しいかもしれない。でも、そんなことしたらあんまりにもあからさまだ。かえてください、って手をあげる勇気だって、そもそも私にはない。
影浦くん、ごめんなさい、私から話しかけたりしないから、ゆるしてください。懺悔するみたいに手を組んだ。私にはそうするしかなかったのだ。
「じゃあ隣の席の人と交換して採点。答え合わせしていきます」
英語の教師がそう言った瞬間、びり、と皮膚に引きつれたような痛みが走った。こんなタイミングで受信するってことは、この痛みを生んだのは以外にない。
席替えから数日が経ったが、は未だに俺の存在に慣れないらしかった。朝教室に入った俺が机に荷物を放れば、びくりと身体を揺らす。鋼や穂刈が俺んとこに来て話し始めようもんなら、居心地悪そうにそそくさと席を立つ。ボーダーの仕事で早退するってなれば、わかりやすくほっとする。――こういう態度を取られること自体慣れてはいるが、顔にも感情が出るせいでいちいち意識に引っかかる。
どうせ、今も「嫌だ」とか思ってるんだろうな。肘をつきながら隣を見れば、は目と口を丸く開けて教師を見ていた。すげー顔。どうせ一番後ろの席だし、教師もそこまで見てないんだから、交換なんてしねえでそのまま丸つけすりゃあいいのに――というか、これまでこういうことがある度にそうしていた俺は、今回も交換する気なんかさらさらなかった――だけどは躊躇った様子で自分のプリントを手に取ると、数秒の間の後、震える手で俺の方にそれを寄越したのだ。
一瞬、意識が奪われた。
「あ、あの、おねがいします、影浦くん」
それは小さい、だけど思っていたより、良く通る声だった。
長ぇ睫毛は怯えたように震えて、俯きがちの目は俺とは合わない。丸く切り揃えられた指は白くて、ささくれの一つもなかった。
俺の解いたのと違ってみっちり答えの埋められたそれは、が見た目通りクソ真面目な性格であることの証左だろう。でも、これ、マジで交換すんのかよ。ほとんど手つかずの自分の答案に、薄ら後悔のような思いが混じるが、どうしてそんな感情を覚えるのかも説明ができない。今まで隣になったやつらは、誰も俺に自分のプリントを寄越してはこなかった。
――わけわかんねえ。
自分の解いた空欄まみれのプリントを一瞥して、無意識に舌打ちする。瞬間はびくりと肩を震わせて、そのせいかこっちにも微かな痛みが走った。マジで、マジでめんどくせえ。俺が怖いんだったら、無視すりゃあいい。席だってくっつける必要ねえし、プリントを交換する義理だってねえだろ。直接言ってやろうかとを見たら、は怯えた犬みたいな目で俺を見上げてたから、喉元まで出かかっていた言葉が全部そのへんに引っかかって、出てこなかった。
ああ、クソ。なんだってんだよ。自分のプリントをに押し付ける。それからちょっと遅れて、変な、本当に変としか言いようのない感触が肌の表面を走って、息が止まった。咄嗟に視界に入れたは俺のプリントを両手に「成し遂げた」とでも言わんばかりの顔で小さく息を吐いていた。その横顔に、一体どうして思考が止まりかけたのか、それが俺にはわからなかった。
ぼーっとしてたわけではない。ちゃんと、いつも通り採点をしていた。でも、そのいつも通りが曲者だった。影浦くんと交換したプリントの、前置詞だけミスがあった英文に、つい「おしい!」って書き込んでしまったのだ。
気がついた瞬間さっと血の気が引く。この前まで隣の席が気の置ける友達で、そういうのをお互いのプリントに気安く書き込んでいたものだから、うっかりしていた。答案を交換するっていうミッションをクリアした後だったから、ちょっと気を抜いていたのだ。
おしい! じゃないよ。そんなこと書かれたら、影浦くん、怒っちゃうよ。でも今更どうしようもない。ペンで書いてしまったこの「おしい!」はもうどうにもならない。消すことなんか、絶対にできない。魔法なんか使えないし、時間も戻らないんだもん。
先生の「じゃあ隣の席の人とプリント戻して。解説に入ります」で、殊更肩が震えた。どうしよう、どうしようと焦ったけれど、影浦くんが私のプリントを放って寄越すから、逃げ場がなかった。「ど、どうぞ」って、乾いた口で言った言葉はちょっとだけ裏返って、泣きたくなる。なんで私って、こうもだめな女なんだろう。
影浦くんが、丸つけのなされたプリントに目を落とす。心臓がバクバク音を立てて、吐きそうになる。よくて舌打ち、逆鱗に触れて、椅子とか机とか、蹴られてもおかしくない。私は影浦くんに、そういうイメージを抱いていた。多分、春にクラスのお調子者の男の子の机を蹴飛ばしていた印象が強くて。
身構えていたけれど、影浦くんは、そのまま肘をついて黒板に目を向けていた。私の書き込んだ、馴れ馴れしすぎる「おしい!」に、彼は何の反応も示さなかった。
――ゆるされたんだろうか。
わからない。わからないから、こっそり彼の顔を盗み見る。
重たい前髪に隠れた影浦くんの、涼しげな目。眼光が鋭くて、いつも怒っているみたいで、普段は怖くて見てられなかった。だけど、彼は何も言わない。おしい、くらいじゃ、怒んないのかな。大丈夫だったってことで、いいのかな。
彼は全然、私のことなんか気にしていなかった。そしたら急に身体から力が抜けて、ほとんど無意識に、深い息を吐いていた。
影浦くんが実は人の感情を察知できる力を持っていて、その時の私を、私がまき散らしていたらしい感情ごと「変な女」って思ってた――なんてことを私が知ることになるのは、それから大分、後のことだった。