十回目のループだった。
その起点を「目覚め」と呼ぶのなら、それは明らかにこれまでのものと毛色が異なっていたと言って良い。僕は花畑にいた。頭上に広がる青空も、遠くに見える鬱蒼とした木々の連なりも、色とりどりの花々も、そこに一人座る見慣れぬ少女の姿も、何もかもがこの宇宙を漂う星間航行船において異質だったせいだろう。受け止めるのに、数秒の時間を要してしまったのは。
花冠を編む亜麻色の髪をした少女が、時折こちらに親愛の情を感じさせるような目線を向ける。口元に携えられた穏やかな笑みは柔らかく、何か、相手の心を解すような類のものであるように思える。まだこの船には、僕の知らない人物がいたらしい。
「……だが少女とは、やがて消えゆく儚い奇跡」
僕の背後に届いたのは、耳にしたことがない声だった。顔だけで振り向けば、そこにその男はいた。首元まできちんと閉じたシャツに黒いリボンタイを締め、上着を肩にかけた男は、中折れの帽子の下から覗くその瞳を花畑に座る少女へと向けている。
「私のような中年男には……フフ、いささか眩しすぎるな」
この風景は恐らく紛い物だろう。不自然なほど、草いきれの匂いがしない。時折頬を撫でるこの風は、恐らく人工のものだ。あの船の中で投影設備があるところと言えば、展望ラウンジくらいだろうか。夕里子と話した夜を思い出す。あれから彼女とは一度も出会っていないけれど、セツの口ぶりから彼女の存在は明らかだったし、そのうちまた対面することになるのだろう。
考え事をしながら男の顔を見ていたら、男は無精髭に覆われたその口角を僅かに引き上げた。「どうした、チハル。このジョナスを憐れんでくれるのか?」ここがD.Q.Oの中でしかないと言うのなら、このジョナスと言うらしい男も、たった今花冠を完成させたあの少女も、今回のこの船の乗員だ。
時にグノーシアと対峙し、時に自身が汚染され、いつまでも何かの手の平で踊り続けるように繰り返すこれは、何かの舞台のようだと思う。ククルシカと呼ばれた口をきかない少女に手招かれ、僕はその手から花冠を渡される。その時彼女が僕に向けた笑顔を、僕はどこかで、見たことがあるような気がした。
直後、一瞬の暗転の後、味気ない展望ラウンジの広い空間に僕たちは戻される。花畑のイメージ投影は強制終了されたらしい。
「乗員の方は全員、メインコンソール室に集合して下さい」
「……ふむ、何とも無粋なことだが……。事態は切迫しているようだな。仕方あるまい」
LeViによる緊急対策会議が開かれる旨を伝えるアナウンスがどこか淡々と響くのを、二人はさして動じる素振りも見せずに聞いている。こんなこと、二人からすれば初めてのことだろうに、冷静なものだ。
もしもここにやしげみちがいれば、あからさまに顔色を変えて、はっきりと狼狽したんだろうけどな。特別分かりやすい二人のことを考えている僕を、ククルシカは場にそぐわない、穏やかな微笑を浮かべて見つめている。
いつもの、と言って良いのか分からないけれど、夕里子を除いたメンバーにジョナスとククルシカが並ぶと、コンソール室はそれなりに狭苦しく感じられた。ざわつく室内に最後にやって来たのがで、彼女は空いていた僕の隣の椅子に、遠慮がちに腰を下ろす。
「あの後ほんとに寝ちゃってたから、アナウンスが鳴って飛び起きちゃった」
独り言か、反対隣に座っているジナに向けた言葉なのかと思ったけれど、彼女は僕を見ていたから、一瞬言葉に詰まる。「この中に二人もグノーシアがいるなんて、ほんと、びっくり……」声量を落としながら、は窺うように僕を見た。その顔色は青白く、彼女が一人室内で散々狼狽えた様子が目に浮かぶ。
「あの後」と言う彼女の口ぶりから、ループの起点、つまり展望ラウンジに向かう前に「僕」はと会って、何か話をしていたのかもしれないということは推測できる。だけど今の僕はそれを知らないから、ボロを出して彼女に不信感を与えないようにしなければならない。それはグノーシアの存在が確認された船内において、不利にしか働かないから。
「折角ルゥアンから脱出できたと思ったのに、不運だなあ……」
は視線を明かりで淡く反射するコンソールテーブルの表面に向けた。ほとんど独り言のようだったそれには返事をしない。というか、相槌程度しか打てないのだ。だって僕はこの騒動に巻き込まれる前の記憶を持ち得ていない、何一つとして。ルゥアンという星でグノーシアに襲われ、この船で辛くも脱出できたのが僕達で、それ故互いの事情を深くは知らないというこの状況が、僕のある一点から(この場合、ループの始点である)における記憶喪失という事実を覆い隠してくれているのは疑いようがなかったからこそ、それが作る影から不用意に出るような真似はできなかった。
その時、僕の視界の片隅で華美な衣装の袖が動いたのが見えた。はは、と言う、どこか乾いた笑いは良く響く。
「不運だなんて、随分悠長じゃない?」
僕の右隣で肘をつき、僕越しにを笑うラキオに、彼女は分かりやすく眉根を寄せた。
「この閉鎖空間において二体もグノーシアが確認されている。運良く立て続けに敵をあぶり出せたとしても、少なくとも今夜一人は存在を消されてしまうね。つまりこの状況じゃ、この中の誰か一人は明日には確実に消滅しているってことになるわけだけど」
「……そんな言い方しなくたって」
「言い方も何も事実だよ。直視しない方が問題だ。そうだろう? チハル」
棘があるが、ラキオの言わんとしていることは分かる。グノーシアでない人間を誤って眠らせてしまった程度であればいくらでも取り返しはつくが、グノーシアに消された人間は、それで終わりだ。輪郭が捲り上がって、弾けて消えたSQを、僕は今も覚えている。
「……まあ」
頷く僕に、がショックを受けたようにぱっとその目を見開いた。この子は本当に感情が表にも言葉にも出やすくて、危なっかしいなと思う。でも、彼女がグノーシアだった場合でもそれは変わらなかったから、そういう意味では信用しきるわけにもいかないのだけど。
分かりやすく落ち込むと対照的に、ラキオは僕を見つめたままそっとその瞳を細めた。
「で、チハルはこんな差し迫った状況だって言うのに、余裕そうじゃない。もしかして、君がグノーシア?」
探るようなラキオの物言いに注意深く首を振りながら、対角線上に座るしげみちが喋ることのできないククルシカについて話し合いで不利になってしまうのではないかと心配している姿を見る。ククルシカは大仰とも思える身振り手振りで僕達の意識を引きつけた。問題ないとその表情が告げていた。僕よりも、言葉を発することができないらしい彼女の方が余程雄弁であるようだった。
自分でも良く分からないのだけど、僕は何だか、声を張り上げることが億劫なのだ。まるで遠い昔に、全てのエネルギーを使い果たしてしまったようにすら思える。汎化手術の施された形跡のある身体を見下ろしながら、僕はどこかに置き去りにしてきてしまった自身について、静かに思いを巡らせている。