「それでは、空間転移まで、カウントダウンをいたします」



 コールドスリープ室を出ようとしたその直後、しげみちに呼び止められて話に付き合っているうちに、思った以上に時間が経っていたらしい。
 しげみちと別れ、部屋に戻ったタイミングで響いたLeViの声音に、ほとんど無意識にベッドへと向かう。これまで七度のループを繰り返したことにより習慣化したせいだろう。横になって、冷たいシーツの感触を感じながら天井を見上げるが、「これ」は今の僕に必要なことだろうかとぼんやり考える。
 グノーシアは、空間転移の際に人を消していく。つまり僕はこれからラキオと共に誰かを消滅させることになるのだ。LeViのカウントダウンが始まる。羊側でないのは初めてだ。しげみちは、この状況に分かりやすく怯えていたな。「でも多分、なんとかなるよな、な!」そうしげみちが前向きな発言をした瞬間隣に居た僕こそが彼の恐れるグノーシアだと言うのに。散漫な思考は、やがて先ほどコールドスリープ処置の施されたステラへと至る。
 あれは上手くいった。ステラは相手の細かなところまで具に観察する人間だから、なるべく早々に眠ってほしかったのだ。票が散らばったのは予想外だったけれど、僕とラキオもそれぞれ別の人間に入れていたし、僕らが繋がっているとも考えられにくいだろう、あと個人的に厄介なのが、経験豊富なセツと、掴み所のないシピ。それとコメットもか。彼女は嘘を見抜く目を持っているから。あの三人も早い段階で消してしまいたい。
 グノーシアとして自分の思考はとうに汚染されていて、それに対する違和感は、先の話し合いの時点で泡になって溶けて消えた。底にこびりつく「僕」の原液は多少はどこかに残っているかもしれないけれど、それもいずれこの本能に飲み込まれてしまうだろう。



「5、4、3、2、1……」



 LeViによるカウントダウンが0になる。その瞬間、視界に映っていた全ての景色が歪んで、音を失った。



「……?」



 横たえていた身体を起こし、目だけで室内を眺める。
 肌に触れる空気の感覚が違う。それまで微かに聞こえていた空調の音、下層から間断なく響く動力炉の低い唸り、その全てが停止していた。「……時間が止まった」と呟いたのは無意識で、だから、部屋の扉の方から「そうだけど?」と返事が返ってきたとき、驚いたのだ。目を見開いてしまう程度には。



「空間転移は汎可能性演算を使うからね。端末である僕や君が、グノースと接続されるのは当然だろう?」



 ラキオだ。
 ラキオは灰色がかった室内の中、扉に背を預け、どこか悠然とした表情で僕を見つめている。
 汎可能性演算。端末。グノース。
 ラキオの口にした単語を一つ一つ脳内に並べてみても、理解が及ばなかった。グノーシアになったからと言って、この身に起きた全てを知ることができるわけではないらしい。「よくわからない」と素直に言えば、ラキオは眉一つ動かすこともせず、「ふうん」と答えた。さして興味もないようだった。



「まあ理解する必要はないよ。そして君に説明する気もないよ」



 本当に人間ではないのだな。こんな時に改めてそう思ったのは、ラキオの身体が、水の中に落とした油が滲んで広がったときのような色をしていたからだ。目を落とせば、僕自身の手の平もラキオと同じ、人ならざる者のそれであることが分かる。人間でないのは、僕も一緒だ。
 理解する必要はない。その通りだ。僕はグノースの徒として、全ての人間を消滅させる義務を持つ。それについて原理を解明しようだなんて、烏滸がましいと思わないか。ベッドから立ち上がった僕に、ラキオは「誰を消すかは君に任せるよ、チハル」と、投げやりとは決して言い難い、丁寧な声音で告げた。その目がまるで、僕を試すかのように細められている。



「ちなみにこんな接続状況だ。一度に一人しか消せないよ」



 せいぜい慎重に選ぶがいいさ。と。
 その選択によって今後の全てが左右されるのは間違いないが、恐らく自信があるのだろう。例え僕がどれほど愚かな選択をしたとしても、自分だけは使命を全うすると。或いは、僕を量っているのか、その両方か。
 ラキオがそういう風に僕に投げるだろうことは想定の範囲内であったから、僕はさして考える素振りを見せもせず、彼女の名前を答えた。今この段階で最も目障りな人間ではなく、それを消すための前段階の、準備の一つとして。今夜消すなら彼女だと、僕はステラのコールドスリープを見届けながら思ったのだ。



「へえ」



 その瞬間、ラキオの口角が緩く上がったのを、僕は確かに見た。



「……うん、悪くないンじゃない?」



 どうやら合格とみなされたのだろう。そんな顔を、ラキオはしていた。
 そして僕達は、彼女をこの宇宙から消滅させたのだ。自室で横になる彼女は僕達と違って、実に平生のままの姿だった。時の止まったその部屋の中、ベッドに横たわり、呼吸すらもしていない彼女の輪郭に、ラキオに促されるまま、触れた。僕達は正しいことをしていた。己の代わりに他人を救うことを決めた。あのときに。
 何一つ覚えていないくせに、おかしな話だ。
 指先がその身体に接した瞬間、人間の形をしていたそれが境界線から膨れ上がって、捲れて、弾けて、音を立てて。



「良い旅を。SQ」



 そしてSQは、泡のように消えてしまったのだ。
 粒子になった彼女は、そして辿り着くだろう。
 どこに?
 どこだっけ。








 グノーシア反応を警告する、赤い光の明滅を瞼の裏に感じて目を覚ます。
 空間転移の直後はいつもぼんやりしてしまいがちだけれど、今日の覚醒速度はこれまでと一線を画していた気がする。タオルケットにくるまりながら、恐る恐る、顔の前で手を開いた。自分の身体と意識がきちんとここにあることを確かめて、それからそのまま頬に触れる。あったかくて、やわらかい。ちゃんと生きてる。そう実感しないと、まずは立ち上がることすらも億劫だった。
 耳に入るだけで不安になるような警告音は、だけど心構えをしていたからどうということはない。船内に少なくともまだ一人グノーシアが存在していることは分かりきっていたし、もう一回は話し合いをして、グノーシアと思われる人物を炙り出さなくちゃいけなかったから。
 でも、やっぱり胃が痛いな。



「乗員の皆様は上申された手続きに従い、グノーシア汚染者を排除してください。繰り返します。空間転移完了時にグノーシア反応を検出いたしました」



 淡々としたLeViのアナウンスにこっそり顔を覆いながら、誰が消されちゃったのかな、って、考えている。ラキオとジナは、昨日ラキオと話した通り、多分、うん、ないんだと思う。だから、それ以外の誰か、セツかシピ、SQ、チハル、それからコメットとしげみち。一人一人の顔を思い浮かべたら、お腹の底がぞわぞわと粟立つような感覚になってしまった。
 昨晩ラキオと別れた後、私は食堂に居たコメットに飛びついて、色んな話をした。ラキオにされた話、今の自分の心境、これからどうなるのか不安だとか、そういうことを。コメットはうんうん、って頷きながら聞いてくれた。
 ラキオのことが好きかもしれない、とは、だけど結局言えなかった。自分でも、自信が持てなかったのだ。これはただの生存本能なのではないか、ということを、私自身が否定できなかった。汎であるラキオに対してそう考えるなんて、おかしな話なのかもしれないけれど。
 コメットは時に神妙な顔で同意して、時に私の不安を笑い飛ばした。コメットと向かいあっていると、自分の中に沈殿していた、やわい塊が、徐々に解れていくみたいにその輪郭を滲ませていく。私の陰になった汚れを、コメットはその光で漂白してくれる。



「そんな心配しなくてもさ、大丈夫だって。ほら、守護天使? ってヤツもいるんだろ? グノーシアから守ってくれるらしいじゃん」

「そうだけどさ、でも、グノーシアに襲う対象を見失わせるって言っても全員を守れるわけじゃない。その権限を持った人が襲われるだろう人間を読み違えたら、別の誰かが消されちゃうんだよ」

「へー、そりゃ大変だ」



 軽い口調でそう答えるコメットに、何か引っかかるものを覚えて、テーブルの上に落としていた視線をあげたその時だった。



「でも守護天使が生きてるうちは、ずっと誰かを守り続けられるってことだろ。全員は守れなくてもさ」



 細められた目が私を見ている。真っ直ぐ、慈しむように。交錯した視線の先で、コメットの口角がはっきりと上がる。
 ルゥアンから脱出した私たちのムードメーカーだったコメットは、あの時も私を立たせようとしてくれた。今も。



「だったら大丈夫じゃん?」



 何の根拠もそこにはないのに、私は確かに救われている。
 だから、今日だってきっと大丈夫だ。ベッドの中で、拍動を刻む心臓を服の上から押さえる。
 もしもこの日消されていたのが、昨日コメットが投票していたSQでなければ、コメットは誰からも疑いの目を向けられることがなかったのだろうか。いや、それか、私もSQに投票していたら、その疑惑は二分されたのかもしれない。今更思ったって、そんなのもうどうしようもない。



「昨日、SQを疎ましがっていたのはコメットだろう」



 その日のコンソール室は、酷く息苦しかった。
 それまで口火を切ることをしなかったチハルがそう言ったとき、もしも私がきちんと庇えていたら、コメットは不審の目に晒されることなんかなかったかもしれなかった。隣り合って座ったコメットがテーブルの下の私の手を制止するように取らなければ、でも、私は本当に立ち上がって、何の確証も無いままにコメットを擁護したのだ、きっと。
 コメットの手は柔らかかった。だけど、温度がもう、分からない。コメット。私はコメットを守りたいのに、どうかは大人しくしていてくれよ、って、その指先が私に言う。
 その場にいた全員からの無遠慮な視線を浴びたコメットは、笑いもせず、真っ直ぐチハルのことを見つめていた。分が悪いことを、彼女は知っている。それだけで殴られたような気持ちになる。
 チハルの発言にラキオも、しげみちも同意した。シピは何も言わず、エンジニアとしてシピの潔白を宣言したジナは、その表情からでは感情が読み取れない。セツ、どうかお願いだから、この場を打開する何かを放って寄越して。祈っても、セツもやがてコメットへの疑念をその唇から漏らす。



「……チハルの言う通りだ。SQと敵対していたのがコメット。疑いを向ける理由としては充分だろう」



 息が止まる。
 笑ってよコメット。私に大丈夫って言ったときのような、無敵の少女になって。
 私の腕をもがないで。




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