シピもまた「そう」だと気がついたのは、船の下層にある格納庫に、彼が私を探しに来た時のことだった。
適温に保たれている船の中で、格納庫のある下層はコールドスリープ室が存在する影響か、何となく肌寒い。詰まれたコンテナの影に隠れるようにして座って、制服の上から身体をさすり、立てた膝に顎を埋める。
この船の元の持ち主の趣味なのか、広々とした格納庫には船での生活に必要な食料やプラント材料以外にも、訳の分からない骨董品の類が多かった。皆の認識として、この船の船長はルゥアンでグノーシア騒動に巻き込まれ死亡、いや、消滅させられたものとされているから、これらは本来の意味での所有者を既に失っているのだけど、それでも無数に詰まれたコンテナや箱の中身を覗いてみようという気にはならなかった。そもそも、権限自体無いわけだから、箱に手をかけた時点でLeViから警告があってもおかしくはないのだけど。
私は一人になれる場所を探していた。それで最終的にこの格納庫に辿り着いたのだ。大型とは決して言えないこの船は、どこにいても常に人の気配が付きまとって、どうにも息苦しかった。部屋に居れば誰かが私を呼びに来るとも限らなかったし。その点、ここは人気がなくて、一人で息を潜めて休むのには打って付けだったのだ。
なのに、どうしてシピの気配は、彼が目の前に立つまで感じ取れなかったのか。
私の身体を覆うように伸びる影があった。私はそれで、自分を見下ろしている人がいることに気がついたのだった。
「見つけた」
シピは私の前に、音も、気配もなく現われた。私の周囲に詰まれたコンテナの一つに手を添えて、覗き込むように「ここにいたんだな。」といつもの穏やかな声を向けてくれた。心許ない電球を背に、その表情は、翳って妙な凄味があるように見えたけれど。
私はただ、シピの細められた目を見上げている。
「ラキオが探してたぞ。……誤魔化しておいたけどな。案外、仲良いのな、お前ら」
シピが突然現われたことにびっくりしすぎて、息ができなくなってしまった。三角座りのまま、いつもと変わらずに微笑んでいるシピを見つめる。シピの首にぶら下がる黒猫の尻尾が、くるんと丸くなっているのを、視界の端に留めている。
「……シピ」
目の前にいてもシピの気配を感じ取れない理由が、すぐには理解できなかった。
だって、私は人間が発するありとあらゆるエネルギーに疲れてしまったからここに隠れていたのだ。人間がそこにいる、っていう感覚が、ありありと分かるようになってしまって、それがどうしても苦しくて。
彼らが発する熱が、自分のテリトリーに入った瞬間に感じ取れてしまう。私はそれを受け取るうち、早く消してあげなくては、と脳の端で考える。私が「こう」なって、そんな風に思ってしまう自分に違和感を覚えていたのは確かなはずなのに、今となっては最早使命のように脳がそれを受け入れている。私の思考は飲まれている。これまでの十八年分の私の表皮が剥がれ落ちて、核だけを残したまま新しい皮を与えられた。
消してあげよう。早く消してあげよう。それが皆の幸福だ。そういうことを考えていると、段々目の奥が熱を持って、ぐるぐる渦巻くような感覚になっていく。そのときの異様なまでの熱だけが恐ろしい、そんな感覚だけが、まだ、まるで人間のように残っている。
シピの瞳の中で、私は憔悴したような、酷い顔をしていた。
「辛いか?」
シピはいつも、大きな口を開けて笑う。ルゥアンから逃げ出すまではブルーカラーだったと言うだけあって、引き締まった体躯をしている人だった。穏やかな低い声音はあまり感情的になることがなく、いつも落ち着いている。何となく自分と他人との間に線を引いているような距離感を常に持っているけれど、私にとってはお兄さん的な存在で、それは多分、皆にとってもそうで。だけど彼は誰にも自分側に踏み込ませようとはしない。
シピは時折、泣きそうな顔で笑うのだ。諦めたみたいな目で、困ったように眉尻を下げて。
シピは猫のお尻を支えたまま、私の前にしゃがみこんだ。目線が合いやすくなって、そこで私は初めて、彼が今その「泣きそうな顔」をしていることに気がついてしまう。
辛い、と、泣きつきそうになった言葉が喉の奥に押し込まれる。私は変わってしまった、と言うよりも、変化の途中で、まだ人間の部分が残っていて、それが息苦しくてたまらない。誰かと一緒にいるのが辛い。今夜は皆でゲームをしようって、前から話して決めてたのに、このままじゃ集まれそうにない。だけど、シピももう人間じゃないって分かって、それだけで、崩れそうなくらいに安堵している。シピがいるなら大丈夫だ、って思える。
「…………ううん、シピは、大丈夫」
「はは、そっか。なら良かった」
楽じゃないよな、グノーシアってやつもさ。
シピがそんな風に言ってくれるから、泣きたくなるのだ。まるで人間だった頃みたいに。
「あん時からだろ? この前の停泊地で、外に出た」
シピの言葉に目を伏せる。シピの言う「あん時」に心当たりはあった。「多分そう」と答えたけれど、そのほとんどが掠れてしまう。抱えた膝に力を込めて、丸くなる。
グノーシアは人から人へ感染することはない。異星体グノースに触れた者だけがグノーシア汚染される。言葉だけが一人歩きしている状況で、その異星体とやらが実際どういう形状のものであるのかについては未だ解明されていない。
私の星では、初等教育どころか、その前の幼児の段階で親から学ぶことだ。危ないから、ってことなんだと思う。親元を離れて別の星へ旅立たなければならない私たちは、そういう危機管理を徹底されるから。だけど、そのグノースっていうのが何であるか分からないんじゃ対処しようがなくない? 幼い頃から漠然と抱いていた不満を初めて他人の口から聞いたのは、ルゥアンにやって来て間もない頃だ。
「前から思ってたんだけどさあ、そのグノースってのが何か分からないんじゃ注意しようがないよ。知らないうちに触ってたらもう無理じゃんね」
ルゥアンの学生寮は二人部屋で、同室のミラはそんな風に思っていることをずけずけと口にする女の子だった。見た目も派手なタイプだから最初は仲良くなれるか心配だったけど、入学初日の学長の、どこでも聞くような当たり障りのない、或いはこれまでの人生において幾度となく聞かされ続けてきた面白みのない話を長々とされたことが、私たちに妙な連帯感を与えたのだった。
「ね!ほとんど都市伝説じゃんってずっと思ってた。大人は皆真剣な顔してるから、言えなかったけど」
思わず気安い口調で同意してしまった私の言葉選びが面白かったのか、「都市伝説!」とミラはからからと笑った。柔らかな金色の髪が、安っぽい灯りに反射して、そこだけがきらきら輝いているみたいだった。
あれから数年が経って、私はその都市伝説だと思い込んでいたグノースに、知らないうちに触れてしまっていたらしい。シピの言う通り、この前の、あの星系でのことだろう。
先日の停泊地で船を下りたのは私だけじゃなくて、全員だ。それなりに栄えた星だったから、各々が好きに行動していた。しげみちと屋台で不思議な食べ物を頼んで、SQと洋服を見て、ベンチから動こうとしなかったラキオの隣に座って、船の中でもできるような雑談をした。「さっき君がしげみちと食べてたものはアレだろう? 良く口に入れようだなんて思えるな。食べ物とは思えない、酷い色じゃないか」なんて良く通る声で言うものだから、思わずその口を塞いでしまったけれど。
あまり外に出たがろうとしないチハルを引きずってたのはコメットだったし、セツがジナやステラと並んで歩いていたのも見かけている。シピはふらりと姿を消して、集合時間になるまで戻ってこなかったけれど、私たちは確かにあの星で、同じ何かに触れたのだ。異星体グノースだとは知らないままに。
或いは、そうと分かって触れたのか。導かれるように。
何度思い出そうとしてもあの日の一部分にぽっかりと空いた穴のようなものがある。虫食いのようになったその穴の中で、私は人間であることを手放した。
後悔なんか、していないのだ、だって、私は使徒だから、彼らを導くための、敬虔な。だから、何もかもが正しい、渦巻くような感覚も、目の奥の熱も、ありとあらゆるもの、シピと二人、彼らを救うために与えられたもの。
グノーシアとしての使命を上手く果たせるか分からないし、失敗したときのことを考えると、それが少し怖いけど。
私の内心を掬い上げるみたいに、シピは優しい。
「んな顔すんなって。絶対守ってやる、とは言えねぇけどさ、のことは見捨てたりしねぇよ」
シピの大きな手の平が私の肩を叩いた。それが合図みたいになって、私はそれまで自分を覆っていた得体の知れない不安から、ほんの少しだけ解放されたのだ。
「とりあえず、行くか。いつまでもここに居たら後で様子がおかしかったことを責められるかもしれないだろ?」
「・・・・・・うん、分かった。でも、ラキオには誤魔化しておいてくれたんだよね? ラキオになんて言ったの?」
「ああ。めちゃくちゃ腹痛ぇって言ってた、っつっといたから、合わせといてくれな」
「・・・・・・・・・・・・」
思わず黙り込んでしまったけれど、シピはそういう私の感情の機微にまでは気がつかないから、こっそりため息を吐いて自分の中に生まれた感情を誤魔化してしまう。
こんな接続状態の悪い船の中じゃ、私たちは上手く動けないけれど、それでもできる限りのことはしてあげたい。皆が正しく辿り着けるように、グノーシアになってしまった私たちには、もうそれは叶わないからこそ。
でも、本当に私がどうしようもないミスを犯したら、躊躇いなく見捨ててね。前を歩くシピの大きな背中に向かってそう呟いたとき、シピは何も答えることをせず、ただあの顔で笑った。
「君さ、ああいうワケのわかんない、変なモノばっかり食べるからお腹を壊すンじゃない?」
話し合いが終わって、コールドスリープ室へ向かうためにメインコンソール室を出ようとしたその時、まるでこの後別れることになるとは思えない言葉をラキオに吐き出されて、心から思ったのだ。どうしてラキオが眠らなければならないのだろうって。どうしてよりによってラキオなの、って。
ラキオは目と口を開けた私のことを見て、その眦を細めた。
「……何、覚えてないンだ? しげみちと食べてたアレのことだよ。ああいう得体の知れないものは無闇に身体に入れない方が良い。……まあ僕にはもう何の関係もないけどね」
そう口にしたラキオのことを見ていた。忘れたくなかった。私が消してあげたかった。この手で連れていってあげたかった。それが私の愛だった。
グノーシアになっても、誰かを特別に思う気持ちって変わらないみたいだ。そういうことは学生でいるうちに知りたかったけれど。手記でも残しておけば、グノーシアのことを研究する誰かの役に立つんだろうかとふと思い立つけれど、グノーシアであるこの身で彼らにしてあげられることは、一つしかない。
ラキオのコールドスリープを見届ける私の横顔を、コメットが見つめていたことに気がついていたら、私は最後までシピと生き残って、それからラキオを起こしてあげて、今度こそ手ずからラキオを消してあげることができたかもしれなかったけれど。
何もかも後の祭りだ。