「何とか助かって良かったあ。えっと、夕里子?これからよろしくね」
一番年が近そうに見える女の子だから仲良くしたいな、って思ってたのはルゥアンから脱出した直後のほんの数分の間だけだった。
夕里子はその黒々とした瞳で私のことをじっと見つめた。吸い込まれそうな色をしていた。彼女の唇が緩く弧を描く。その悠々とした動きに目を奪われた。だけど、「ふふ」と笑った夕里子は微かに首を傾げ、言い放ったのだった。
「お前ごときの命、助かる価値もなかったでしょうに」
思考が停止した。セツとしげみちがフォローに入ってくれなかったら、端から溶け出した色んな感情がぐちゃぐちゃになって、その場で泣き出してしまってもおかしくなかった。私は目を丸くしたまま、セツ越しに見える夕里子の、深海のような黒をした髪を見ていた。助かる価値もなかったでしょうにという抑揚の薄い声が、いつまでも耳の中で反芻しているようだった。
私を怒らせるためにとか、そういうために口にしたんじゃないんだと、直感で思う。夕里子には本当に見えているんだ。私が助かる価値もない命だったことを、夕里子はきっと知っている。心当たりがあるからそう思ったのか、或いは、夕里子の放つどこか神々しくすら感じられるその気配に飲まれたせいなのか、私には分からない。
だけどもし生き残ったのが私じゃなくてミラだったら、あの子は夕里子に掴みかかったんじゃないかな。あの金色の髪が振り乱れる様を想像したら、泣きたいのか、笑いたいのか、分からなくなった。
「、だっけ? さっきは随分な言われようだったじゃない」
宇宙へと飛び立った船が軌道に乗って、各自割り振られた個室で休むために解散した後、そんな風に私に声をかけてくれたのはラキオだった。ラキオは私の真向かいの部屋を使うことになっていたから、メインコンソール室からは向かう方向が一緒だったのだ。
私たちは互いに顔見知りというわけではなかった。偶然ルゥアンから逃げ延びることができただけの他人同士だ。夕里子は、その前からこの船に乗っていたみたいだけど。
私にとってラキオはこのときまだ良く分からない人物で、だからこそ身構えてしまった。夕里子みたいに、私の尊厳を踏みにじるような言葉を吐き出されたら、今度こそ耐えられないと思った。だってもう、私の代わりに怒ってくれるミラはいない。さっきあの場で私を庇ってくれたしげみちは中央部分を挟んで反対側に歩いて行ったし、セツはメインコンソール室で、ステラと今後のことを話し合っている。
緩くカーブを描く船内の廊下に、二人分の足音が響いている。ラキオになんと返事をすべきか考えあぐねているうちに、随分と不自然な間が空いてしまった。これから長い共同生活に入るのは分かりきっているのだから、夕里子とは無理かもしれなくても、他のメンバーとは上手く付き合っていきたいのに、今の私は何を言っても否定されてしまうような気になっている。
私って助かる価値、なかったのかな。そんな思いが痼りになって、身体の内側にこびりついている。
でも、多分そうだ、なかったんだ。実際、私はルゥアンで、何人もの友達を見捨ててきてしまったから。ミラのことも。
ラキオにばれないよう、こっそり鼻を啜った瞬間だった。
「僕は思うンだけど」
ラキオは私の隣で、ぽつりと呟いた。視界の端で、ラキオのブーツの先を見る。どこの出身なのかは知らないけれど、随分派手な身なりの人だった。真っ黒なだけの私の制服とは、随分対照的な。私の左隣を歩いているラキオの、濃い青に染められた、たっぷりとした袖口を持った服が、揺蕩うように動いている。
「君にしろ僕にしろ、あの混乱の中生き延びることができたのは、それだけの運と才能があったからさ」
「…………才能?」
ラキオの言葉を飲み込むのに、少し時間がかかってしまった。運は分かるけど、才能ってなんだろう。落としていた目線をそろそろと上げて、ラキオの横顔を見る。
顔の中心に薄いアクアブルーの顔料でペイントされたその模様は、翼を広げる鳥のようだった。ラキオはあのメンバーの中でも、目を引く出で立ちをしていた。前を向いたまま、丸い瞳だけがきょろりとこちらを見る。目が合っても、ラキオが何を思ってそんな発言をしたのかが分からない。
美しいな。こんなときなのに、思ってしまう。
才能じゃなかったら、何だって言うのさ、と、その唇が動いたのを、ただ見ていた。
「君のその制服、ルゥアンの中央学校のものだろう?」
「え」
その指摘に、悪いことをしているわけでもないのにどきりとする。襟と袖口に金色のラインが入った黒い制服はラキオの言う通り、ルゥアンの中央学校の制服だ。ラキオは私の明確な肯定を待たずに続ける。
「市内に警報が鳴ったのは日中、それも平日だ。普通に授業中だったンじゃない?」
お昼ご飯を食べた直後の授業は、いつも眠くなったけど、あの日は殊更酷い眠気に襲われた。良く晴れた、暖かい日だったせいもあるんだと思う。選択授業の先生の声は祝詞みたいで有名で、下がってくる瞼に抗えなかった。
教科書に目線を落とすふりをして、ほんの数秒だけ、って思いながら目を閉じた。五、数えたら、きっと目を開けますから、許して先生。だけど、脳内でゆっくり数えていた数字は五に至る前に、異常な警報音によってかき消された。
一年に一回だけある、形だけの避難訓練でしか聞かない、発情期の猫の鳴き声をもっと酷くしたようなサイレン音だった。
「学生なら規律を守って退避しなくてはならない。そう教えられているはずだ。その中で、君は教師や職員、同級生たちを見捨てて逃げてきた。実際こうして生き残っているのが君一人であることがその証左だ。ははっ、この船にいる僕達しかルゥアンからは逃げられなかったンだから、そうなるよね」
私はラキオが何を言わんとしているのかを、上手く理解できなかった。いっそ被害妄想をしてしまったくらいだ。ラキオも私の取った行動を非難しているんじゃないかって。だけど、ラキオの、何もかもをねじ伏せるみたいな笑顔が、私の息を止めた。
だったら、って。
「だったらその判断力は称賛されるべきだ」
助かる価値もなかったでしょうに。夕里子の言葉と、今私の目の前でラキオが並べる言葉が、脳内にはっきりとした影を落としていく。
「僕にも君にも、生き残るだけの力があった。それに価値がないなんて、僕は思わないけど?」
何か言葉にしたくて吸い込んだ息は、そのまま、か細い呼吸音になって吐き出される。
ラキオが私を元気づけようと思ってそういうことを口にしたのか、何の意図もなかったのかは分からない。だけど私はこのとき間違いなく、ラキオの言葉に救われた。
それがただの気まぐれだったとしても。
グノーシアの手は、だけどこの船内にも伸びていた。
グノーシア反応が検出された日の話し合いで、セツが眠ることになった。夕里子はどうも、チハルに眠ってもらいたかったみたいだけど。昨日チハルに向けて彼女が口にした「お前が凍りなさい」と言う言葉は、以前私に向けられたあれと、ほとんど変わらない温度をしていた。いたたまれなくて、本当はあのときセツやしげみちがそうしてくれたみたいにチハルを庇いたかったのに、喉に声が張り付いてしまったみたいに、何も言葉が出てこなかった。
私は夕里子が、やっぱりどうしても苦手なのだ。目を見て話すのが、億劫なのだ。私の罪を暴かれてしまうようで。だけど、私はあの選択を後悔していない。
「今日は、ちゃんとやる」
部屋を出るとき、言い聞かせるようにそう口にする。
今日は、夕里子にもきちんと意見を言おう。まだ根拠無くチハルを疑うようだったら、セツの代わりに私がチハルを庇おう。私には生き残るだけの価値があったって、ラキオの言葉を傘にして。
LeViの異常を知らせる警報音の中部屋を出た時、丁度目の前の部屋の扉が開いて、そこから出てきたラキオと目が合った。
「ああ、なんだ。消えたのはじゃないンだね」
私はラキオの声からその感情を読み取ることができなかったけれど、ラキオに目を細めてもらえる今この瞬間が、全てを失った私の、唯一の希望のように思えている。