LOOP.002
眼球の奥からの重い痛みと、脳を直接揺さぶられたような衝撃を耐えきってどうにか目を開ければ、見覚えのある白いコンソールテーブルが滲み出るように視界の中央に現れた。天井に大きく円を描くように配置された室内灯の、青白い光に晒されるその席の一つに、僕は座っている。耳障りな鼓動が、徐々に平生を取り戻していく。異物が馴染むように、輪郭を整えられていくような感覚で。
どうみてもメインコンソール室だ。だが直前まで、僕はセツと二人で歩いていたのではなかっただろうか。
コールドスリープ室の脇のスロープを上りきったところだった。あそこは、個室や食堂の並ぶ階層だったはずだ。メインコンソール室へは、さらに共同寝室だと教えて貰った部屋の傍にあるスロープを上らなければいけない。
まさか、記憶が飛んだのか?
隣に座っていた誰かの指が、僕の手の脇近くのテーブルの表面をとんとんと叩く。短く切られた、生来の色の爪。袖口にある金色のカフスボタンはきちんと止められている。肘から先を視界に入れただけで、消去法で、それがだと分かった。
「……チハル、大丈夫?」
心配そうに眉を寄せて僕を窺うは、つい今し方コールドスリープ室でラキオを覚醒させたはずだ。僕の幻聴でないならば、彼女は泣きながら、ラキオとの再会を喜んでいたはずで。
その顔をじっと見つめてしまう。彼女は実に平然としていた。その眼球は乾いて、泣き腫らした痕もない。「……いや」理解できないままに口にしたその言葉を塗り潰すように、聞き覚えのあるその声は響いた。
「LeViからの通告の通り、船内にグノーシア反応が検出された」
セツだ。
セツの言葉の内容を理解するよりも先に、目線をそちらに向けたことで僕は気がついてしまった。コンソールテーブルに、もうここにはいないはずの人物らが座っていたのだ。
セツの隣にラキオがいるのはまだ良い。僕の記憶の一部分が削り落とされたとするならば、の話だけど。知らないうちに僕の記憶が飛んでいて、その間に僕たち四人のうちからまたグノーシアに汚染された人間が出たと考えることも、できなくはないから。
だけどグノーシアに消されたはずのジナと、グノーシアとしてコールドスリープ処置が施されたSQまで平然と座っているのはどういうことなのか。
「私たち六人の中に、汚染された者がいるんだ」
疑問を口にせず、彼女らから目を逸らすだけでこの動揺を殺せたのは、僕自身の元々の気質なのだろうか。自分のことなのに、この船に来る以前の記憶が未だに蘇らないせいで、それについては明確な答えが出せないままだ。
僕の記憶が飛んだわけではないなら、俄には信じがたいが、時間が巻き戻ったのだろうか。或いは、白昼夢を見ていたか。柔く舌を噛んで、痛みがあることを確認する。予知夢にせよ、時間が巻き戻ったにせよ、この話し合いでSQを眠らせてしまえば、全てが終わるんじゃないか?ジナの隣で髪の毛を弄りながら「んー、でもSQちゃん、グノーシアとかじゃないケド?」と首を傾げている彼女の顔を見つめる。
「ははっ、グノーシアもそう言うだろうね。何でもグノーシアって奴は、巧みに嘘を吐くらしいじゃない?」
ここでラキオに乗れば、ジナの犠牲がないままにこの騒動は終わるのかもしれない。
対角線上に座るセツは肘をつき、顔の前で指を組んでいる。その奥から向けられる視線の意味を理解できるほど、セツを信頼し、理解しているわけではない。
何だかチハルらしくないな、と思った。
話し合いが始まる前からいつもよりも顔色が悪い気がして思わず声をかけてしまったけれど、チハルの反応から見るに、まるで余計なお世話だったみたいだ。いかなチハルと言えど、やっぱりこういう、不測の事態には弱いのかな。あの頃のチハルを思うと、そんなこともなさそうなのに。チハルも人間ってことなのだろうか。意外な一面を見れて嬉しいような、やや複雑なような。憧れの人の知らない一面って、見ないままで居た方がいいときだってあるじゃない?
でも今は、正直チハルは関係なく、気分が晴れない。話し合いの末、SQのコールドスリープが決まって、私たちは彼女の眠りを見届けた後一度解散した。SQは「仕方ないねー」って笑ってたけれど、いくらラキオがSQの言葉を失言として捉えて一方的に責め立てたからと言って、流されるべきではなかったのかもしれない。友達を見捨ててしまったような罪悪感に、私は今落ち込んでいる。次の空間跳躍の前にシャワーでも浴びて頭を切り替えようか、と部屋を出たとき、丁度チハルと出くわした。
「あ、チハル」
「」
自室側から歩いてきたってことは、部屋に戻るところではないのだろう。「どこに行くの?」と尋ねた私に、チハルは表情を少しも崩さずに「散歩」と答えた。
散歩、船内を散歩か。面白い表現だな。この船の持ち主には悪いけれど、さほど大きな星間航行船ではないから、散歩なんて言ってもものの数分で終わりそうだけど。
「……いや、探索?」
わざわざ言い直すチハルに、思わずゆっくりと瞬きをしてしまう。ルゥアンを脱出して以降、この船にお世話になってからはそれなりに日が経っている。今更目新しいものなんてないと思うよ、と思ったけれど、口にしはしなかった。チハルはどこか浮世離れしているから、そういう言動もさもありなん、と考え直したのだ。
「私はシャワーを浴びに行くところなの」
聞かれてもいないのにそう口にしたのは、いくらシャワールームが目と鼻の先とは言え、チハルの横を歩くことへの正当な理由付けをしたかったからだ。チハルは「……シャワー?」と訝しげに眉を寄せる。何かおかしかっただろうか。状況が状況なだけに、どきっとしてしまう。シャワールームに行くってだけで実は私がグノーシアなんじゃないかと疑われた、とか。でも流石にそんなことはないはずだ。グノーシアの生態は知らないけど、人間は汗をかいたら流すものだし。
だけどチハルは真顔のまま、妙なことを口走る。
「……シャワールームって、どこ?」
「えっ?」
首を傾げた分、顔の横に垂れた深いオリーブの色の髪がさらりと流れる。切れ長の目を縁取る睫毛は長く、瞬きと同時に揺れた。
冗談と言うには、あまりにも真っ直ぐな瞳だった。
異星体グノースに触れた人間は汚染されて、人間ならざる者になる。それがグノーシアだ。
その異星体とやらの正体は諸説あり、「未発見の知的生命体」やら「別次元の神に等しい存在」やらとも言われているらしいが、未だ判別していないそうだ。それでもセツやラキオの発言から見るに、異星体グノースというその存在だけは一般常識として知れ渡っているようだ。グノーシアが何かを良く知らない、と発言したSQは、結果ラキオの槍玉にあげられてコールドスリープされることになった。
これで終わるだろうと言う気持ちもあるにはあるが、拭いきれない痼りのようなものを僕は同時に認識している。あんな失言を、「前の」SQはしなかった。嘘を吐き人間に紛れ込むのがグノーシアであるならば、SQのあの発言にはメリットがない。
前回聞き及ばなかった点についてはもう一点、僕が新たに知ったことがある。この船は、そもそもグノーシアの存在を認めたときに乗員ごと自爆を行う義務を生じているらしいのだ。擬知体であるLeViはそれを肯定した。乗員をコールドスリープさせることでグノーシアの活動を停止させることは、だから、LeViとの妥協点でもあるのだとセツは言ったのだった。
SQのコールドスリープを見届けても、次の空間転移まではまだ時間があった。話し合いが早く済んだおかげでもあるのだろう。まだ不慣れな船内内部を探索しておくべきかと部屋に戻らずにいた僕は、部屋から出てきたと出くわすことになる。
これからシャワールームに向かうのだと口にした彼女に、その場所を尋ねた瞬間、は訝しげにその眉を寄せた。記憶喪失なのだから、分からなくて当然じゃないだろうか。前回はシャワーどころではなかったし。「前回は」の部分は飲み込んで、それ以外を言葉にしようとした僕に、しかしは言った。
「なあに? 冗談?」
もう何日この船にお世話になってるの?と。は困ったように笑っている。
冗談。彼女の発言を、口の中で反芻させる。は黙った僕に、首を傾げて、続けた。
「とりあえず、お散歩だったら途中まで一緒に行こ?て言っても、シャワールームなんかすぐそこだから、ほんのちょっとだけど」
「…………ああ、そうだね」
の指の先を見れば、メインコンソールへと続くスロープ脇の通路の奥まった場所に、確かにシャワールームはあった。一度も使った記憶はないな。僕は改めて、自分の記憶喪失を自覚する。
「チハルも冗談言うんだねぇ」
僕は医療ポッドから目を覚ました。そのとき僕はそれ以前の記憶をなくしていたし、今もそれは変わらない。他の記憶と言えば、せいぜい食堂で倒れたらしい僕をセツや、SQが見守ってたことくらいか。あの時は確か、彼女らの言葉も理解できなかった。
僕はこの船に乗る前の、いや、この船の内部においてグノーシアの存在が認められる以前の記憶を有していない。それはセツを始め、も、全員が知っているはずだった。だけど「シャワールームの場所を知らないこと」を冗談と受け止められてしまった今、その前提は崩れ去っている。
部屋の前からではものの数十秒ほどだったが、シャワールームの前までを送り届けてから、僕は彼女の顔を見つめる。
「」
目を丸くしたは、不思議そうに僕を見上げている。どこかの制服のような衣服を着た彼女の襟が、僅かに折れていた。僕はそれを指摘することもせず、視界の端で見つめながら、ただ尋ねる。
「僕は食堂で倒れたことがあったっけ」
は一度瞳を瞬かせて、それから考え込むように目線を落とした後「そういう話は聞いたことがないけど。チハル、倒れたの?」と、不思議そうに首を傾げた。
どうやら単純に時間が巻き戻ったわけではないらしい。だってそうであるならば、SQを眠らせた時点で、犠牲が出るはずはなかったから。
空間転移の後、グノーシア反応が検出された。消されたのは、だった。