メインコンソール室を出る直前、SQは「どうせダメなら逃げちゃうのってアリ?」とおどけたように口にした。
だけどグノーシア汚染者が彼女だと判明した以上、足掻いたところで最終的には船の擬知体であるLeViが実力行使に出ることになる。いくらグノーシアと言えど、最早活路はどこにもないだろう。セツにそう指摘されて「だよねぇヤッパ。まあねー、大人しく凍っておくとしますか」と、SQは肩を竦めて笑った。
その言葉通り、SQはコールドスリープ室までの道のりを足取り軽く進んでいく。まるで日常を切り取っただけのような光景だった。何か彼女がおかしな挙動を見せたときにすぐ対処できるようにと、SQの傍にはセツがいたけれど、出番はないらしい。
軽口を交わしながらもセツに軽い体当たりするSQは、恐ろしいほどに、普段の彼女そのものだった。グノーシアは擬態する。人間の中に溶け込んで、虎視眈々と人間を消滅させる機会を窺っている。その恐ろしさを今更になって思い知る。一体いつから「そう」だったのか。頭をもたげたそんな疑問が口をついて出ることがなかったのは、そのせいだ。
無意識のうちに握りしめた拳の行き場がなくて、服の裾を握りしめる。私の前を歩くチハルがこちらを振り向かないことが、救いだった。
「服はある程度脱いでおいた方が良い」
コールドスリープ室に到着するや否や、そのままポッドに入ろうとするSQに、セツがそう声をかける。「衣服が肌に張り付く感覚が、どうにも鬱陶しいんだ」まるで経験したことがあるような物言いだった。私はコールドスリープなんてしたことがないままこれまで生きていたけれど、軍人となると、色んな訓練をしたりもするんだろうなあ、って、ぼんやりとセツの横顔を眺める。ここにラキオがいたら「ハ、グノーシアにそんな心配り必要?」とか言うんだろうな、とか、そういうことも考えながら。
SQの方を見ることは、最後までできなかった。後悔することになるかもしれない、そう思っても、身体がいうことをきかなかった。SQも、二度と私の名前を呼ぶことはなかったから、これが正しかったのだと思う。そう思っていないと、今度こそ立ち直れなくなりそうだった。
「じゃ、おやすみ皆。元気でねん」
コールドスリープの準備が整ったとき、SQはそう言ってひらりと私たちに手を振った。
そうして拍子抜けするほどあっさりと、彼女は眠ってしまったのだ。グノーシアであることを微塵も感じさせないような仕草で、口調で、どこまでも私たちの良く知るSQのまま。
コールドスリープ処置の施された彼女の身柄は、次の寄港先で軍に引き渡されることになるだろう。その後彼女がどうなるのかについては、私は知らない。どういう扱いを受けるのか。SQがこれから先目覚めることができるのかどうかも。そういうことは、教科書には書いてなかったから。
解明されていないグノーシアの生態を調査するために、それこそ酷い目に遭わされるのかもしれない。それに内臓が痛んだような心地になるのは、私がまだ彼女を友達だと思っているからなのだろうか。
甲高い電子音が、彼女が深い眠りについたのを知らせている。
「……何とか終わったね」
正常にコールドスリープが完了したのを見届けたセツが、ぽつりと漏らす。薄暗く肌寒い室内はポッドがずらりと並んでいて薄気味悪いのに、私はそこから出て行く気にはなれなかった。
つい今し方使用中のランプが点灯したそれではなく、もう一つのポッドに目をやる。微かな稼働音が、振動と共に伝わってくる。私は昨日、ラキオがこの中で眠りに落ちる瞬間を見届けることができなかった。コールドスリープ室の隅で、別れの言葉も告げられずにいた。
ぼんやりと昨日のことを思い出していたその時、不意に名前を呼ばれて、目をそちらに向ける。
「覚醒させてあげると良い」
セツにしては随分と柔らかな眼差しと、声音だった。私はけれどそれに、すぐには返事ができない。かくせい。覚醒?頭の中で充分に煮詰めても、靄がかってセツの言わんとしていることが理解できないのだ。途中で壁があるみたいで。手探りでそれに触れる。私はそれを蹴り壊すことができるなんて、知らなかった。
かくせい。覚醒って、ラキオを?
「…………良いの?」
縋るような声になってしまった。コールドスリープされたラキオ。ラキオを起こすことができるなんて、そういえば私は考えもしなかった。このポッドにそういう機能が備わっていることは、知っていたのに。それは立派な思考停止だった。思慮深さを求められる、ルゥアンの学生らしからぬ。だって、もう終わりだと思っていたのだ。私はそう思い込んでいた。
見開いた眼球のその先で、セツが私を見つめている。どこか困ったように、僅かに眉尻を下げて。
「悪いことなどないよ。ラキオはグノーシアではなかった。ならばいつまでも眠らせておく必要はないだろう? ……人道的にもね」
学校がなくなっても、未だ袖を通すことをやめられずにいる黒い制服が視界の端に映る。ああ、これじゃあ本当に、ラキオに笑われてしまう。「そこまで頭の回転が鈍いなら、その制服は返上すべきじゃない?」って。
まあ、五月蠅くはなるとは思うけれど。付け足したセツにどうにか笑みを返す。「……うん、多分、すっごく怒るね」君たちの愚かしさには呆れを通り越してゾッとするよ、って。自分を眠らせることを選んだ私たちを、ラキオはきっといつまでもねちっこく責めるだろう。
だけどきっと、生き残ったことだけは褒めてくれる。遠回しに。
私はそれをただ、満面の笑みで聞いているのだ。或いは、泣きながら。
気を利かせてくれたのか、セツとチハルはコールドスリープ室を出ていってくれた。機械音だけが微かに響く寒々しい部屋の中、ラキオの眠るポッドに手を伸ばし、そっと撫でる。ラキオが目を覚ましたところで、臆病な私はラキオに自分の思いを伝えることはきっとできない。
丸みを帯びた、つるりとしたその表面に頬を寄せる。覚醒のためのスイッチを押す前ですら、「好き」と、言えない。
それでも、こんな風に友達をなくした今、私は深海の宇宙にありながらも、そこに雲間から伸びる陽の光のような道筋を見ている。それを、今は、奇跡のように思っている。
セツに連れられてコールドスリープ室から出たが、良かったのだろうか。ラキオを目覚めさせるならば、ここにいる全員で正しい手順を踏むべきではないか。目線だけでそれを問いかければ、セツは眉根を寄せて「ああ……君はそういうところがあったよね」とぼやくように呟く。も良く昔の僕と今の僕を比較するようなところがあったけれど、どうしてか、セツの言葉尻はそれとは少し違うように思えた。思い込みかもしれないけれど。
昨日と一緒に上ったスロープを、今日はセツと歩く。セツはそうしながら、僕に「受け取って欲しいものがあるんだ」と、少し強張った声で呟いた。先ほどに向けたものとは、明らかに温度が違った。
何か、覚悟を決めたような。
「これを、持っていって」
セツの手の平に浮かぶ青白く光った球体状の物を僕はこの時初めて見たのに、セツは僕の目を見て安堵したような、困ったような、良く分からない表情を浮かべるのだ。
疑うな。畏れるな。そして知れ。全ては知ることで救われる。
セツが続ける呪文のような音を、僕は漫然と聞いている。僕の手の中にあるその球体が、淡く、発光する。
「私にこれをくれた人が、そう言っていたんだ。ずいぶん……昔のことだけどね」
僕たちにとっての「最初」が一体何だったのか、僕は答えることができない。スロープを一歩一歩進む度、僕は核心から遠のいていくような感覚を覚えている。「チハルに必要になるだろうと思うから。今のうちに渡しておくよ」今頃ラキオは目を覚ましただろうか。「あとは……そうだな。ふふ、何を話したらいいんだろう」僕たちもの傍でそれを見守るべきではないかという僕の疑問を呆れたような声音で否定したセツは今、何かから解放されたような顔をしている。肩の荷が下りたような。「……うん。改めて、自己紹介しようか。今まで慌ただしくて、ちゃんと名乗れなかったから」セツが背負っていたものがこの小さな箱だと言うのなら、説明がつくのだけど。セツは僕に何かを分け与えたのだと。そして少しだけ、楽になったつもりでいるのだと。
流石に杞憂か。
そう思ったはずだったのに。
「私の名前は、セツ。これから、よろしくね」
不意に、ぐらりと視界が明滅する。セツの声が遠のいていく。僕の手の平から熱が滲み出て、そこからまるごと飲み込まれるような感覚を、どうして僕は覚えているのだろう。
「言うべきか否か迷っていたけど……やはり言っておくよ。チハルはこれから、長い旅をすることになるんだ。だけど覚えておいて。私はできる限り、チハルの味方だから」
セツの声が遠のくのに、どうしてかコールドスリープ室にいるはずの、の、ラキオを呼ぶバカみたいに大きな泣き声がすぐ傍で聞こえたような気がした。「ラキオ、ラキオ、ごめんね」って。「なんなの? 君。……ああ、泣かないでもらえる?鬱陶しいんだけど……」ラキオの疎ましがるような声音すらも、明確に。
混濁していく。藻掻くように手を伸ばす。すぐそこにあるはずのセツの存在が遠のいて消える。僕の意識はそこで断ち切られたように、終わる。