セツにラキオのコールドスリープを任せて、先に部屋の外に向かったジナやSQの後を追うようにと廊下へ出たとき、はちらりと僕を見上げて、ぎこちなく微笑んだ。僕を部屋まで案内してもらうようセツが彼女に頼んでくれていたのだ。「よろしく」と言えば、は「ううん、お部屋、隣だもの」と何てことないように緩く首を振る。
ジナたちは先ほど僕たちが下りてきたスロープではなく、その脇の扉へ向かって行く。そちらに目線を向けた僕には「あ、私たちはこっちかな」とスロープを指差した。彼女らはどうして向こうへ行くのか。言葉にするよりも、が口を開く方が早い。
「あの扉の向こうは格納庫なの。エレベーターがあってね、それで上に行けるんだ。ジナたちの部屋はそっちを使った方が何となく近道なの。でも、私とチハルはスロープから行こう」
この船の内部構造は勿論、自分の名前も、彼女たちの名前も、ここがどこで、どうして僕たちはここにいるのかも、一体グノーシアとは何なのか、という根本的なことについても。全てを脳から消失してしまった僕は、この状況において、お荷物以外の何者でもないだろう。けれど、セツも、も、そういう素振りを一切表に出さない。人が良いのか、或いは何か裏があるのか。じっと彼女の顔を見つめても、ちっともその内心が読めなかった。
「記憶がないのに、チハルはチハルのままなんだねえ」
僕の視線を受けながら、は眉尻を下げて笑う。
セツの話では、僕たちはそれほど付き合いが長いわけではないらしいけれど、の口調からは何となく気安さが滲んでいるように思えた。まあ、彼女が誰に対してもそういう風に人懐っこい、というだけの話なのかもしれない。真偽のほどは定かではないが。それは彼女自身を信用しきれていない、と言うよりも、単純に、追求しようと思うほど興味が湧かないという意味だ。彼女に柔らかな目で微笑まれても、何の情も湧かないように。
は緩く傾斜のついたスロープを上りながら、ポツポツとグノーシアについての説明をしてくれた。今回のように船という閉ざされた空間の中でグノーシア反応が認められた場合、乗員は全滅に至るよりも先にグノーシアを無力化する義務があること。一般的な方法としては、先ほど僕たちが行ったような、話し合いを経ての投票、そして議論の結果グノーシアと疑われた対象者へのコールドスリープ処置。
それらを彼女は「学校」で勉強したと言っていた。彼女の生まれた惑星では、そういうことを学んで外に出るのが一般的なのだと。僕も忘れただけで習っていただろうかと呟いた言葉に、はしかし曖昧な返事を返すだけだった。母星が異なると、環境も様々、ということだろうか。僕は僕の生まれも、育ちも、この脳から消えてしまっている。
「もしも空間転移の際に、グノーシアがまだ残っていたら、どうなる?」
別れ際、僕の部屋だと案内された扉の前でそう尋ねたとき、隣の部屋の扉に手を添えようとしていたは一瞬言葉を失ったように見えた。その眼球の淵が、僅かに形を変えたのも、何となく分かった。
「…………ラキオがグノーシアじゃなかったら、次の空間転移のとき、私たちの誰かがグノーシアに消されてしまうことになる」
お手本のような答えの向こうに彼女が抑え込んでいた感情を、僕は読み取ることができない。そして、それで良いと思っているのだ。
なんて、あまりにも薄情か。
殺風景な部屋だった。天井に埋め込まれたライトが僕の存在を認めて発光する中、ぐるりと室内を見回す。
クローゼットには見覚えのないコートが一着。薄いマットレスの敷かれたベッドに、備え付けのテーブルと椅子。さてどうするべきかと立ち尽くしていると、見計らったように室内にアナウンス音声が響いた。
「はじめまして、チハル様。当船の擬知体であるLeViと申します」
LeVi。
今し方の口からも聞いた言葉だ。ぎちたい。思わず繰り返す僕に「皆様の快適な船旅のために、案内役を務めさせていただきます」とLeViは続けた。機械混じりの音声は抑揚が薄いのにどこか親しみを覚えるような声音をしている。
「当船は十分後に空間転移を行います。空間転移時には意識を保つことができませんので、怪我をしないよう、ベッドに横になっておいて下さいね」
要するに、LeViは生活など全般のサポートを行ってくれる存在なのだろう。「それでは失礼いたします」という言葉に返事をするまでもなくベッドに腰を下ろしたとき、柔らかな音声とは真逆の、跳ねるような声が耳に入った。
「チハル、いるー?」
脳裏を過ぎる人物の存在に、その来訪を疑問に思うよりも早く扉が開けられる。「ありゃ、ドア開いちゃった。んじゃ失礼してっと」鍵のかけ方を、そういえば教えて貰っていなかったな。そんなことをぼんやりと思う僕の前に現れた彼女は、頭頂部で結ばれたたっぷりとした赤い髪を揺らして、首を傾げて笑った。僕はつい先ほど、その後ろ姿を見ていた。
「やほー、SQちゃんだよ」
そういえば、と考える。
そういえば先の会議ではラキオではなく、彼女に投票していたなと。何の感慨もなく、一つの事実として。
グノーシアは、嘘を吐く。
人を騙して取り入り、人間の輪の中に潜り込み、虎視眈々と人間を消し去る機会を窺っている。
親切にされたからと言って信じてはいけない。グノーシアにとってそれは自分の目的を達成するための手段で、方法で、そこにそれ以外の理由はないのだ。
だからセツが親身になってくれているのは、セツこそがグノーシアだからではないか。
部屋を訪れたSQは、僕にそんな話をした。それがまるで、この先の出来事を予測しているかのように思えた。
僕が医療ポッドの中で目を覚ましたときのセツの瞳の色を覚えている。雛が親鳥を見てそうと刷り込まれるような感覚を、あの時の僕が覚えたわけではない。確かにセツが僕を庇ってくれていたのは事実だ。それをSQはあまりにも不自然だと指摘する。セツってあんなんだったっけ? 明るく笑いながらそう口にされても、僕は元のセツを知らないのだから答えようがない。
しかしSQの助言は的外れだ。例えグノーシアがまだ船の中で息をしていようと、僕は僕を助けてくれたからという理由でセツを疑いの対象から外すことはしない。それはSQも、ジナも、に対しても。だってそもそも、特定の誰かに入れ込みようがないじゃないか。僕は記憶がないのだから。
そんなことを考える自分は、人間的とは言えないのかもしれないな。
何かが自分から欠け落ちたような感覚が拭えないまま、SQの立ち去った部屋の隅、LeViの指示に従いベッドの中で目を閉じる。空間転移のカウントダウンが始まる。指先から力が抜けて、意識がとろりと混濁していくような感覚になる。
ラキオがグノーシアじゃなかったら。途方に暮れた子供のような声でそう口にしたが、こんなときに、脳裏に浮かんで消えていく。
LeViがグノーシア反応を検出したと警告音を鳴らしたのは、その後のことだった。