グノーシアに関しては解明されていないことが多いけれど、その恐ろしさに関して「知らない」という人間は、きっとそうそういない。
 グノーシアは人を消してしまうのだ。殺す、と言うのとは少し違う。グノーシアによって消滅させられた者は、皮も肉も骨も残さない。ただ、跡形も無く消えてしまう。消された人間がどうなるのか、どこへ行くのかは、誰も知らない。



「逆に考えてみてほしい」



 そう口にするセツの隣、ラキオとSQの間に空いていた数人分の席、そのうちの一つに腰を下ろしたチハルは、未だどこか上の空であるように見えた。だけどチハルと言う人は元々そういうところがあったから、それが記憶喪失の弊害によるものかどうかは分からない。
 セツは背筋を伸ばし、ぐるりと私たちを見回した後、その視線をラキオへと定めた。チハルへと抱いているラキオの疑念を正すため、と言うよりは、ラキオ以外の私たち三人に、チハルを擁護することへの正当性を確かめるためであるようにも思えた。



「この状況で記憶喪失だなんて、それこそ怪しすぎるし目立ちすぎる。捕食者の擬態としては不自然だと思わないか?」



 セツが知る限り、グノーシア汚染された者が記憶を失った振りをしたという例はないそうだ。グノーシアという存在は、もっと上手く周囲に溶け込むのだと、セツは淡々と続ける。
 随分グノーシアの「生態」に詳しいな。ちらりと思った疑問は、セツの軍人という肩書きを思えば不自然ではないのかもしれないという信頼によって押し込められた。出身や、職種が違えば、得ている知識だって異なるものだ。私は対処法のみを学んできたけれど、セツは多角度的にグノーシアという存在を勉強しているに違いない。
 それまで黙ってセツの話を聞いていたジナが私の心情を読み取ったように「同意」と続ける。



「チハルを疑う必要は、ないと思う」

「わ、私も、チハルは違うんじゃないかなって」



 捕食者。擬態。
 セツが並べた単語で手の平がじわじわと汗ばんでくるのが分かる。チハルを疑う必要はない。セツの話からすれば、そうなのだろうと私も思う。でも、じゃあ一体他の誰がそうなのか、誰を疑うべきなのか、私は全く分からないのだ。
 ルゥアンで私たちを助けてくれたセツは疑うようなことはしたくない。ジナも、口数は少ないけれどとても優しい人なのだ。それに、もしもジナがグノーシアだって言うなら今のセツの言葉に反論めいたことを口にして、私とSQの印象を操作しつつ、チハルを怪しいと主張することもできたんじゃないだろうか。一方でラキオはどうか。今のラキオに、普段と違うところは見られないけれど。でも、「擬態」と言うならば、この状況こそがそうなのかもしれない。
 ちらりと隣に座るラキオを見たら、私の視線に気がついたらしいラキオがこちらを横目で見た。華美な装飾の下の涼しげな目元が「何」とでも言いたげに、微かに歪められている。見透かされているようで、どきりとする。混乱する。逃げ出してしまいたくなる。
 この状況において、冷静な判断ができそうにないのは間違いなかった。



「ありゃ、もう時間ないっスよ?」



 私たちの座るコンソールテーブルに備え付けられた液晶パネルに触れたSQの言葉と同時に、目の前にスクリーンが投影される。そこに映るのは、乗船時に登録した私たちの名前と顔だ。私と、チハル、セツ、ジナ、SQ、それからラキオ。



「ま、誰がグノーシアかなんて、どうせ分かんないんだし。パパッと投票しちゃおうZE!」



 場違いなくらい明るいSQの声音が、この中の誰かを眠りにつかせるための引き金になる。








 ルゥアンで見られたような惑星におけるグノーシアによる騒動への鎮圧方法と、今回のように星間航行船内という閉鎖空間においてグノーシアの存在が認められた場合による対処方法は、大きく異なっている。
 今私たちに起きている状況についてのみ、今回は着目しよう。船内においてグノーシア汚染者が確認された場合、乗員はこのグノーシアによって引き起こされる惨事を食い止めなくてはならない。星間航行船内にて発生したグノーシアは、空間転移の際に人間を襲うからだ。
 グノーシアの排除として今日取られうる有効な手段は、乗員同士の対面上での話し合いの後、汚染の疑いがある人物に対してコールドスリープ処置を施すことだ。要するに、会議を開いて多数決を取って、怪しい人物を眠らせる、っていう単純な方法。とは言え、グノーシアは人間らしく振る舞って上手く人の中に溶け込むというから、どうしたって難しくなる。だけど、武力制圧によって凄惨な事件に繋がるケースがこれまでいくつか見られたことを思えば、これが最も理知的で、人間としての尊厳ある方法なのだろう。
 汚染の可能性が高い者をコールドスリープさせた後、シュリンプ移動時に船の擬知体であるLeViがグノーシアの反応消失を認めて、ようやくリスク評価はゼロになったと周知される。
 今の状況で言えば、あとは神に祈ってLeViの通告を待つしかない、ってことだ。
 私の隣を歩くチハルは、私の説明に小さく息を吐いた。



「医療ポッドに押し込められている間、何となくそんな知識も埋め込まれたような気もするけれど、正直理解はできなかった」

「ああ、旧式ってセツも言ってたもんね。この船にはそういう学習系のツールって多くないみたいだし、仕方ないよ」



 チハルは眠たげな目をそっと伏せてから、考え込むようにその口元に手を当てる。そこに小さな黒子があることは知っていたけれど、間近でそれを観察したとき、何だかいけないものを見てしまったような気になって、慌てて目を逸らした。



は、詳しいんだな」

「い、いや、そんなに詳しくはないよ。グノーシアの対処法に関しては学校で習った程度で、セツの方がきっとずっと物知りなはずだし」

「がっこう」

「私の星ではそういうの、義務教育で習うの。私くらいの年になると、皆一度は星の外に出なくちゃいけないから、どうしても身を守る為に学ばざるを得なくて」

「へぇ。僕も覚えていないだけで、実は習っていたんだろうか?」

「ええと、チハルは、どうだろう?」



 LeViによって示される順路をチハルと歩きながら、曖昧な返事で誤魔化す。
 学校とか、チハルは縁が無かったんじゃないかな。そこまで昔のことを知っているわけではないから、断定はできないけれど。チハルは自分自身のことだって言うのに、さして興味もなさそうな顔で「ここ、さっきも通ったな」と呟いた。さっきセツと居た医務室はチハルの部屋の斜向かいにあるから、チハルの感想は正しい。
 コールドスリープ室からスロープを上って少し歩いた先の角を曲がったところ、私の部屋の奥にあるのが、チハルが使っている個室だ。自分の部屋の場所も忘れてしまったチハルを自室まで案内してやってほしいとセツに頼まれて、それで今私はこうしてチハルの隣にいる。



「あ、チハルの部屋はそこだよ。まだ時間はあるみたいだけど、空間転移のときはちゃんとベッドに横になってね。LeViからも指示があると思うから、それに従って……」





 良く通る声で名前を呼ばれて、心臓が跳ねたような心地になる。
 


「もしも空間転移の際に、グノーシアがまだ残っていたら、どうなる?」



 見開いた瞳を真っ直ぐ見つめられ、息が詰まった。
 船内の中央部分を挟んで反対側に自室を持つセツ以外の二人は、既に部屋に戻っていて、今この通路には私とチハルしかいない。
 しんと静まりかえっていた。私たちの間に、言いようのない沈黙だけが落ちていた。チハルの質問に答えなければ、と思うのに、声が出ない。もしもまだこの船にグノーシアがいたら。それは、先の話し合いでの私たちの選択が間違えていたら、ということだ。
 助けて、セツ。こんなときなのに、いつものようにそう考えてしまう。私の部屋の真向かいを使っていた美しい人は、今、コールドスリープ室でセツにその眠りを見届けられている。それが今ここに来て、痛いほどの後悔と絶望を私に与えていた。
 本当にグノーシアだったのかな。なんて、今更だ。



「…………ラキオがグノーシアじゃなかったら、次の空間転移のとき、私たちの誰かがグノーシアに消されてしまうことになる」



 口にした瞬間、自身の声が鉛のように私の手足にぶら下がるような感覚を覚えた。
 教本通りの回答をしたはずなのに、鼻の奥が痛い。ラキオのコンソールテーブルを叩く指の音が、今でも耳に張り付いているようで、もしも一瞬でも呼吸を止めれば、そのまま息の根を止められてしまいそうだと思った。
 ラキオは死んだわけじゃない、いつ目が覚めるか分からない眠りについただけ。なのにそれが途轍もなく恐ろしい。
 曖昧に頷くチハルの表情がぼやける前に、「それじゃあ、おやすみなさい」と言って、逃げるように部屋に入り扉を閉めた。薄暗い室内が、人感センサーを受けて自動的に明るくなる。
 メインコンソールと同じ色のその明りから逃げるように俯いた。まるで懺悔するように呟いたラキオの名前が、私の周囲を埋めるように落ちていく。




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