チハルが倒れたのは、LeViがこのD.Q.O内にてグノーシア反応を検出したと通告した、その直後のことだった。
けたたましい警報音とLeViの音声が途切れるや否や、食堂で突然糸が切れたように倒れたチハルは、そのまま頭をテーブルに強く打ち付けた。少し離れたところに座っていた私は、一瞬それが何の音なのか分からなかったのだ。私の向かいに座っていたSQは、私の肩越しにその瞬間をばっちりその目で捉えていたみたいだけど。
SQは目を覚ます様子のないチハルを前に、セツを呼んでくると食堂を後にした。一人残された私はどうすることもできず、チハルが倒れたことで落下したらしい食器に手を伸ばす。
チハルが汁物を食べていたんじゃなくて良かった。空になった食器は運良く割れてはいなくて、私はそれを一度テーブルへと置く。チハルが使った食器にはからずも触れてしまうことになってドキドキしたなんて、誰にも言えないけれど。
私にとって、チハルは特別だった。恋とか愛とかそういう入れ物に入れてはいけない類の特別。どんなに力を入れても開かない箱の内側に入れて、私はそれを両手で抱えて、幾重にも布をかけて抱いている。チハルからしてみたら、何てこと無いものなのだろうけれど。
空になった食器の底を眺める私の背から呻き声が聞こえて、思わず視線をチハルへと向けた。開いたその双眸がゆっくりと動いているのを、私は確かに見た。緊張と安堵の、混ざりようのない感情に包まれる。チハルが目を覚ましたことへの喜びと、今この空間に二人きりであることの不安が、同じくらいの強さでもって私を襲う。
「……ああ、チハル、気がついたんだね。良かったあ。大丈夫? 頭、こぶになってない?」
罪悪感にも似た感情から目を逸らすように口にする私に、けれどチハルはぼんやりと目を瞬かせるばかりだった。チハルの瞳は、いつにも増して力が無い。その時私は何も返事をしないチハルに違和感を覚えるよりも、自分の感情に整理をつけることに一生懸命になっていた。そういうところが、いつまでも子供っぽいと言われてしまう所以なのかもしれなかった。
「……悪いんだけど」
どうやらチハルに言語が通じていないらしいということが判明したのは、SQに連れられて食堂に駆けつけたセツが、チハルに幾つか質問をした後のことだ。チハルは、そう切り出した。思い詰めるという言葉とは反対の、さして感慨もない様子で。
「さっきから君……それからそっちの君も、だけど。君達が何を言っているのか、理解できないんだ」
どこをぶったのか、とか、昨晩はちゃんと寝たのか、とか、そういうセツの問いかけに、チハルは一つも答えなかった。答えられなかったのだろう。そっちの君、と目線を向けられて、こんな時なのにどきりとする。
私たちは生まれ育った星が違うから、どうしても使う言語が異なる。それで互いの意思疎通が取れるように、脳に直接学習プログラムを埋め込むのだ。母星によって学習時期は異なるけれど、それが何の前触れもなくごそりと抜け落ちるということはあまり聞いたことがない。
目にかかる長さの前髪の下、チハルの涼しげな瞳が僅かに細められる。
「そもそも、君達は誰」
冗談なんて絶対に口にしない人だったから、私はセツと、セツを連れてきてくれたSQと、三人で顔を見合わせるしかなかった。言葉が通じないだけでなく、私たちのことも分からないなんて。セツの顔にも、SQの顔にも、僅かながらも動揺が見て取れる。だけど、一番慌てていたのはきっと、間違いなく私だ。「セツ、SQ」口にした声が、はっきりと震えている。
「その、これは…………チハル、記憶喪失ってこと?」
たった今、この船の中でグノーシアの存在を検出したって言う、この状況で?
飲み込まざるを得なかったその言葉は、SQが私の代わりに口にした。食堂の椅子に座ったまま、チハルはその丸い双眸を、ただ真っ直ぐ、セツへと向けている。
チハルは物静かな人だった。
普段から表情はほとんど変えることをせず、会話も必要最低限しか交わさない。相槌すらもまともに打たないから、その視線がこちらに向けられていなければ話をきちんと聞いているのかどうかも分からない。だけど不思議とチハルには、それが許されるだけの力のようなものがあるのだった。
そのオリーブに光を集めたような色の瞳が瞬いて、時折気まぐれのように「うん」とその唇から、僅かに低い掠れた声が漏れる。たったそれだけで、その場の空気はチハルという存在に飲み込まれる。透き通るような肌の色、耳から垂れる一房の髪は瞳と同じ色をしているはずなのに、光の加減で海の色のようにも見えた。チハルの一挙手一投足は、どうしたって人の目を引く。チハルという存在は、この星間航行船において、どこか浮世離れしている。
それはチハルの生い立ちというか、チハルが生業としてきたものが関連していることは間違いない。誰もそれを口にしないし、チハルも何食わぬ顔でいるから、まるで暗黙の了解のように、私はそれを指摘しないけれど。
私たちは全員、初対面同士だった。だけど、私は、恐らく私だけは、チハルを知っていた。
ルゥアンで私を「最低最悪」の事態が襲うよりもずっと昔。私はチハルのことを、遠くから見ていた。
チハルとセツがメインコンソールに入ったその瞬間、水を打ったような静寂に包まれた。直前までチハルこそを人類の敵であると口にしたラキオはというと、値踏みするような不躾な視線をチハルへと向けていたけれど。
チハルは、記憶喪失になる前と変わらない佇まいでそこに居た。立っているだけなのに、なんて絵になるんだろう。こんなときなのに見惚れてしまいそうになる。セツと並んでいるから、余計に目を奪われてしまうのかもしれない。そんな私の心情を見透かしたのか、ラキオの指が机の上をとん、と叩いた。「そんな場合じゃないだろう?」と言われているように思えて、こっそり小さくなる。
「お疲れ様、セツ。チハルの記憶、戻った?」
セツは向けられたジナの言葉に緩く首を振った。
「いや……ここの医療ポッドでは無理みたいだ」
さして落胆する様子もない、淡々とした声音で呟いたセツの視線は、背後のチハルへと向けられる。
実際、この船の医務室にある医療ポッドは怪我の治療を目的としたものだったから、チハルの記憶を取り戻すことは不可能だろうとセツは最初から踏んでいた。成果が得られなかったことは、想定の範囲内だ。問題は、そのおかげでチハルを「敵」だとみなす人物がいる、ということで。
「んー、じゃ手がかりゼロってこと?」
SQの言葉に「やれやれ」とラキオは目を伏せる。「さっきから言っているじゃないか。『何も覚えていない』なんて、怪しいことこの上ないだろう?」長い睫毛がその頬に影を落とすのを、私は、一人分の空席を挟んだ隣から、言葉もなく眺めている。
「ほぼ間違いなく、チハルこそグノーシアさ。ハ、上手く人間になりおおせたつもりだろうが、残念だったね」
ラキオのどこか楽しげなその声に、チハルは小さく首を傾げるだけだ。
記憶がない、ということは、何もかも分からないということと同義だ。私が勝手に、共犯者のような気持ちで心に秘めているチハルの過去は勿論、もっと基本的なこと、今の私たちが置かれた現状における問題点、グノーシアという存在そのものも、チハルは理解していない。さっきまでは言葉も通じなかったくらいなのだから。
ああ、そうだ、言葉。不意に思い出して、そういえば、とセツの名前を呼ぶ。もしもまだ言葉が通じていないとしたら、チハルは今自分がどんな言葉を向けられているかも察することができないままなのだ。セツに視線を向けられて、僅かに声が裏返る。
「あ、あの……チハルは、私たちの言葉は通じるようにはなったの?」
「や、そうだね。会話はできるようになってるよ。旧式だったけど促成学習を施したから。ただ……」
「ハハッ、それなのにだんまりなわけ? それじゃもう確定じゃない」
「……話を最後まで聞いてもらえるかな。ラキオ。……ただ、ここに来るまでに軽く話はしたと言っても、詳しい説明はできてない。兎に角今は、次の空間転移まであまり時間がないから……」
話題の渦中にいるはずのチハルは、その瞳を、さして興味もない様子で室内の一つ一つへと向けた。操縦席、円卓に備え付けられた液晶、変哲も無い床、白々しい白熱灯。そうしてからようやく、ラキオ、SQ、ジナ、それから私へと。自分をグノーシアと断定してみせたラキオの言葉を、否定も肯定もせぬままに。チハルは私たちを黙って見つめている。
チハルが生まれ持って持つ華のようなもの。それは紙を端から水に浸すような感覚で周囲に伝播する。目に見えない衝撃のようなものになって、内臓の内側を殴りつけられるような感覚になる。初めてチハルを見た時のように、私はチハルによって、息を止められる。
それは恋ほど甘やかなものではない。信奉だ。私はルゥアンで命を救ってくれたセツを信頼していたけれど、私の日々に色を与え続けてくれたチハルを、神のようだと思っている。
「グノーシア」
不意に、チハルが囁いた。一音一音確かめるように、丁寧に。それが嘗ての、私が良く知るチハルを思い起こさせた。
グノーシアが本当にこの船に紛れ込んでいるとして、だけど、それは本当にチハルなのだろうか。チハルは、私たち人間を消す、人類の敵なのだろうか。私には、それが分からない。
グノーシアが人を襲うとされている空間転移の時間までは、あと一時間も残されてはいなかった。