先生は髪と瞳の色が変わっただけで、そのままの先生だった。
 女神様から力を授かった、っていうのは、やっぱり常人からしてみたら有り得ないことなんだけど、やっぱり「天帝の剣を扱うことのできる特別な先生だから」っていう、ある種の共通認識もあるのかもしれない。先生は、私が想像しているよりも、ずっと皆に受け入れられていた。勿論、中には怖がって先生を避ける人もいたけれど、大多数はいっそ好意的なくらいだった。見た目が少し変わっただけで、中身はそのままの先生なのだから、それも当然のことだったのかもしれない。
 アネットちゃんなんかはそれでもなかなか慣れないみたいで、教室は兎も角、なんてことない場所で先生と出くわす度、「わっ!」と叫んでは都度謝っていた。それも、分からないでもない。私も叫ばないまでも、ぼんやりしているとき、視界に入ったその明るい緑の髪にはっとすることがあるから。フォドラではそれくらい、ああいう色の髪は珍しい。
 先生は女神様から力を授かった後も、いつも通り(それでも春から比べれば随分柔らかくなった表情で)教壇に立ち、私たちに授業をした。前節先生が背負っていた悲壮は、幾分か薄れているように見えた。陽の光の届きにくい薄暗い教室の中で、先生の髪は、海辺の夜光虫のように仄かな光を放っていた。聖墓にて啓示を受けるに相応しい、神々しさのようなものが内包されている気がした。
 私はその光からほとんど逃れるように、視線を殿下の背へと向ける。
 殿下はいつも、先生の横顔をその目で追っている。何か考え事でもしているみたいに、その唇を固く引き結んで、ただ先生のことだけを、真っ直ぐ見つめている。








「怪我したんだって?」



 クロードくんに声をかけられたのは、天馬の節に入って数日。私が目を覚まして授業に復帰してから、三日目のことだった。
 その日私は食堂の窓辺の席で一人で昼食を摂っていて、曇り硝子から淡く差し込む光の中でぼんやりと野菜を咀嚼していたものだったから、隣の椅子が引かれても、そう声をかけられても、すぐには反応できなかった。「お〜い」と食器と身体の間の僅かな空間を指先で叩かれて、やっと我に返ったくらいだ。



「わっ、クロードくん」



 びくりと肩を震わせる私に、クロードくんは眉尻を下げる。



「おいおい、ぼんやりしすぎだろ。……魔獣に吹っ飛ばされて、頭を打って意識が戻らなかったってのは噂じゃなかったのか?」

「魔獣にやられたのはそうだけど……頭は打って……ないと思う、打ったのはお腹……?」

「腹? それはそれでやばそうだが……。あんまり無理すると、後から響くぞ」

「大丈夫、マヌエラ先生が治療してくれてね。……その前に、メルセデスちゃんとフレンちゃんも応急処置をしてくれたんだって。だからもう傷痕もほとんどなくて……」



 もしクロードくんが女の子で、かつここが自室とかだったら、このままお腹を捲って傷痕と言うには薄すぎるそれを見せるくらいはできたんだけど、流石にこの状況でそれをするわけにはいかないっていう分別くらいはある。ここは人前で、私たちは友達とは言え、異性同士だ。
 曖昧に笑う私を覗き込むみたいに、クロードくんは身体をこちら側に向けて、机に肘をついた。



「鷲獅子戦のときと言い、なんでそう無茶するんだか。……案外無鉄砲だよな」

「う〜ん、視野が狭い自覚はあるけど……でもこういうのって、どうしたらマシになるのかなあ。そういう特訓ってある?」

「……あ〜、俺が悪かった。何でも馬鹿真面目に受け取りすぎるんだな、お前。ヒルダじゃないが、ももう少し適当に……何なら多少は手を抜いても良いと思うぜ?」



 いっそとヒルダは足して割ったら丁度良いのかもな。微かに眉根を寄せながら首を傾げるクロードくんは、それでも純粋に私を心配してくれているらしい。手を抜くとか、適当とか、そういうわけにはいかないのに、クロードくんはクロードくんなりに考えて、励ましてくれている。それが、何だか嬉しかった。思わず笑ってしまったら、クロードくんはちょっとだけ肩の力を抜いたみたいに息を吐く。



「……なんか、こうして話すのも久しぶりか?」

「あ、うん、そうかも。……舞踏会以来?」

「はあ、舞踏会か。……もう懐かしいって言って良いのか、悪いのか……」



 舞踏会の翌日も、守護の節も、色んなことがあったから、クロードくんの言わんとすることは分かる。



「で、本当に、もう平気なのか?」

「もう、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」



 大丈夫、ってさっきから何度も言っているのに、信用されていないのかもしれない。クロードくんは頬杖をついたまま、じ、って私の顔を見た。
 そのとき不意に、殿下も、復帰した私を心配してくれていたなって、胸の内側に開いた穴にぴったりとはまり込むものを見つけたときみたいに、自然に、考える。私の頭はいつも、ぐるぐると巡り巡って、殿下の傍に辿り着く。そういう風にできている。
 イングリットちゃんからこっそり教えてもらったことだけど、私が眠っている丸二日の間、殿下もイングリットちゃんみたいに、足繁く医務室に通ってくれていたらしい。本当にもう大丈夫なのか、って、私の顔を見つめた殿下は、殿下の言葉通りちゃんと後方に居なかった私を怒ったりしなかった、ただ、泣きそうな顔で安堵の息を吐いただけだった。クロードくんの双眸を見て、私は今、そのことを思い出していた。「それならいいけどさ」短く言ったクロードくんが、苦虫を噛み潰すみたいな複雑な顔で笑うから、現実に引き戻される。



「……しかしそっちはいつも大変そうだよな。担任が普通じゃない……って言うとあれか。ベレト先生ってのがでかいんだろうが……まだ何か起きそうなのが恐ろしいよ」



 クロードくんの言葉に、曖昧に頷いたのは、何と答えるべきなのか、すぐには分からなかったためだ。
 前節、私たち青獅子の学級が急遽封じられた森へ向かい、騎士団不在の中敵と戦ったことは、もう士官学校の誰しもが知るところとなっていた。先生があんな風にその風貌を変えたのだから、当たり前だ。
 先生は、敵の罠に嵌ってしまったものの、無事に目的を果たした。ジェラルトさんの敵であるクロニエや、ソロンを倒し、女神の力を得た。言葉にしてしまうとそれはとても明快なのに、私はどうしてか、もやもやしている。まだ所在の割れていない「敵」が残っているというのもあるのかもしれないけれど、それ以上に、私は殿下が、どこか苦しそうな目を今もしていることが、ずっと気になっているのだ。それを殿下が打ち明けてくれないことも。何となく、私と距離を置こうとしているように見えることも。



「今節は、聖墓とやらに出向くんだろ?」



 クロードくんは、ほとんど食事の進んでいない私のお皿にちらりと目を落とした後、思いやるような声音で「無理、するなよ、本当にさ」と口にした。私はそれを、全部、殿下にこそ向けてほしいと思った。自分一人で抱え込んで、ドゥドゥーくんにも、フェリクスくんにもシルヴァンくんにもイングリットちゃんにも、私にも、その荷の一つも開いて見せようとしない彼に。クロードくんの言うことだったら、殿下も聞いてくれたのかもしれないな。でも、それでもだめなのかも。わからないや、もう。



「こういうとき、学級が違うと不便っつーか、なんつーか」



 背後を通りかかった生徒が、何か大きな声で、誰かを呼んでいた。クロードくんが椅子を引いたときの、床と椅子の脚が擦れる音、厨房から響く食器の音、食堂の外で響いた笑い声、そういうのが重なって、私はクロードくんの言葉を聞き逃してしまう。「え?」と聞き返す私に、クロードくんは薄く笑って、緩く首を振るだけだ。



「ま、何かあったら相談に乗るよ」



 隣の椅子から立ち上がるクロードくんの声が、今度はきちんと私の頭に降り注ぐ。



「そういうのは、もうディミトリの方が相応しいんだろうけどさ」



 椅子の背もたれにまだ触れたままのクロードくんの指先から、視線を上げる。クロードくんの表情は、白んだ光に慣れた目では、すぐには読み取れない。それでも、その口角が微かに上がったのだけは、分かった。クロードくんは私が何か言うよりも早く、その黄色い外套を翻して、「じゃあな」って短く言い残し、歩き出す。食堂を出て行くその背を、私は唇を半開きにさせたまま、見送っていた。その時吐き出すべき相応しい言葉を、私は、何も持っていなかった。


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