マヌエラ先生が治療をしてくれたこともあって、私の身体の傷は、もうすっかり癒えていた。フレンちゃんやメルセデスちゃんの応急処置が良かったおかげだって。恐る恐るお腹を捲って見たけれど、薄らとした痕が残るくらいで、疼きも痛みもしなかったから、すっかり驚いてしまった。嘆息までしてしまったくらいだ。私が数節前の鷲獅子戦と変わらぬ失態を犯している間、フレンちゃんもメルセデスちゃんも、治療術の腕をきちんとあげているんだから。何だかいっそ、惨めなくらいだった。鼻の奥に生まれた痛みは、そのまま飲み込んで誤魔化した。
「本当に、運が良かったのよ」
マヌエラ先生の言葉にそっと目をあげる。イングリットちゃんが「ええ。無事で良かった……」と神妙な顔で頷くから、私は思わず唇を引き結んだ。そうしたとき、瞼の裏に天高く放り投げられたときの光景がありありと浮かんで、ちょっとぞっとした。だけど、運が良かった、とかじゃないのだ、きっと。それを上手く言語化できない私は、二人に、曖昧に笑ってお礼を言うしかない。
私が意識を失った後、一体何が起きたのか。それは、この時イングリットちゃんによって教えてもらった。殿下を呼んでくると言うイングリットちゃんを引き止めて、私が話してほしいとお願いしたのだ。
イングリットちゃんは、ぽつりぽつりと話してくれた。あのクロニエが、先生の手によって討たれたこと。その後現われたトマシュさん――いや、ソロンの魔道によって、先生は闇に呑まれてしまったこと。もう二度と出てくることはかなわない闇の中に、先生は閉じ込められてしまったと。
「じゃ、じゃあ、先生は」
「いえ、先生は、無事です。ただ……」
けれど、何と言ったら良いのか。そう独りごちるように呟いたイングリットちゃんは、マヌエラ先生の顔を見た後、「実際に会った方が早いかもしれません」と、改めて私を見た。
本当はまだ半日は安静にしておいてほしいくらいなんだけど、と眉を寄せるマヌエラ先生は、けれど「先生に会ってきたいです」と寝台から下りて言う私に、それ以上、何も言わずにいてくれた。マヌエラ先生は、私の気持ちをきちんと理解してくれているんだろう。向かい合う人の目線に立ってくれる、とても良い先生だと思う。私はその優しさに、甘えてしまう。
マヌエラ先生に改めてお辞儀をしてから、医務室を出て歩き出した瞬間、少し足元がふらついた。その身体をイングリットちゃんが支えてくれる。イングリットちゃんは私に腕を差し出して、「一緒に行きましょう」って、少しだけぎこちなく、微笑んでくれる。戦いの後、封じられた森から大修道院まで私を運んでくれただけでなく、授業の合間合間にこうして私の容態を窺いに来てくれていた。その上、こうして身体を支えて歩いてくれるのだ。頭が上がらないどころじゃない。「ごめんね」って言った私に、イングリットちゃんはそっと笑って、ゆっくり首を振った。
イングリットちゃんが何か躓いたり、立ち止まったりしたとき(実際、そんなことは起こらない方が良いに決まっているのだけど、それでももしそういうことがあったとき)、私もイングリットちゃんがそうしてくれたように、イングリットちゃんに寄り添えたらいい、と思う。
イングリットちゃんの腕にぎゅうと力を込めた。大広間の二階の廊下は、人気が少なくて、ひっそりしていて、少しだけ、寒い。
実際に先生に会って見たほうが早いだろうとは言っていたものの、イングリットちゃんは道中、もう少しだけ詳しく語って聞かせてくれた。
先生はあの森で、ソロンの罠に嵌められた。闇に呑まれた人間は、二度と戻ってくることはない。永遠に彷徨い続け、絶望の中その命を終えることになるだろう――ソロンは残された殿下やイングリットちゃんたちに向けて、そう言い放ったと言う。だけど、やがてその空間に、まるで剣で切り開いたような亀裂が入った。空を焼く赤い光と共に現われた先生を、ソロンは「凶星」と呼んだ。
何が起きたのかを実際に知っているのは、ベレト先生ただ一人だ。だけど先生は、闇の中で女神の啓示を受けて力を授かり、その力でもって闇から抜け出した、それだけは確かだった。そしてその剣で、ソロンを切った。
「……あれは神話の、聖者セイロス宛らでした」
私が丸二日も眠っている間に、守護の節は終わっていた。
大広間の階段を下りたイングリットちゃんは、教室ではなく、大聖堂に繋がる橋の方へ私を促した。だから、もしかしたらイングリットちゃんは、先生の居場所を知っていたのかもしれない。ガルグ=マクの谷間に吹き付ける風はファーガスに生まれ育った人間にとっても身震いしてしまいそうなほどに冷たく、胸いっぱいに吸い込めば、喉の奥に小さな氷の粒を放り込まれたみたいに身体の芯から冷える。風は私たちの髪を巻き上げて、思わず「わ」と声を漏らした。イングリットちゃんの吐き出した息は白くなって、そのまま空気に立ち上って、溶けるみたいに消えていく。それを見送るみたいに首を持ち上げたら、そこには、どれだけ上を見たっててっぺんが見えないくらいに背の高い、荘厳な大聖堂があった。私は一年近くをガルグ=マクで過ごした今でも、この大聖堂に圧倒されてしまう。
イングリットちゃんは、女神様の力を、先生が受け継いだ、って言った。
それだけ聞けば荒唐無稽にも思えるのに、雪が衣服に染みこむみたいに、「そうか」って思った。不思議な力を持った、不思議な先生だったから、そういうことがあっても、ちっともおかしくないように思えた。先生はきっと、もうずっと前から(それこそ生まれたときからであってもおかしくない)、女神様の祝福を受けていたに違いない。そうじゃなかったら、絶体絶命の窮地で、手を差し伸べられる奇跡なんかきっとない。女神に愛された先生だから、私の命が失われないよう、何度も導いてくれた。
そして先生は、ソロンをもその力で倒したのだ。
大聖堂へと続く重厚な扉が、音をたてて開かれる。長椅子の並べられたそこには、夜でもないから、たくさんの信徒や生徒、騎士の人がいる。球状に作られた天井には玻璃硝子が填め込まれていて、そこからは冬の、白んだ光が差し込んでいた。床に落ちる色は以前と比べてずっと微かなのに、そこに佇むその人の後ろ姿に、目が眩んだようになる。
クロニエも、ソロンも、もうこの世にはいない、恐らく。先生は無事にジェラルトさんの敵を討ち、大きな怪我もないまま、再びガルグ=マクに戻って来た。
「……先生は今節、聖墓にて主の啓示を受けることになるそうです」
私たちも、それに同行するように、と。
イングリットちゃんの声は、大聖堂のざわめきに飲み込まれることなく私の耳のすぐ傍に落ちていく。
それが、先生にも届いたのだろうか。祈るでもなく、ただ祭壇を見つめていた先生が、その時私たちを振り向いた。光の加減でも、見間違えでもなく、その時の先生の髪の色は、元の藍緑からいくつかの色彩を取り払ったようになっていたのだ。
鮮やかな明るい柳の色は、レア様のそれに似ていた。
私が眠っている間に、どれだけのことが起きていたか、変化したのか、それだけでもう、充分すぎるくらいだった。たったそれだけで私は思い知っていた。「先生」呼びかけようとした声が、喉のあたりで張り付いて取れない。
先生の唇が「」と動いたとき、そのとき耳に入った全部の音が頭のてっぺんから一斉に降り注いで、波が引くみたいに消えた気がした。
先生がその時微かに笑ってくれなければ、私はそのまま、後ずさってしまっていたかもしれなかった。先生は笑っていた。泣き出す一歩手前くらいの、どこか寂しい笑顔だった。