仄暗い森に響く複数の咆哮に、背筋が粟立った。
森に足を踏み入れたばかりの私たちの位置からでは、その姿は見えない。けれど、重なり合う唸り声を聞き間違えるはずがなかった。夏の終わりのコナン塔で、前節の旧礼拝堂で、私たちはこの音を聞いていた。地の底から足の裏、そして頭蓋の天辺にまで強烈な振動をもたらすあれは、魔獣のものだ。思わず身を竦ませる私の背を、イングリットちゃんが手の平で支えてくれる。縋るみたいに、イングリットちゃんを見た。彼女は真っ直ぐ、重なる木々の葉と空の境界あたりを見据えていて、どうしてか泣きたくなる。何度戦っても、私はあの魔獣の存在に怯えてしまう。
敵は最初から、先生をこの森に誘いこむためにその居所を明らかにしたのだろう。彼らにとって目障りな騎士団がフォドラ各地に散った時機を見計らって。
でも、見計らうって、一体どうやって? そう考えたとき、もしかしたらまだガルグ=マクに内通者がいるんじゃないか、っていう仮定が頭を掠めた。その誰かは、ガルグ=マクの内情を全て敵に漏らしているのかもしれない、って。けれど、私はもうそこで考えるのをやめてしまう。怖かったのだ。トマシュさんやモニカさんに続いて、私たちの身近にいる人が裏切り者であるかもしれない。そう考えて、疑心暗鬼になってしまうことが、私は怖くてたまらなかった。
森の奥から、この場には不釣り合いな甲高い女の子の笑い声が響いたのは、丁度そのときだった。
「こんなところにノコノコ現われて、あんたたちってほんっとに馬鹿ねぇ」
モニカさんの声のように聞こえたけれど、全く別の人のもののようにも聞こえた気がしたのは、私がそういう風に思いたかっただけなんだろう、多分。
木々の切れ目のその先で、制服姿の赤い髪の女の子が、何か別の存在に変貌した。彼女は、自分のことを「クロニエ」と名乗った。
「ケモノさんたちは、あたしが相手してあげる! みーんなここで殺してあげるから!」
森中に響く笑い声は狂気じみていて、いっそ耳障りなくらいだった。彼女の、いや、彼女たちの目的が一体何なのか、私には分からない。だけど、戦わない選択肢なんか、もうどこにもなかった。ジェラルトさんの敵で、フォドラの安寧を脅かすものであることは、誰が見たって明らかだったから。
先生の顔を、見るべきだったんだろう、他の皆みたいに。だけど私は、殿下の青い外套を視界の真ん中に置いたまま、息をじっと潜めていた。殿下は今、どんな顔をしているんだろう。殿下が一体何を考えているのか、私は今も、何も分からないままだ。
魔獣だけでなく、森の奥から、敵は次々に現われた。どれだけ訓練をしていたって、皆に比べたら、私なんか全然、ちっとも戦場で役に立たないって分かっていたけれど、この時ほどそれを実感したことはない。
四方を魔獣と兵士に囲まれて、私たちはクロニエの元に向かう道を切り開くのに苦戦を強いられた。挟撃されるのを防ぐには私たちも二手以上に別れなければならず、先生の指示に従って、西へと向かわされたのは、今から少し前のことだ。
先生と殿下はクロニエの元へと続く南の方角に向かっていて、その分こちらは手薄だ。勿論これまでのように騎士団の助けもない。手が足りないのは明らかだったから、私は殿下に直前に言われた「できるだけ後方に居た方が良い」という言葉に反して、前線に立ったのだ。魔獣に一太刀浴びせることは叶わなくても、武器を持つ兵士たちに応戦するくらいはしたかったから。
だけど混乱する戦場で、視野を広く持つことが、私にはできなかった。気がつかなかったのだ、深傷を負った兵士を追いかけるのに向かったその場所が、魔獣のすぐ近くだったことに。鷲獅子戦での経験が、何にも生かせてないんだから、嫌になる。こんな風に簡単におびき出されて、クロードくんに向ける顔がない。
「、そっちはだめです!」
イングリットちゃんの声が響いたときには、もう遅かった。私は、フェリクスくんやシルヴァンくんによって瀕死にまで追い込まれた魔獣が振り払った腕をもろに受けてしまっていた。鈍い衝撃の後、空に跳ねるように身体が宙を舞う。悲鳴も出なかった。一瞬だったのだ。
「あ……の阿呆……!」
「げっ……!」
地上から、シルヴァンくんの私を呼ぶ声が届いた。フェリクスくんの、苦々しい声も。当たり所が良かったのか、それとも悪かった、って言うべきなのか、私の身体は玉みたいにぽおんと跳ねて、木々の背丈を超えた。暗い色の空が近くなる。剣だけはずっと握りしめていたけれど、それでどうなることもない。叫びたくても、声も出ない。
そうして空を舞っている間は恐らく数秒にも満たないはずだったのに、走馬灯だったのかな、私の目には色んなものが見えていた。その中で、私はお腹に剣を突き立てられたり、腕がなくなっていたり、自らの身体から吹き出る血を見たり、蒼白の顔で私を呼ぶ殿下や、イングリットちゃんを見たりした。びっくりするくらい現実味のある、生々しい光景だった。痛みや匂いや、自分の身体から少しずつ力が抜けていく感覚までも、思い出せそうな気がした。気がしただけだ。
今の私はお腹に穴も開いていないし、四肢もある。殿下はここより先の前線に向かっているから、これは走馬灯じゃなくて、そう、ただの悪い夢に違いない。それに比べたら、今私が宙に身を放りだしていることくらい、なんだっていうんだろう。……勿論、今は麻痺しているのか、痛みを自覚していなくても、お腹にかなりの衝撃を受けたのは間違いないから、これだって無事では済まないんだろうけれど。
きっと殿下に心配されてしまう。後方にいろと言っただろう、って、怒られるかも。だけど、本当に、そうなるのかな、って、そんな詮無いことを考えていた。殿下は私のために怒ったり悲しんだり、してくれるんだろうか、本当に。宙を舞いながら、考える。私は殿下が私を好きだと言ってくれることを、たまに、疑ってしまう。殿下がどこかここではない、遠くの影を見つめるような目で立っているとき、殿下の頭の中に自分はいないんだろうという、どうしようもない確信だけがある。私はそういうとき、無性にさびしくなる。さびしいです、と口をついて出そうになる言葉を、必死で飲み込む。そうしなければ、殿下を困らせてしまうと知っているから。
殿下を疑うことは、畢竟、自分自身を追い詰めることと同義だった。だって、殿下が私を思ってくれるなら、それだけで私は胸を張っていられる、って、そういう風に感情を整えて、箱の中に入れたから。だから、私は殿下を信じるのだ。私を好きだと言ってくれた声を思い出すのだ。そうするしか、ないのだ、どれだけ心細くても。
弧を描いていた身体が落下し始めたことに気がついたとき、咄嗟に目を閉じた。木の枝か、落ち葉の上かだったら、まだ骨が折れる程度で済むだろうか。フレンちゃんやメルセデスちゃんの治療で、どうにかなるものだったら良いけれど。だけど、その衝撃は思ったよりも早く訪れた。想像していたような、背骨が折れるようなものでもなかった。むしろ、どちらかといえば優しいくらいの。恐る恐る目を開けたとき、白い天馬の羽根が視界に入る。
それは、イングリットちゃんの天馬だった。空の真ん中で、私はイングリットちゃんに抱き留められていたのだ。
「! 怪我はありませんか?」
ついさっき、空の真ん中で一瞬見えたはずの顔よりも、私を覗き込んだそれはまだ絶望に染まりきっていなくて、それだけで、私はほっとした。だけど魔獣に薙ぎ払われた際、やっぱりお腹の内側を損傷していたんだろう。大丈夫、ありがとう、って言おうとして開いた口から、盛大に血を吐いてしまった瞬間、イングリットちゃんは悲鳴をあげて酷く狼狽した。助かったっていう安堵と、遅れてやってきた痛みに、私はそのままイングリットちゃんにもたれ掛かってしまう。意識が遠のいて、イングリットちゃんの私を呼ぶ声が、徐々に遠くなっていく。
でも、薄れる意識の中で、私には変な確信があったのだ。
多分、死なないんだ、私は。って。
そういう風に、できているんだ、って。
多分、これまでも、そうやって私は生き延びてきたんだろう。何かの、見えない手によって、ずっと私は生かされていた。今日も、これまでも、ずっと。
それは、死に瀕した今だからこその第六感だったのかもしれなかったけれど。
実際私は死ななかった。次に意識を取り戻して目を覚ましたとき、私は士官学校の、医務室に居た。あの戦いからは二晩が明けていて、その時点でもう、色んなことが終わったり、変わったりしていた。私はそれを、私の目覚めを待っていたイングリットちゃんから聞かされることになる。
私が気絶した後、封じられた森で何が起きたのかを。クロニエがどうなったのかを。
先生の身に、何が起きたのかを。