どうして炎帝が、昔俺がエーデルガルトに贈ったあの短剣を持っていたのか。
 俺は単純な男だから、それらしい理由を何か挙げるよりも先に一つの可能性に行き着くと、そこで足を止めてしまう。そもそも小難しい理屈をこねくり回すよりも、その方がずっと明快なのだ。
 あの短剣を持っていたということは、エーデルガルトこそが炎帝なのではないか。
 その疑念は、日によって大きくなったり小さくなったりした。俺の知っているエルとエーデルガルトの顔が浮かんでは消え、その際に生まれる隙間に埋め込むように、果たして彼女はそのような人間だろうかと思案する。夜中、薄暗い室内に灯した蝋に揺らぐ炎を見つめていると、それはいつも転落するように最悪の一歩手前に横たわった。守護の節のはじめ、外郭都市で先生と聞いた「ダスカーの悲劇は、炎帝が力を得るためにやったこと」という事実。殺すべき相手があいつらであることが明白になったのも束の間、炎帝の持っていた短剣に思考が停止してしまったなんて、愚かにも程がある。
 もしも先生やフェリクス、シルヴァンにこの話をしたら、彼らは何か俺に、尤もらしい他の事情を提示してくれるだろうか。そう思いながらも、俺は一人、抱えた疑念を持て余していた。眉を顰め、これに首肯されるようなことでもあれば、今度こそ、どうしたら良いか分からなくなるだろうと察していた。先生の復讐心について思考を割けば、俺は、それから目を逸らせるのではないかと思った。けれど先生のことも心配していたのだ、本当に。
 たかが短剣だ。俺が覚え間違えているだけではないか。似たようなものなど、フォドラを探せばあるだろう。そうでなくとも、何らかの事情があって彼女の手から離れたものが偶然炎帝の手に渡ったのかもしれない。無理矢理奪われてしまったということだって考えられる。いや、いっそ俺との思い出があまりにも面白くないものだからと、意図的に手放した可能性だって。
 けれど、あれがエーデルガルトであるならば、腑に落ちることも確かにあるのだ。彼らがわざわざガルグ=マクの外郭都市で顔を付き合わせていたことに、理由がつくのだから。ここから目と鼻の先の、封じられた森にその身を潜ませているのだって、あの者たちを彼女が手引きするのに都合がいいからではないか。彼女が幼い頃ファーガスに亡命していたのも、政変から身の安全を守るためなどではなく、いずれダスカーの悲劇を引き起こすための下準備だったのだとしたら? 何も知らなかったのは俺だけだったのだとしたら? ディー、と笑う幼い彼女の声が遠くなる。身体の芯が冷えて、手足の感覚がなくなる。これまで失ったら、俺はもう戦えない。



「殿下」



 袖を引かれる感覚に、我に返った。
 一瞬、自分がどこにいるのかが分からなくなる。鬱蒼とした木々。昼だというのに差し込む光は弱く、夜の明けきらぬ朝にも見える。地面は湿っていて、足を踏み出せば軍靴が僅かに沈んだ。草木の湿った匂いの中に、微かに混じる獣臭。
 これから踏み込む封じられた森を背に、が俺を見上げていた。



「…………

「あ、あの、顔色が優れない、気がして。……大丈夫ですか?」

「ああ……いや、俺は……」



 耳障りなくらいに響いていた鼓動の音が、徐々に収まるのを感じる。
 俺の目線を受けて、は慌てた様子で俺の袖から手を放した。掴んでいても構わないのに。彼女はいつまで経っても、俺に遠慮ばかりする。
 しかしそういうこそ、随分青白い顔をしているように見えた。武器を振るうことが苦手な彼女だ。戦いを前にして、気負っているのかもしれない。少しでも勇気づけられたらと「……俺は、大丈夫だ。こそ、あまり無茶をするなよ」と笑いかければ、はそっと眉根を寄せて俺を見た。
 何か言いたげな顔だ。本来なら向き合って、の不安を取り除いてやるべきなのだろう。実際、俺だってそうするつもりでいた。その背後で、「ジェラルト殿の敵討ち、私も力添えさせてください、先生」と言うイングリットの声が、の注意を引くほど響くことがなければ。
 敵地へ向かう直前、先生を囲んで、皆が口々に激励の言葉をかけているところだった。フレンも、アッシュも、続けて先生を鼓舞する。そんな中、水を差すように口を開いたのはシルヴァンだ。「しかしなあ、トマシュさんには世話になったし、戦いにくい相手だよなあ」……シルヴァンの場合、そういう意図があってというよりはむしろ、そこに思い当たらない者へ向けての忠告だったのかもしれないが。
 実際、はその言葉に、微かに反応を示していた。出撃自体突然で、忙しないものだったから、もしかしたらは、トマシュ殿と戦う覚悟がまだできていなかったのかもしれない。本当に、戦いに向いていない子だと改めて思う。けれどそれに俺は、尖った神経に膜を張られたように思っている。炎帝の正体のことで頭を悩ませ続けていた俺には、彼女の戦いに馴染みきらない健全さが、好ましく映っている。
 だからこそ、この戦いでは後方にいてもらいたかった。俺が、俺の打ち倒すべき敵を前にすることになる以上、特に。これから戦う相手を、俺は世話になった書庫番とも、隣の学級に数節居た学友とも思ってはいないのだ。あれは俺の、俺と先生の、敵だ。凄惨な死に目に合わせなければ、気が済まない。その身に最大の苦痛を与えてやっても足りない。けれど、血を被り、獣に成り下がる俺を、彼女には見られたくなかった。何も知らぬままでいてほしかった。俺の根が腐っていることも、人の皮を被っているだけの俺自身にも、気付かないでほしかった。
 俺は嫌なやつだから。
 。お前はやはり、この戦いは、後方支援に徹してくれないか。騎士団の応援も望めぬ以上、激しい戦いになるだろうし、俺や他の皆とて無傷では済まないだろう、だから、お前は治療のために後方に控えておいてほしいんだ。言いかけた声は、けれどフェリクスの声に潰される。



「後ろから斬ればいい」



 顔見知りとは戦いにくいと眉尻を下げるメルセデスに向けての言葉だった。



「顔さえ見なければ、顔見知りかどうかなどわからんだろう」



 こんな時なのに、それが俺の節に挟みこまれるように、するりと落ちたのだ。
 視界の端では、が不思議そうに俺を見上げている。腰の横で緩く握られた拳が震えていることを俺は知っていた。解いてやれたらよかった。けれど、今はフェリクスの言葉が、いつまでも脳をぐるぐると反芻している。一度端に寄せておいたはずの炎帝に関する疑念が、息を吹き返し、を押しのける。「顔さえ見なければ」。ならばその顔を見るまでは、俺はエーデルガルトを信じて良いはずだ。
 どんな相手であろうとも、戦う覚悟はしていなければならないけれど。
 アネットとイングリットの背の奥の先生と目が合ったとき、俺は自分が一体どんな表情をしているのか、分からなかった。が「殿下」と、譫言のように呟いたのが、俺の耳に届くことなく、地面に落ちていったのにも、気がつかない。


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