殿下って、もしかしなくても、きっととっても鈍い。
だって私は、殿下のことが心配だったのだ。ドゥドゥーくんにも打ち明けることをしないまま、殿下がずっと何か一人で抱え込んでいるように見えたから。その重荷を少しでも分けてほしくて、だけどそれ自体が殿下には迷惑なんじゃないかってぐるぐる考えて、それで思い悩んでいたっていうのに、それなのにどうして「何かあったのか」なんて私に聞くんだろう。そんなの、私の台詞だ。私が聞いて、はぐらかされたものだ。人の痛みにばかり敏感で、自分のことに鈍感。殿下は、そういう人なんだ。
「俺に話をしたところで、解決できる問題かどうかは分からないが」
私がいつまでたっても口を開かないものだから、殿下はそんな風に続けた。だから、慌てて首を振る。
私は、私の抱える悩みたちの、どれか一つでも殿下が解決できないものなんかないって知っている。だけどそれは本質的なものだ。私は殿下を困らせるくらいだったら、自分が苦しいままの方がいい。殿下が誰にも打ち明けないと決めたなら、私はそれごと殿下のことを見守るしかない。だって殿下がそうしたいって思っているんだから。散々思い悩んだけれど、結局の所、行き着く先はそこなのだ、いつだって。
首を振ったまま、じっと黙る私のことを、殿下は少しだけ困惑したような顔で見つめていた。
青い絨毯の敷かれた、殿下の部屋。作り付けの棚には本や書簡、手紙の類が雑然と並んでいて、だけど、散らかっている印象はない。その中に、私は見覚えのある背表紙の本を見つけた。アランデル公の名前が書かれた紙の挟まっていた、あの本だった。脳裏を過ぎるのは、エーデルガルトさんのことだ。本当は、私は、殿下の口から彼女のことをもう少し詳しく聞かせてほしいと思っている。もうなんとも思っていないと言った彼女のことを、私が盗み聞きした以上の話を。だけどそんなの、醜いから、絶対に口にはしない。それと一緒だ。私は殿下の負担にはなりたくない。殿下のことを支えて、殿下がつらいときに、ちょっとでも安らげる場所になりたい。それでいい。
殿下が「使ってもらえるだろうか」って言ってくれた椅子から、思いきって立ち上がる。どこにも座ることをせず、部屋の真ん中に立っていただけの殿下はぎょっとしたように私を見た。「何もしない」って、殿下は言った、だけど、私は今どうしようもなく、殿下に触れたかった。殿下の隠すそのお腹の内側を探る代わりに。
「で、でんか」
足の先と先が触れ合うくらいの距離で立ち止まって、殿下のことを呼んだ。勇気を出して顔を上げたら、殿下は目を丸くしたまま私を見下ろしている。
近くで見ると、そのあまりにも端正な顔立ちにいろんなものが止まってしまいそうになった。切れ長の青い瞳に、それを縁取る色素の薄い長い睫毛、鼻筋は美しく通っていて、こんなに空気が乾燥しているのに、唇は全く荒れていない。整った金糸の髪も、制服の上からでもわかるがっしりとした体躯も、全部、全部、私が持っていないものだ。
こんなに美しい人が私のことを好き――だなんて、今でも都合の良い夢を見ているんじゃないかと思ってしまう。ある日目が覚めたら、何もかもが元通りになって、私は殿下のことを遠くから見守るだけの女子生徒になる。春になれば領地へ戻り、お兄様が継ぐはずだった何もかもを背負い、この一年を飴玉のように大事に舐め続ける。小さくなって、いつか口の中から消えてしまっても、いつまでも、いつまでも。
実際にそういうことが起きたって、何ら不思議ではないし、そうだとしても私はきっとそれなりに上手くやっていけるはずだった。だって元々卒業した後はそうやって、慎ましく生きるつもりでいたのだから。殿下のことが好きだと自覚した日から、ずっと。
だけど不思議なことに、これは全然夢ではなくて、殿下はどうしてか私のことを好きだと思ってくれていて、それは、本当に色んな奇跡が絡み合って生まれた一滴の雫がたまたま私の上に降ってきたみたいなようなもので。
だから、それ以上を望むなんて、本当は分不相応なのだ。分かっている。分かっているけれど、私は自分が思っていたよりも、案外欲深い人間だったみたい。
殿下の目は、吸い込まれそうなくらいきれいだった。こんなにきれいな目をした人を、私は他に知らなかった。
「……その、殿下の手を、ぎゅってしても、いいですか」
そう言うのに、どれだけの勇気を振り絞ったか。もっと、きれいに言えたらよかった。こんなことくらいで吐きそうになるくらいに緊張して、口から何かが出そうなのを堪えるかわりに、涙が滲んできて、だけど今更目を逸らせなかった。
殿下が私のことを、びっくりしたような顔で見つめている。いきなりこんなことを言うから、困らせているんだ。だって、「何もしないよ」って言ってくれた人に、私から手を触りたいって言うなんて、物凄くはしたない。だけど、触れたかった。そうしたら多分、何もかもを飲み込むことができると思ったから。
好きって言ってもらえて満足して、だけど満たされていたはずの心はあっという間に乾いて、今の私は、殿下の手に触りたい、って思っている。じゃあ、これから先の私はもっと欲しがりになるのかもしれない。それが、本当は少しだけ怖いけれど。
振り払うように、ほとんど無意識に緩く首を振った。「そうしたら、多分、私の悩み事、全部解決するので」って、続けたそれは、言い訳と同じだったのかもしれない。でもそれはきっと、嘘じゃなかった。頑張れると思ったのだ。殿下が私に、抱えた痛みを渡してくれなくても、殿下のことを信じて傍にいられるって。
長い沈黙の後、殿下が小さく息を吐く。はぁ、って。だけどそれは呆れているとか、うんざりしているとか、そういうのではなかった。何か思い詰めたものがあって、溢れそうになる感情を一度取り出して、濾過するみたいな響きだった。
殿下の足が、後ろに一歩下がる。身体の向きを変えて、殿下は寝台へと向き直った。え、と口から声が漏れる。拒否、されてしまったのだろうか、って、耳の奥がきんとなった気がした。だけど殿下の身体の奥で、寝台の敷布の上に、何かが放り投げられたのを見た。
殿下の籠手だった。
「あ」
「……触れるのに、籠手越しではまずいだろう」
「え」
まずいとか、まずくないとか、そんなの全然考えてなかったものだから、私はすっかり狼狽してしまった。寝台の上に放られた籠手は、何かの殻みたいに仰向けになって、じっと息を潜めているみたいだ。それで改めて殿下の姿を見たとき、私はようやく、初めて殿下の、生の手を見た、って気がついた(生の手、って言い方、だいぶおかしい気がするけれど、それ以外に言いようがない。)授業中も、訓練のときも、殿下はずっと籠手をしたまま過ごしていたから。少なくとも、私の前では、ずっと。
殿下の手は、ごつごつして骨っぽい。指が長くて、私のと比べるとずっと関節が太い。切り揃えられた爪も、ちょっとだけ四角いっていうか、硬そうに見える。
男の人の手だ、と思った。
籠手越しにだったら、殿下の手には触ったことはある。フレンちゃんと先生に頼まれて舞踊の練習をしたときがそうだ。あとは、赤狼の節に、一度だけ。あれは、本当に指先だけではあったけど。でも、だから私は簡単に、ぎゅってしたい、って言えたのに。
ささくれ一つ無いそれを瞬きもせずに見ていたら、殿下が「そんなに見ないでくれ」と、困ったように笑った。
「俺も、ちゃんと触りたいんだ。に」
それで思考が止まらないはずがない。
殿下は身体の横に力なく落ちていた私の手を、ちょっとだけ躊躇った後、取った。殿下の手は私のものよりも温度が低くて、厚い。殿下の手の平に乗せられた私の右手は、見ただけで分かるくらいに震えていた。その震えをおさえるみたいに、殿下の指が、私のそれを包み込む。息が止まった。「ひ」って、声が漏れた。多分私の顔は真っ赤で、そのまま倒れてしまいそうなくらい、頭が熱を持っていた。
両足に力を込めて、どうにか殿下の顔を窺えば、私と目が合った殿下はそっとその眦を細める。びっくりするくらい、柔らかい笑みだった、なにかを慈しむようだった。
「……小さいな」
殿下の手が、大きいから。
言いたくても、もう声にならなかった。殿下はそれから私の手がふやけてしまうんじゃないかってくらい、長い間、私の手を握っていてくれた。世の中の恋人同士がこんな風に愛を育んでいるんだって思うと、何だか信じられないような気持ちになる。だって、これじゃあそのうち、どきどきしすぎて死んでしまってもおかしくない。
冷たかったはずの殿下の指先は、私の体温を奪ったのだろうか、ちょっとずつちょっとずつ温かくなっていて、その温度にほっとした。その温度の分だけ、自分が大切にされているみたいに思えた。
胸がぎゅうと締め付けられた後、身体中の熱が放たれたみたいに、軽くなる。
私の悩みが本当は何も解決してなくても、殿下の心がずっと分からなくても、それでも殿下が私のことを思ってくれているなら、私はこれからも胸を張って殿下の隣に立っていられると思った。
本当に、そう信じていた。