殿下の不調に私以上に敏感なのは、ドゥドゥーくんしか居なかった。
 だから私は、ドゥドゥーくんを捕まえて色々話がしたいと彼の背後を狙っていたのだけど、殿下の側近たるドゥドゥーくんは殿下の様子のおかしさを察知する能力に長けるあまり、その傍をほとんど離れようとしない。いつもだったら頼もしいと思うのに、今はそれがとっても歯痒い。
 どうしたら殿下に勘づかれることなく、ドゥドゥーくんを呼び出せるだろう。先生が呼んでいたよ、って嘘を吐く? それとも、温室のスミレのことで相談があって、って言うとか(ちなみに、この前また花を枯れさせてしまったため、これに関して聞きたいことがあるというのは嘘ではなかった。もしかしたら、私は花を育てる才能がないのかもしれない。)
 色々考え込んでしまったけれど、でも、気がついてしまう。そうしてドゥドゥーくんを無理に引っ張ってきたところで、一体私に何ができるんだろう、って。
 殿下の心を悩ます問題がどこかにあって、それをドゥドゥーくんが詳しく知っていたとして、私自身は殿下に直接「心配しないでくれ」と言わているのだ。ならば、心配しない(というか、風を装う)ことが一番殿下に寄り添う形になるんじゃないだろうか。殿下はそれ以外を、私には求めてはいないんじゃないか。そうしたとき、私が勝手に殿下のお腹を探るのは、きっと良くないんじゃないか。だったらもう、むしろドゥドゥーくんがああやって殿下の傍に居て注意を払ってくれている方が安心なのかもしれない――。
 そんな風に悶々と考えているうちに無意識に自然が下がっていたから、私は目の前を歩いていた殿下とドゥドゥーくんのうち、殿下だけが私を振り向いたのに、ちっとも気がつかなかった。







 不意に頭のてっぺんに声をかけられて、びくりと肩が跳ねる。
 俯いていた私の視界には、私の足元にまで伸びる、一人分の影があった。恐る恐る顔をあげたら、そこには困った顔で私を見下ろしている殿下がいる。その肩越しには、ドゥドゥーくんも。「で、殿下」思わず漏れた声が上擦る。
 私、もしかして考えていることが全部外に出ちゃっていたんだろうか。それとも、怨念みたいにじわじわ漏れ出てた? だって、そうじゃないなら殿下は、こんな風に困った顔をしていない。
 これで殿下に「頼むから、そう心配しないでくれないか」って言われたら、私は一体どうしたらいいんだろう。
 そこはもうほとんど教室の目の前で、生徒の目が多かった。それを嫌ったのかもしれない。殿下は少しだけ屈んで、それから私の耳にその唇を近づけた。吐き出されたその声は、空気に溶けてしまうくらいに優しい。



「……授業が終わったら、少し、どこかで話でもしないか」



 話。
 殿下の青い瞳が離れていく。その真ん中に映った、目と口とをまん丸くした、何だか間抜けな私の姿も。
 話、だったら、している。ほとんど毎日。授業が終わった後の教室で。でも最近は、殿下がどこか所在なさげにしているから、日が落ちる前には別れていた。「どこかで」って言うなら、それとは違うんだろうか。教室じゃない、全然別の場所で、お話をするってことなんだろうか。
 私の考えは粗方顔に出るらしく、何も言ってないのに、殿下は「場所は……どこが良いだろうな」と、やっぱり眉尻を下げて小さく笑った。首を傾げた瞬間、その髪が風に靡く。



「まあ、考えておこう。また後で」

「は、はい、わかりまし……た……」



 殿下はそっと頷くと、踵を返した。殿下が戻るのを待っていたドゥドゥーくんが、殿下に何か言葉を向けることなく、遅れて肩を前方に戻す。教室の方に消えて行く二人の姿を見送りながら、私は何だか、こんな時なのに、どきどきしている。
 殿下の顔が、不意に近くに寄せられたせいだろうか。びっくりしたときに急に敏感になってしまった私の五感は今も冴えたままで、どうしたらいいのか分からなかった。
 触れた頬が熱い。守護の節の冷たい風が、今だけは心地良いくらいだった。








 騎士団の人たちは今、総力を挙げて敵を追っている。
 そのおかげで、ガルグ=マクは今ほとんどの騎士が出払っている状態だった。これまでも彼らが留守にすることは度々あれど(それこそフレンちゃんの捜索時だったり、ルミール村で異変があったときだったり)今回は規模が違った。平時はガルグ=マクの警戒のために配備されていた部隊もこぞって駆り出され、今大修道院内に残る騎士はほんの一握りでしかない。万が一敵から強襲を受けたときのことを思うと、どうしても不安が残る。フェリクスくんが眉を顰めて、「教団は冷静さに欠けているのではないか」と苦言を呈すのも、頷けてしまうくらいだった。
 だけど、だからと言ってこの大修道院内で人目につかないところがあるわけではない。
 比較的人通りの少ない厩舎の方だって、当番の生徒がいればどうしたってその気配がある。騎士の間も、詰所としてはここ数日ほとんど機能していないくらいだとしても、生徒の出入りが一切ないわけではない。いっそ大修道院の外はどうだろうと思ったけれど、屋外でもない限り人の目や耳から切り離されることはないだろうし、この時期ともなれば、外は外で寒かった。
 結局、二人でお話をするなら教室が一番ましなのではないだろうか。もし人の気配を感じたら、会話をやめればいいんだから。
 殿下が一体何を話すつもりでいるのかについては、敢えて想像をしなかった。だって、考えたってどうせ良い方向には進まないのだ。私は自分の思考が基本的には悪い方へ向かいがちであることくらい理解している。だから、殿下がこうして、腰を据えて話がしたいと言っていることについても、内容の方に関しては極力考えない。どこでお話するんだろう、っていうことに関してのみ、想像を働かせる。ようにする。本当は、ちょっとお腹が痛いけれど。
 まさか殿下がその数刻後、「部屋に来てもらえないか」と提案するなんて、思いもしないまま。








 部屋に招待したとき、はそれはもう小さくなっていた。叱られる前の子供、或いはこれから捕食されることを悟っている子鹿のようで、彼女には悪いが、笑ってしまいそうになる。
 「部屋に来てもらえないか」と俺が言ったときから動揺しているようだったのは明らかだが、何もそこまで身を強張らせなくても良いだろうに。



「そこの椅子で良ければ、使ってもらえるだろうか」



 学生寮はどの部屋も決まって一人分の寝台と椅子、それから机と作り付けの棚が用意されている。俺が普段から使用している寝台に座らせるのは忍びないと椅子を示せば、は困った様子で俺を見た。良いんでしょうか、とでも言わんばかりの目だ。いや、そうでなければお前に寝台に座ってもらわねばならなくなるんだ。そう口にして良いものか迷うが、はややあってから「し、失礼します」といやに畏まった様子で椅子に腰を下ろしたからほっとする。きちんと足を揃え、俯き加減で座るは、やっぱりどう見たって緊張していた。
 


「……そう緊張しないでくれ。俺は、お前と話がしたいだけなんだ」

「は、はい」



 は俺の言葉にびくりと肩を震わせ背筋を伸ばす。恋人になる前も、なった後も、二人きりで話をすることは多々あったはずだが、矢張り「自室」というのが良くないのかもしれない。外と内とでは、やはり心持ちが違う。
 自戒の意味も込めて「……何もしないよ」と言えば、はたっぷりの間を開けて、それからその顔を一気に赤くした。その様子に俺まで調子を狂わされてしまいそうで、参る。俺はただ本当に、二人で話がしたかった、それだけで、他意も下心もない。……少なくとも、そのつもりではいるのだ。
 先日、と先生が話しているのを聞いた。
 授業の後、先生がを呼び止めているのが目に入って、それで教室の外から様子を窺うことにしたのだ。
 正直に言うと、気になっていたのはではなく先生の方だ。あれ以来、先生の心境がどう変化したのかが知りたかった。復讐を選ぶのか、否かを。
 愛した人間の死を悼んで立ち止まり、歩くのをやめるくらいならば、俺は復讐心を原動力にしてでも再び歩き出すのが人間としてのあるべき姿だと思う。それが、死んでいった者たちの願いでもあると思うから。だけど、先生がどう考えているのか分からない。あの夜モニカをみとめた瞬間、先生の瞳に確かに宿ったはずの殺意を、先生はどこに隠したのか。先生はどこへ向かおうとしているのか。俺はそれが知りたかった。先生が、復讐の道へその足を進めるのかどうかを、ただ知りたかった。それは、もしかしたら、もう一つの考え事から目を逸らしたかったがためなのかもしれないが。
 それなのに、どうして俺は、の声を拾っていたのか。
 先生は、の様子がおかしいことを気に懸けていた。薄情だと叱られてしまうかもしれないが、俺は先生がそう指摘するまで、それにちっとも気がつかなかったのだ。視野が狭いせいなのかもしれないな。一つ、二つのことを考えるだけで、俺の頭はもうそれ以外をまともに受け付けない。先生のこと、それからあの短剣のこと。俺の思考は同じ場所をぐるぐると巡るだけで、そうしているうちに、正常に呼吸もできなくなっていた。が何かを抱えているなんて、知らなかった。
 椅子に座るの顔を、じっと見つめる。日に焼けていない、ファーガスに生まれ育ったことが分かる肌に、丸い瞳。眉は今、困ったように下がっている。落ち着かない様子で足の上の手を何度も組み直す彼女は、「あ、あの、ええと……」と口ごもりながら、言葉を探している。先生が気に懸けるだけあって、確かに、前よりも少し痩せただろうか。それに気がついたら、途端に申し訳なくなってしまった。不調に気付かないなんて、級長としても失格だろう。







 名前を呼んだら、が改めて俺の顔を見た。
 力になりたいんだ、なんて俺が言っても、先生の言葉にすら首を振ったお前は、俺の手を取らないかもしれない。
 心の端ではそう思っていたから、「何かあったのか」と俺が尋ねたとき、の瞳にいくつもの感情が混ざり合ったような色が滲んだのを見て、息が止まったような気がしたのだ。
 は縋るような目で俺を見ていた。
 恐らくあの日、先生に向けていたのとは違う目だった。


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