「」
授業が終わって、昼食を摂りに行くためにイングリットちゃんと食堂へ向かおうとしたとき、ベレト先生に呼び止められた。「昨日提出してもらった課題のことで、少し話が」だそうで、私はイングリットちゃんに小声で謝り、急いで教壇の先生の元へ駆け寄る。
昨日の課題っていうと、これまでの演習に関する報告書のことだろう。前節の終わり頃から課題として出されていたもので、まとめるのにだいぶ苦労したから、問題があったと言われても(勿論落ち込むけれど)納得してしまう。
「す、すみません、先生。何か不備でもありましたか……?」
「いや、そういうわけじゃないよ。よくできていた」
「えっ」
本当に? と首を傾げる私に、ベレト先生は小さく頷く。手元には件の課題があって、私はそれを見た時、何故だかどきっとしてしまう。先生の指の下にある見慣れた自分の字が、私の手から離れて先生の元に渡っていることに、どうしようもなく落ち着かない心持ちになるのだ。まるで自分の一部をそのまま預けているみたいで。勿論それは、今に始まったことではないんだけど。
先生の臥せられた長い睫毛が、その頬に影を落としていた。教室から、皆の声や気配が遠ざかっていく中、私だけが先生の作る球体の内側に取り残されたみたいだった。先生の低く滑らかな声が、誰も居ない教室に染みこむみたいに響いている。
「まだ軽く目を通しただけだが……」
ジェラルト先生が亡くなった後も、先生は私たちの先生のままだ。
先生が俯いたのを良いことに、私は先生の姿をまじまじと見つめる。
ベレト先生。素っ気なく、冷たい雰囲気を醸し出していた(というか、私が一方的にそういう風に受け取っていた)春の頃よりも、今はもうずっと身近な存在だ。感情表現の波は人と比べれば十分の一くらいしかないけれど、その分、先生の笑顔を見た時は、隠された宝物を発見したときのような気持ちになるのだ。ついこの間まではもう、それもほとんどなくなってしまったけれど、でも、最近は少しだけ、そこに生気が戻っていた。イングリットちゃんは、「多少なりとも、時間が解決してくれたのかもしれませんね」と言っていたし、私も先生が元気になるにはそれしかないんだろうなって思っていたのに、今は、ちょっと違うんじゃないかな、って思っている。何かがあったんじゃないかな、って。殿下との間で、或いは殿下と一緒にいるときに、同時に何か、二人に影響を与える出来事があったんじゃないか。
でも、じゃあそれって一体何なんだろう。
この間まで、先生は寂しい目をしていた。ジェラルトさんの名前を口走りかけて、言葉に詰まるときがあった。私たちからだけじゃなく、他学級の生徒や騎士、信徒や司祭様、門番さんに至るまで、先生は気遣われ、心配されていた。誰にでも分け隔て無く接していたジェラルトさんの死を悼む人は多く、彼の眠るお墓にはいつも溢れかえるくらいの花が手向けられていた。そのうちの一つは、私とイングリットちゃんが供えたものだ。私たちの他にも、たくさんの人がジェラルトさんのお墓に祈りを捧げていた。人目も憚らずに泣いている騎士がいた。崖から吹きすさぶ風は冷たく、ジェラルトさんを失った心細さは募るばかりだった。ガルグ=マクは、いつまでも密度の高い霧のような哀しみに包まれていた。
先生はその中で、迷子の子供のような目をしていたのだ。
殿下の様子がおかしくなる、ついこの間までは。
「敢えて言うなら、主観が多かったかな。もう少し客観的に物事を見極められたら良いとは思うけれど……自分は読みやすかったよ」
「……客観的に、ですか。わかりました。気を付けます」
「うん。次も、この調子で。応援してる」
「は、はい、ありがとうございます!」
お辞儀をして顔をあげたとき、「うん」って、先生は私の顔を見て、短く言った。
その視線が、なんていうか、どこか私を気遣う種類のものであるように思えたのは、私の思い過ごしなんだろうか。喉がごく、って音を立てて、それが先生に聞こえてしまっただろうことがどうにも恥ずかしくて、姿勢を正す。背筋を伸ばして、足の裏に力を入れる。
先生の背にある窓から光が差し込んでいて、それは、先生の髪やら指先やらを淡く輝かせていた。光を背負った先生は、本当だったら今、大修道院で一番傷ついていると言ってもおかしくないくらいだったのに、その手はもう、先生が沈みかけていたはずの泥の外側に触れている。
先生は、まだ哀しみのただなかに居るはずだった。どちらかと言えば、私が先生を支える一つの手にならなくてはいけなかったのに、なのに先生は、目を伏せながら、言う。
「最近のは、何かを気にしているように見えるが」
そうしてどこまでも、私たちの先生であろうとする。
「……心配事でも、あるんだろうか」
先生は、本当は課題のことじゃなくて、私にそれを聞こうとしていたのかもしれなかった、最初から。私は先生と見つめ合いながら、ぱんぱんに膨らんだ思考の、偶然空いた穴を埋めるみたいにそう思う。
先生の指の下で、私の書いた報告書が、私たちのことをひっそりと窺うみたいに、微かな存在感を放ってそこにいた。
心配事。
口の中で反芻させても、私は何も言えなかった。いくら先生から声をかけてくれたのだとしても、今の先生に頼っていいと思うほど私は馬鹿じゃなかったし、この問題を先生に解決してもらおうとも思わなかった。だって、殿下が思い詰めているように見えるんです、なんて、どうして言えるだろう。
一体どうしてか、先生は理由をご存知なんじゃないですか。もしかして最近、先生と殿下の間に、何かがあったんじゃないですか。先生が少し立ち直ったように見える代わりに、だって、殿下が変になったみたいなんです。――こんなの、全てが憶測の混ざった難癖だ。それに、まるで先生を責めているみたい、そんなつもりはないのに。ジェラルトさんを失って日が浅く、傷も完全には癒えておらず、犯人は未だ逃亡中、そんな状況の先生に、自分の不安を押し付けることなんてできるわけがない。
「…………今は心配事は、特にないですよ。元気です。とても」
長い沈黙の後、首を振ってそう答えた。そうしてから、適当に何か、理由を作ってしまった方が良かったな、って思った。例えば、春からの身の振り方に不安が残る、とか、卒業できるか不安で、とか。そういうのだったら、物凄くそれっぽかったのにな。
先生は嘘を吐いた私に、「そうか」って短く答えただけだった。
先生の深く濃い灰緑の髪が、雨に濡れた葉のように見えた。先生はもうそれ以上私を問い詰めるようなことはしなかったし、「もう少し読み込んだら返却する」って、私の報告書の話に戻ってくれたから、私は上手く誤魔化せたと思ったのだ。ほっと息を吐き、胸を撫で下ろした教室の外側で、殿下がじっと息を潜めて立っていたのなんて、知らなかった。