守護の節に入って数日が経った頃、私は、何だか少し、変だなと思った。先日からベレト先生の浮かべる表情やところどころの所作に、どこかこれまでとは違うものが混ざっているように見えたのだ。
 「これまで」って言うのは、春から夏くらいの、まだどことなく浮世離れしていた先生のことでもあり、そこから先の、少し表情が豊かになり始めた先生のことでもあり、そしてジェラルトさんが亡くなって以降の、心の半分をどこかに落としてきてしまったような先生のことでもある。
 先生は、ちょっと変わった。何か心境に変化があったのか、或いはそうならざるを得ない出来事でもあったのか、時折考え込むような目をして、どこか遠くを見ている。張り詰めた緊張感のようなものが、そこにはひっそりと漂っている。
 私たちは、誰もそこには触れられなかった。先生の張った膜の外から、じっとその姿を見ていることしかできなかった。ただ一人、殿下を除いては。
 厳密に言うと、「変」なのは、殿下もなのだ。
 殿下もまた、話しかけてもぼんやりしていることが多くなった。声をかけても気がついてもらえないことは一度や二度ではなく、最初はちょっとだけ傷ついていたのだけど、それは私に対してだけではなかった。ドゥドゥーくんに呼ばれても、殿下はすぐには反応しない。体調が悪いのではないかと心配するドゥドゥーくんに、殿下は笑いながら首を振った。なんとも無い、って。私からも聞いてみたけれど、同じように濁されてしまった。殿下は私たちを、その手の平でそっと押し返すみたいに、突き放す。
 何があったのかは分からないけれど、先生にも殿下にも、「何か」があったのは間違いない。だって、同時期に様子がおかしくなったんだもの。二人に関係する何かが、多分、あった。皆の知らないところで。そう考えるのが自然だ。「俺は先生に、最後まで付き合いたいと思ってるんだ」そう話した殿下を思い出す。私も、ドゥドゥーくんも、二人の変化が良い物なのか、悪い物なのか、判別できない。それが、少しだけ怖い。



「…………私では、頼りになりませんか?」



 教室で二人きりになったときに思いきってそう尋ねてみたら、殿下はその目を微かに丸くした。その唇を殿下が開いたのは、沈黙が重くなるかどうかの寸前だ。「そんなことはない」と、殿下は笑う。冬も深まった教室は、しんと静かで、寒かった。吐いた息が少し白くなるくらいだった。頼りない光が、窓の外から差し込んでいた。殿下の声は、けれど、線を引くみたいに、低い。



「体調が悪いわけではないんだ。だから、心配しなくて良い」

「…………」

「……そんな顔をしないでくれ。本当だ」



 例え親友でも、恋人でも、家族でも、自分以外の誰にも見せない箱を持つことは、変ではない。そして私はそれを他人が無理にこじ開けて良いとは、思わない。
 だから、こうして引かれた線を、恋人であるということを笠に着て飛び越えることはできないのだ。
 小さく唸りながら、首を傾げた。「私にできることがあったら、じゃあ、いつでも言ってくださいね」そう譲歩する私に、殿下は薄く微笑む。ちょっとつついただけで割れてしまいそうな、春先の氷みたいな笑顔だった。それがあまりにもきれいで、私は何だか、どうしたらいいのかわからなくなる。
 恋人になっても、そんなに簡単にはいかないみたいだ。本当に、贅沢なことなんだけど。
 教室の窓を背にして話していた私たちは、教室の前を歩く生徒の姿が良く視界に入った。エーデルガルトさんがその時、黒鷲の教室側から、ヒューベルトさんを伴って横切ったのは、きっと偶然だったのだろう。だけど瞬間、殿下が息を止めた気がした。エーデルガルトさんたちは、教室の奥にいる私たちの存在に気がつく様子もなくそのまま歩いていってしまう。頭一個分は高い位置にある殿下の目を、そっと盗み見たくて、だけど、できない。そうした瞬間、後悔してしまいそうだった。やっぱり私は、怖かったのだ。例え、エーデルガルトさんのことを今はもうなんとも思っていないんだ、って、殿下が言っていたとしても。そこに並列した何があることを知るのが、怖かった。
 踏み込んでいいなら、私だって、そうしたよ。
 長い沈黙を経てから、殿下はやがて、何事もなかったみたいに「そろそろ、出るか」と言った。エーデルガルトさんのことなんて、見てないみたいに。何にも気にしてないみたいに。
 授業や課題、訓練や当番などを抱えた私たちは、外で逢瀬をすることもなく、教室でこうしてお話をすることだけで二人の時間を作っているのだけど、今日は、もうこのまま終わりになるみたいだ。心にできた隙間に見て見ぬふりをしながら小さく頷いて、先に歩き出す殿下を追いかける。靡いた青い外套にも、殿下の籠手の嵌められた手にも、手を伸ばせば届くのに、私はどうしても、それに触れられない。
 先生が元気になりますように、だけじゃなくても、もう一つお願いをしておけばよかった。強欲だって、天の女神様に笑われても。それでも、殿下を思い悩ませることとか、そういうのが、全部解決しますように、って。殿下が一人でいろんなものを抱え込んだりしませんように。私やドゥドゥーくんやフェリクスくんたちにも重荷を分けてくれますように。頼ってくれますように。
 でも、それは本当は、私の力で勝ち取らないといけないものなんだろう。祈るばかりじゃなくて。
 教室を出た途端、冬の風が髪を浚った。「わ」と思わず声をあげたら、振り向いた殿下が私を見て、小さく笑った。たまに殿下は、泣き出す寸前のように笑う。








 と別れて自室に戻れば、薄暗くなった室内で、それでも俺の目を引くものがある。
 作り付けの机の上、無造作に置けば、それはもっとどうだっていい、取るに足らないものになるんじゃないかと思った。願望だ。ただの。



「…………」



 そっとそれに触れる。冷たい感触のそれは、どこか死体に似ている。飾り気のない小ぶりの柄に、剥き出しの刀身。
 机の上に転がる短剣は、俺の記憶を呼び覚ました。人生の春。俺がまだ、何も知らない子供だった頃。俺はこれを、帝国に帰る「彼女」に押し付けた。帝国内の事情はさほど詳しくないながらも、彼女の戻る場所に困難があることは間違いなかったから。暗雲が立ちこめようとも、自分の力でその未来が切り開けるように、と。
 再びこれが俺の手に戻ったのは、今から数日前の夜だ。俺はこれを、外郭都市で拾った。……いや、拾ったというには、少しだけ語弊があるかもしれない。俺はこれをその手から放った人間を見た。物陰に隠れていた俺と先生に向かって投げられたものだった。
 「彼ら」はどうしてか、その日、ガルグ=マクの外郭都市の内側に居た。
 一人の男と、仮面と全身を覆う長い外套でその姿を隠した「炎帝」と呼ばれる人物、それから、モニカ=フォン=オックス。
 ジェラルト殿の仇として、騎士団が血眼になって探している人間だ。いくら灯台下暗しとは言え、最早モニカ自身がガルグ=マクから去っている以上、本来ならばセイロス教の膝元で落ち合う必要性は高くないはずだろう。……彼らのうちの誰かが、ガルグ=マクの中に、まだ潜り込んでいるわけではない限り。
 怪しい人影を追って一人大修道院を離れたが、まさかジェラルト殿の仇たる彼らの尻尾を掴めるとは思っていなかった。息を潜め、三人の会話を盗み聞いていたときだ。後ろから、肩を叩かれたのは。
 先生だった。
 偶然だったのだろう。先生は「どうしてこんなところにいる」と深夜の外出を咎めるように、その眉を寄せた。けれど、「静かに」と声を潜めた俺に、先生は目線をその先に居るやつらに向けた。モニカの姿をみとめた瞬間、その顔色が変わったのが、暗闇の中ですらわかった。
 先生は、復讐をしたがっている。そうしなければ誰も報われないと知っている。父親の命を奪った彼らを殺さなければならないと、ほとんど本能のように思っている。そしてそれは、間違いではないのだ。強張った表情の先生を制した。この時は、まだ俺は落ち着いていた。少なくとも。
 俺達がその日得た情報は、いくつかある。
 まずはジェラルト殿が死んだあの日、モニカの逃走を手伝った男の名前が「タレス」であるということ。その男が、モニカを「クロニエ」と呼んだこと。彼らこそがダスカーの悲劇を引き起こした張本人であること。むごたらしい惨劇は、炎帝が力を得るためにやったことだと。
 こいつらの、炎帝のせいで、皆が死んだ。
 あの時の、全身の血が一瞬で引いて、次の瞬間に沸騰したような感覚を、俺は忘れられない。
 「やっと見つけた」と呟いた。先生が俺の名前を呼んだのが分かった。だけど、止められなかった。殺さなければならなかった、俺は、あの場で、あいつらを。俺の周囲に蠢く幾本もの腕が俺の背を押した。殺せ、殺せと囁いた。四年前、俺から全てを奪ったやつらが今目の前にいるのに、どうして冷静になれただろう。



「待て、ディミトリ」



 先生は、けれど俺の腕を引いた。その時、俺の飛びだそうとしていた場所に、鋭く何かが突き刺さった。炎帝が投げたらしいものだった。先生、離せ、そう言いたいのに声が出ない。何らかの術を使ったのだろう。三人の気配が一瞬で消えたのを風の匂いで感じ取りながら、俺は、そこに深々と刺さった短剣を見ていた。かつての俺が、旅立つ彼女に贈ったもの。
 エル。
 口にする寸前で堪えた。
 声に出なくて、良かった。
 俺はあの日以来、ずっと考えている。
 あそこで聞いた彼らの話を、いつまでも脳の片隅で繰り返している。
 炎帝がこれを投げた理由の、もっともらしい別の答えを探している。
 俺の手を取って笑っていた、かつてのエルを思い出している。
 今も。ずっと。


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