に連れられてやって来たのは、大聖堂の西にある女神の塔だった。
 石作りの壁は長い年月風雨に晒された形跡を濃く残し、柱に象られた繊細な模様は青い蔓草によってその細部を隠されている。その背には、ほとんど塔と一体となりつつある巨木があった。その屋根にまで伸ばした枝葉が外接された手すり部分からも突き出ているのを見ると、改めてこのガルグ=マクに長い歴史があることを思い知らされる。
 落成から、間もなく千年。セイロス教は、この木が塔の背を支えられるほどに成長しうるだけの途方もない年月、この地に安寧をもたらしている。
 厩舎からここに来るまでの間に、日はほとんど落ちていた。互いの顔もぼんやりとしか見えない今、立ち入りを禁じられた女神の塔は人気もなく、侘しい。も、それは想定外だったらしい。



「あれっ、誰も居ない……?」



 きょろきょろと周囲を見回すの目は、どこか困惑しているようにも見えた。
 俺達の背の方にある大聖堂の閉め切られた扉を開ければ、信徒の数人は中にいるだろう。けれど星辰の節の寒空の下、好き好んで大聖堂の外に出る人間は少なかった。特に、崖下からの風を遮るものがほとんどない、この場所は。
 辺りを見回す彼女に、口を開く。



「……人が来るとしたら、もっと夜が更けてからじゃないか? 夜に、と限定されているくらいなのだから」



 言いながら西の空を見た。まだ微かに太陽の気配を残した空は、橙と黒が混ざり合って、美しい。今の時分を夕と取るか夜と取るかは微妙なところだろう。一瞬その色彩に見とれてしまいそうになるが、そんな俺の意識を引き戻したのは、の「えっ」という上擦った声だった。



「で、殿下、まさか、ご、ご存知なんですか」

「うん?」

「え、あの、ええと」



 言葉を濁す彼女に、「ああ。……伝説のことだろうか」と首を傾げれば、は殊更驚いたようで、少しだけ飛び跳ねた。どうやら彼女は、俺がそういう類の話には疎いものだと思っていたらしい。……まあ、それは否定しないが。
 「女神の塔の伝説」。星辰の節の最後の夜(要するに、今夜だ)に男女二人で女神の塔に行き願い事をすると、それは必ず叶うのだという……何と言うか、誰かが遊び半分で作ったような、伝説と呼ぶには胡散臭い噂話だ。とは言え、舞踏会の盛り上がりもあったせいだろう、特に今節に入ってからは、その「伝説」とやらの話は良く耳にした。口の端に躊躇いなく乗せる彼らがどこまで本気でその「伝説」について語っているのかは分からなかったが、俺はほとんど気にも留めていなかった。だって、女神は人間の願いなど叶えはしない。ただ天上から俺達を見守りつづけているだけだ。それに、それで本当に願いが叶うなら、この世はもう少し、まともだろう。
 は口元を手で押さえたまま、「わ、わあ、すみません、殿下、私が女神の塔に行きたいって言っても何も言わないから、てっきり」と頬を赤くしている。どうしてがこんなに照れているのかが分からなかったが、その後の彼女の言葉をまとめると、要するに「明らかに恋人同士やそれに近い関係の男女向けの伝説にあやかろうとしたことが最初から見抜かれていたことが恥ずかしかった」のだそうだ。……何と言うか、難しいな。それに、そう言われてしまうと俺も何だか無性に気恥ずかしいような思いになる。恋人と、改めて口にされてしまうと。どうしても。



「……しかし、見張りもいないんだな」



 咳払いをした後、視線を周囲へと意図して向けた。
 青海の節、女神再誕の儀の際に解放されることはあるが、普段女神の塔は閉鎖されていて、その扉付近は騎士が見張りを務めている。今日こそそれが必要なときだとは思うが、騎士団長を失った今、彼らも手が空いていないのだろう。何せ、セイロス教会総出でジェラルト殿の命を奪った犯人の足取りを追っている最中なのだから。
 扉に近づき、駄目元でそれを押してみる。鍵が掛かっていることを前提に力を加えたそれは、このあたりで手応えがあるはずだという思い込みに反して大きく動いた。……どうやら開いているらしい。



「えっ」



 驚いたように声をあげたは、塔の中にまで入る気は、そもそもなかったに違いない(実際、彼女は後に「塔の前で一緒にお願いをすればいいかなって思ってたんです」と言っていた。)
 ぎい、と音を立てて動いた古い扉の奥から、じっとりと湿った、黴のような匂いがした。ひっそりと仄暗い闇が広がっているそこに、壁面に沿う形で作られた階段が見えた。
 半開きの扉に手を添えたまま、俺の背後に立つに振り向く。



「…………開いてしまった」



 途方に暮れた子供のような声になってしまって、少し情けなかった。けれど神妙に頷くも、何だかそれに近い顔をしていたのだ。



「開いちゃいましたね……」



 鍵を閉め忘れたのだとしたら、不用心なことこの上ない。何か貴重な品や資料があるといった話は聞いたことはないが、祭事で使われるこの塔に歴史的な価値があることは間違いないのだから。
 後で、セテス殿あたりに鍵が開いていたことを伝えなくてはならないだろう。そう思いつつも、手は扉から離れない。今ここには俺達以外に人はおらず、件の伝説とやらを当てにしているだろう生徒たちも、恐らく夕と夜の境のこの時間にここを訪れることはないはずだ。今、俺達がこの中に入ったところで、誰も気がつく人間はいまい――そう思ったときには、俺はもう、に尋ねていた。



「……中に入ってみるか?」



 しかしは、そんな俺を困惑したように目を瞬かせている。
 本来立ち入りを禁じられた塔に二人で侵入するなんて、真面目なからしたら抵抗を覚えるものなのだろう。つい提案してしまったが、無理強いをするつもりはない。撤回しようと口を開きかけたけれど、が頷く方が早かった。



「……殿下とだったら入ってみたいです、ちょっとだけ」



 そう言うや否や、目の前の闇に、俺より先に飛び込んだのだ。潔いその行動に、俺はほんの少しだけ面食らう。
 暗闇の中俺を振り向いたは「殿下も」と、面映ゆげに笑った。
 脳の端が、ちりと、微かな熱を帯びていた。躊躇なく闇に飛び込む彼女の背が、俺にとって都合の良い、何か別のものに見えたなんて、誰にも言えない。








 俺自身、女神の塔の伝説は信じていない。だから上階へと続く階段を上る途中、が「お願いって、やっぱり一個ですかね」とどこか神妙な口調で言ったとき、どう返事をすべきか、少し考えてしまった。



「……幾つも願いがあるのか?」



 言葉を選んでそう尋ねる俺の声には微かな笑いが滲んでしまって、彼女を傷つけてはいないかひやりとする。しかしところどころ亀裂が入っている石階段の脇に設置された手すりを掴んで振り向いたは「いっぱいあります」と楽しそうに微笑んでいたから、ほっとした。



「小さいものから大きいものまで、たくさん」



 言いながら身体を前に向けたは、迷いのない足取りで階段を駆け上っていく。蝋燭はなく、窓から差し込む星や、隣の大聖堂から漏れる灯りで塔内がぼんやりと照らされるだけだった。彼女がすいすい歩いているのは夜目が利くせいかと思ったが、そういえば、とふと思い出す。彼女は青海の節、聖廟が襲撃された際、一人でこの塔に向かい、カトリーヌさんら騎士を連れてきてくれた。もしかしたらその内部の様子がまだ記憶に残っているのかもしれない。俺にとっては、もうあの日のこと自体、随分昔のことのようにすら思えるけれど。
 それくらい、いろいろなことがあったから。
 階段を上りきると、何もない広い空間に出た。本来は、ここで儀式が行われるはずだ。だだっ広いだけのそこには、けれど大きな窓が備わっていた。四角く切り抜かれたその奥に、大聖堂が見える。硝子の類のないそれは、ほとんど絵画のようだった。それと真反対にある壁には大木の根か、枝かが伝っている。外の光の届かないそこは深い闇に包まれていて、その黒に目が行った。じっとりと湿った闇が口を開けているようだった。俺はそこに、どうしてか、動かない誰かの身体を見ている。



「わあ」



 がその時声をあげてくれなければ、俺は、何もないその壁に歩み寄っていたかもしれなかった。
 振り向けば、は大聖堂の見える窓に駆け寄り、「すごい、こんな風に見えるんだ」と感嘆している。全景を見渡すには大聖堂とは距離が近すぎた。けれど、普段は見ようと思わなければ見ることのないだろう、北側の尖塔が見える。窓の淵に手を添えて、はぐるりと周囲を見回した。
 その後ろ姿が、俺はこんなときなのに、眩しく見える。



「大聖堂、綺麗ですね」


 
 弓なりに形作られた窓枠の天辺は、きっとが背伸びをしても届かない。その隣に立ったとき、がはっと目を見開いて俺を横目で見た。改めてそうしてみると、は随分小柄だ。抱きしめれば、俺の腕の中に平気で収まるくらい――いや、一体何を考えているんだ、俺は。
 唐突に生まれてしまった罪悪感から逃れるように、「……願い事でも、するか」と口にした。どこか赤みの差す頬で、は慌てた様子で頷く。



「……そのいっぱいのお願いとやらを、全部願うのか?」

「まさか! そんなに強欲じゃないですよ! 一個だけ、絶対叶えてほしいお願いがあるので、それにします」

「一つだけ?」

「はい。先生が早く元気になりますように、って」



 そう笑うの髪が、大聖堂から漏れる灯りに煌めいていた。輪郭は闇に淡く溶け、その睫毛が吹き抜けからの風に、微かに揺れていた。何もかもが白んで、どうしようもなく目に痛かった。「では、俺もそれを願うよ」信じてなどいないくせにそう言った。は、本当はどうだったのだろう。半分くらいは、信じていたのだろうか。結局俺は、何も聞けなかった。
 はいつだって、一点の汚れもないままにきれいだ。それが今は、あまりにも痛い。


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