ジェラルト殿が亡くなって、先生はほとんど、心神喪失の一歩手前にまでその身を置いているように思えた。
戦いの中で身内を失うのは、堪える。突然絶望の淵に突き落とされ、目の前から光の一切が消える感覚は、二度と味わいたくないものだ。そして、いずれ国を背負う人間として、俺はそれをもう、誰にも味わわせてはならないと、そう思っている。
長く傭兵として生きていた先生たちは、けれどいつかそういう日が来ることも互いに覚悟してはいただろう。だが、手の届かないところではなく、よりによって自分の目の前で肉親を失うなんて。想像するだけで、胸が焼け付くように痛んだ。先生があの日、四年前に俺が突き落とされたのと同じ絶望にその身を置いたのだと思うと、俺はどうしたって自分の無力さを呪うしかなかった。歯痒かったのだ。
厩舎の掃除を終えたは用具を片付けながら、「先生、大丈夫ですかね」と細い声で呟く。
「……心配か?」
「はい。やっぱり、元気ないですよね……」
ジェラルト殿の死から数日が経った、星辰の節の、最後の日だった。俺とはその日厩舎の掃除当番だったのだが、はもう馬の世話にも慣れた様子でてきぱきと仕事を済ませてくれたため、思っていたより早めに作業が片付いたところだった(は「殿下が飼い葉を全部運んでくれたからですよ」と言ってくれたが、世辞だろう。)
薄い雲の覆われた空を、は思い詰めたように見上げる。
「授業も今まで通り行ってくれるのはありがたいですが……やっぱり上の空ですし……」
「……まあ、仕方が無いな。ジェラルト殿を亡くしたんだ。これまで通りに振る舞うと言う方が難しい」
「……そう……ですね。うん……。こればっかりは、時間が解決するしかないんでしょうね、きっと……」
俺が彼女の言葉に顔を上げたその瞬間、風が吹き抜けて、の髪を浚った。
「わっ」と慌てて頭を押さえるの横顔は、きれいだ。純粋で、汚れなど一つもない。その双眸は、この数節の混乱を経ても、澱みを知らない。
俺とは、違うと思う。物の考え方も、向き合い方も。感情の処理の仕方も。
彼女の言葉を、風は俺の耳から奪ってくれない。「時間が解決するしかないんでしょうね」は、いつまでも鼓膜に張り付いたままだ。
は、近しい人を奪われたことで生まれる絶望は、時が過ぎれば癒えるものだと思っているのだろう。それは、俺とは決定的に違う。だけど、彼女は知らないのだ。「失う」のではなく、「奪われる」ことの哀しみを、苦しみを。死んでいったものたちの苦悩を。突然断たれた未来の重さを。残された人間の孤独を。
「……私たちは先生のことを信じて、待つしかないですよね」
俺の隣でそう口にするに、俺は「……そうだな」と頷いた。
何かこの場に相応しくない暗い思いが脳を掠めて、思わず頭を振る。
は、それでいい。いつまでも、一点の曇りもないまま、俺のいる血溜まりに気付かずにいてくれたらいい。俺はここに、を引きずりこむつもりはないのだ。
彼女の足を、今日も白い手は掴んでいる。
死者の無念を晴らす。それが、あの日、ただ独り生き残った俺の、なすべきことだ。
ジェラルト殿が死んだ日、皆を教室に残し、一人大広間の二階にある騎士団長の部屋で佇んでいた先生にそう口にした俺を、先生は表情を変えることなく、ただ見つめていた。
時折先生は、こういう目をする。感情の、極限まで削がれた目。元々喜怒哀楽が人より希薄なのもあるだろうが、今の先生は、意図してそうしているように見えた。俺はかつて、この目が怖かった。先生と過ごすうち、その感覚は随分和らいだが。
一見感情の欠落しているところがあるように思える先生も、しかし実の親が殺されたとなっては、揺らぐ。今の先生は、足元にあった地面が彼の足の周囲を僅かに残し、崩落したように危うかった。それは過去の俺だった。四年前、目の前で父の首を落とされ、炎の中に継母を失い、グレンの、仲間たちの屍に囲まれ蹲った、俺そのものだった。
「死者を悼むために立ち止まるのも、人間の強さの一つだ。だが、いつかは目的に向かって、再び歩き出さなければならないんだ」
仮にも「先生」に向かって、少し説教めいてしまっただろうか。口にしながらそう思ったが、先生は「……目的?」と首を傾げ、俺を見ていた。騎士団長の、……ジェラルト殿の使っていた机に置かれた手の下にあるものを、俺は視界の端でみとめている。古びた表紙に留め具のある、本と言うよりは、何かもっと個人的な……。
日記だろうか。ジェラルト殿の。
そういうものが残されていたのは、羨ましいな。脳の隅で、そう思った。筆まめでなかった父はそういったものを書き残すことを好まなかったし、日記の一つや二つは書きためていそうだった継母も、その手のものは部屋に残していなかったから。
目線を落として、自嘲気味に笑う。残されていたとして、けれど俺はきっと、俺のままだった。ダスカーの悲劇を唯一生き延びた俺が日記の一つ二つで変わることなんか、きっとない。
どれだけ失意の中にいたか、あの後の記憶は、靄がかったように曖昧だ。ただ、あれ以降、夜は魘されて飛び起きた。俺達の乗る馬車を襲った連中の顔ははっきりとは思い出せずとも、声だけはいつまでも鮮明だった。彼らは、実に流暢にフォドラの言葉を話した。御者を殺した男の皮膚は、俺達のものと同じ色をしていた。燃えさかる炎の中、怒号は波紋が外に広がるように伝播した。「ダスカー人が陛下を!」「反乱だ!」有り得ない言葉が戦場になってしまったダスカーの地を駆け巡った。混乱した王国兵が、逃げ惑い、或いは身を守るために武器を持つダスカー人を次々と殺した。男も女も、老人も子供もなかった。ああ、違う、違うんだ、彼らじゃない、そう叫んでも、炎は全てを飲み込んでいく。俺の声も、奴らの痕跡も、事件の真相も。
何もかもを奪われた俺が、死にかけの身体で初めて守ったのが、俺とそう年の変わらぬように見えた、ダスカー人の少年だった。それがドゥドゥーだ。違うんだ、彼らを殺さないでくれ、違うんだ。覆い被さった身体の下で、ドゥドゥーの喉が震えたのを見た。彼は生きていた。それに縋る他、俺にはもうなかった。
何度も夢を見た。夢の中なのに、俺は現実と同じ道を辿った。助けられなかった。父の首は飛び、母はどこを探してもいない。グレンを失い、仲間の腕が折れ、幾つもの身体が俺を守った。殿下を守れ、殿下を守れ、地鳴りのような悲鳴が地を這っていた。寝台から飛び起きる俺の隣には、誰もいない。ただ、無数の白い腕が伸びている。
彼らの思いを継ぐこと。全てを奪われた彼らのために、生き残った俺が復讐を果たすこと。それが俺の成すべきことだ。そのために俺は生かされた。
時間が解決などするものか。――解決など、させてたまるか。
「ジェラルト殿が亡くなった今、先生がなすべきことは何だ?」
先生はこの先立ち上がる。今はどこかに心を置き去りにしていようと、必ず剣を持つ。
「……先生の中では、もう心は決まっているんじゃないのか?」
先生と俺は、きっと同じ道を選ぶと、俺は信じている。
「そうだ、殿下」
隣を歩くに名前を呼ばれ、我に返った。
授業も終わり、当番だった厩舎の掃除も済んだ。日の暮れ始めたガルグ=マクの空には、一つ二つ、星が瞬き始めている。「……どうした?」思考が過去を遡っていたのを気取られぬように、なるべく低く尋ねれば、はその瞳を一度大きく瞬かせた。「ええと、その……」言葉を選ぶに続きを促すように薄い笑みを浮かべる。はそれでようやく安心したように、口を開いた。
「あの、これからちょっとだけ、時間、もらえませんか?」
の頬は、普段よりも僅かに赤かった。