「…………殿下」
雨が降っていた。
教室の屋根を叩く雨音が、室内の静寂を際立たせていた。私たちは殿下が戻ってくるまで――その気配に気がついたドゥドゥーくんが、その唇を開くまで、ただひたすら、押し潰されそうなほどの沈黙の中にいた。
殿下は大広間から屋根のある方へと回り道をすることなく、雨の中をそのまま歩いてきたのだろう。その髪は濡れて、それが少しだけ、頬に張り付いていた。「風邪を召されてはいけません」と眉を寄せ駆け寄るドゥドゥーくんに、柱にその背を預けていたフェリクスくんが「は」と嘲笑のような、ため息のような音を漏らした。
「その猪がその程度で風邪をひくほど柔なものか」
フェリクスくんの言葉はいつも通り素っ気ないものの、微かに掠れている。「……そうだな。これくらい、平気だ」と殿下が目を伏せながら答えるのに、苛立たしげに目を伏せたフェリクスくんはもう、何も言わなかった。
教室に戻ってきた殿下の傍らに、先生はいない。
今から半刻ほど前、殿下が「少し先生の様子を見てくる」と皆に言い、教室を出て行こうとしたとき、私は居ても立ってもいられなくて、「私も」と殿下に言ったのだけど、殿下はそんな私に緩く首を振った。俺一人でいいから。お前は教室にいてほしい、って。
確かに、先生を探しに行くのに大勢で出向くのは、きっと良くない。普段ならば兎も角、こんな時である以上は、尚更。
素直に引き下がった私に背を向けて、殿下は雨の降る中、教室を出て行った。私たちはそれからじっと、時間が過ぎるのを待っていた。その間誰も口を開かなかったし、ほとんど物音一つも立てずにいた。きっと誰もが、その場にいないベレト先生のことを考えていた。そしてそれは、先生の戻らない今も。
ベレト先生のお父さんであり、春からセイロス騎士団の団長を務めていたジェラルトさんが亡くなった。
私たちが今節騎士団と共に調査にあたるはずだった、旧礼拝堂でのことだった。
そこに突如として魔獣の群れが現われたとの報せが入ったのは、今より数刻前の昼下がりだ。常にその周辺を騎士が見回って警戒している以上、魔獣がガルグ=マクの外から侵入したとは考えにくかったけれど、原因を突き止めるよりも先に、私たちは対処に回る必要があった。魔獣が旧礼拝堂跡地から居住区に侵入しないとも限らなかったためだ。
急遽招集された私たちは、先生やジェラルトさんの指示に従い、逃げ遅れた生徒の救出に奔走した。魔獣は頑強で、私自身も、ひやりとする場面が幾度となくあった。多分、運が悪かったら二回か三回は死んでいた気がする。先生やジェラルトさんが守ってくれたおかげで、どうにか切り抜けることができたけれど。
かつて大修道院の改修が行われた際に仮の聖堂として使用されていたという旧礼拝堂付近は既に放棄されて長く、一帯はひび割れて乾燥した地面から雑草が生えるだけの、荒れた土地だった。多くの建物の外壁は崩れ、土台が剥き出しになって寂しい。吹き付ける風は冷たく、身体を芯まで冷やした。魔獣の咆哮を遮るものはなく、その猛攻は凄まじかった。魔獣の爪も、牙も、あっという間に肉を切り裂かれてしまうだろう鋭さがあった。ジェラルトさんがいなければ、更なる苦戦を強いられることになったのは間違いない。
本当に、酷い戦いだった。
ともすればこちらが命を落としかねないほどだったというだけでなく、やっとの思いで倒した魔獣が、どこか見覚えのある生徒の姿に変貌したのだから。
逃げ遅れた生徒を何とか救出し、魔獣は全て倒した。魔法が解けたみたいに人間の姿に戻った彼らは皆事切れていて、その遺体はかろうじて建物としての景観を保っている旧礼拝堂の前に並べられた。この騒ぎが起こる少し前に、この礼拝堂に向かう彼らの姿を見た人が居たという話を耳にした。数人の騎士が、自らの着ていた外套を脱ぎ、彼らに被せた。真っ白になった足が、草臥れた靴の底が、お前だってこうなっていたかもしれないのに、って言っているようだった。恐怖と混乱で倒れなかった自分を、褒めてやりたいくらいだった。
魔獣は外からやって来たのではない。何者かの、何らかの手段でもって、生徒達は魔獣にさせられたのだ。頭を過ぎるのは、シルヴァンくんのお兄さん、それから、人ならざる者にならないまでも、突然我を忘れ暴れ出した、ルミール村の人々だ。
私たちの知らない、けれど皮一枚ほどしか離れていない場所で、何かが起きているのは確かだった。何か悪しきことを企み、このフォドラを揺るがそうとしている人物らがいることは、疑いようがなかった。
ジェラルトさんが亡くなったことを私たちが知ったのは、私たちが戦後の後始末をしていたときのことだ。
雨が降り始めていた。
多数の騎士が行き交い、死んだ学生たちの確認や、怪我人の治療に追われていたそこに、ベレト先生は現われた。ぐったりと力の抜けたジェラルトさんを、その両腕に抱きかかえ。
「ジェラルトが、死んだ」
彼はそう、私たちの前で小さく呟いた。抑揚のない、すかすかの、空っぽの声だった。
だらりと垂れ下がったジェラルトさんの腕は、もう、動くことはない。
冗談かと思った。だけど、そんな趣味の悪い冗談、先生は好かない。
その時、その場に居た誰もが皆、動けなかった。きっと、ほとんど理解できずにいた。
雨は少しずつ、強くなっていた。それは私たちの身体を容赦なく打ち付け、温度を奪った。先生の頬を伝っていたのが雨だったのか、そうでなかったのか、立ち尽くすことしかできなかった私には、分からなかった。
だけど先生はその時、きっと泣いていた。
ジェラルトさんを背後から刺しその命を奪ったのは、モニカさんだったと言う。
モニカさんは角弓の節、浚われたフレンちゃんと共に、イエリッツァ先生の部屋に空いた穴の先で発見された、帝国領オックス家の息女だ。彼女は逃げ遅れた生徒を装い、ジェラルトさんに近づいた。ジェラルトさんは、彼女が士官学校の生徒であることで気を抜いたのだろう。彼女に早く学校に戻るよう口にした後、その背を見せることに躊躇をしなかった。結果、ジェラルトさんは彼女の持った短剣にその背を貫かれたのだ。
ジェラルトさんを刺した後、モニカさんは突如として現われた謎の男と共にその場から姿を消したと、先生は言った。状況から考えれば、彼女もまた、セイロス教会に仇成す者の一人であることは間違いなかった。
セテス様は逃げた者たちの行方をセイロス教会を挙げて追うと言っていたけれど、イエリッツァ先生や書庫番のトマシュさんだけでなく、生徒の中にまで裏切り者がいたという事実は、私を打ちのめすのに充分だった。だって、じゃあ、これから先一体何を信じたら良いって言うんだろう。このまま今まで通りに過ごすことなんて、そんなこと、もうできない。そんな私の不安を拭うように、殿下は唇を開く。
「…………先生と、少しだけ話をしてきたが」
灯りが灯されているのに、厚い雲によって太陽が覆われた今、教室はまるで、夜になろうとしているかのように薄暗い。
一人椅子に座っていたアッシュくんも、雨に濡れた窓の奥に視線を向けていたシルヴァンくんも、寄り添うように並んでいたアネットちゃんも、メルセデスちゃんも、ずっと唇を引き結んでいたイングリットちゃんも、殿下の方にその身体を向けた。勿論、私も。
殿下の浮かべた薄い笑みはどこか自嘲めいていて、まるで貼り付けただけのようだった。
「相当、堪えているようだ。……肉親を失ったばかりなのだから、当たり前だな」
少し、休ませてやろうと思う。皆もそれで異論はないだろうか。そう続ける殿下に、それぞれが頷いた。
今この場においてその痛みを知っている人は、きっと少なくない。去年兄を亡くした私だって、その一人だ。殿下は勿論、ダスカー人のドゥドゥーくんも、生みの親も、引き取ってくれた家族をも失ったアッシュくんも、フェリクスくんやシルヴァンくんだって。
だけど、本当の意味で先生に寄り添える人なんか、きっと誰もいなかった。私たちは皆、互いに見えない傷を抱えて生きていた。その傷とどう向き合うべきなのかを決めるのは、自分自身でしかなかった。
「……俺は先生に、最後まで付き合いたいと思ってるんだ」
誰もいなくなった教室で、私にだけそう呟いた殿下の真意を、彼が私たちのいない場所で先生に語った言葉を、私が本当の意味で知ることは、今はない。