瞼の裏が白んで明るい。窓の向こうから、鳥の囀る音が聞こえる。
毛布を引き寄せて暗い方へと寝返りを打ったら、壁に膝をぶつけた。がつんという音と衝撃で、微睡みの中にいたのが少しだけ現実に引き寄せられるけれど、それでも眠い、とまだら模様を描くみたいにうつらうつらしている。
寝台の中にいながらでも、何となく手足が重かった。そういえば、昨日は夜遅くまで起きていたし、疲れが取れていないのかも。昨夜私は、部屋に戻るや否やほとんど倒れるように寝台に転がった。兎に角疲弊しきっていたのだ。舞踏会は楽しむっていうよりもあちこちに神経を巡らせていたし、最初の方なんか心細くてたまらなかった。気疲れが負債になって、時間をおいた翌朝、それが響いているに違いない。そう、それに、大広間を抜け出した後も色々あったし――。
「……わっ」
「その後」のことに思考が及ぼうとしたその瞬間、急に頭が冴えて、目を見開く。脳裏に、色んなことが過ぎったのだ。薄闇の中で会話する先生と殿下の姿とか、大聖堂の床に落ちていた光溜まり、少し離れたところに座っていた殿下が、いつの間にか、足と足が触れ合いそうなほど近くにいたこと。殿下の言った、「傍にいてもらえるだろうか」という、静かな声も。それに私が頷いたことも。
寒さにほとんど頭のてっぺんまで被ろうとしていた毛布を撥ねのけて、飛び起きた。髪の毛はぼさぼさだったし、何なら制服のまま眠ってしまったらしくて下衣は変な皺が寄っている。それでも、今はそんなことを気にしてはいられない。
「わ〜……ッ」
寝台の上で上半身だけを起こして、熱くなった両耳を押さえて唸った。
夢じゃないよね?
そう尋ねたくても、昨日までと何ら変わらない私の部屋に、答えなんか落ちてない。
こういうとき早く支度を済ませて教室に行ってしまえば、色々心の準備とか、整理とかもできるんだと思う。運が良ければ、誰も居ない教室で殿下とばったり鉢合わせることもできたかもしれないし。
だけど、昨日のつけが回ってしまったみたいだ。制服やら髪やら、身支度を調えるのに随分な時間を使ってしまった私は、授業が始まるぎりぎりで、やっと教室に駆け込んだ。
持ち帰っていた教書を数冊抱えて、「間に合った〜!」って教室に飛び込んだときにはもう、ほとんどの生徒が集まっていた。先生はまだ来ていないらしい。席について胸を撫で下ろしていたら、「」と背後から声をかけられて、飛び跳ねてしまいそうになる。
「……おはよう」
だってその声は、殿下のものだったから。
椅子に座ったまま振り返ると、何だかちょっと困ったみたいに笑っている殿下がいる。「お、おはようございます、殿下!」と背筋を伸ばして挨拶を返す私に、殿下は益々眉尻を下げた。「ああ」って、小さく頷いて、それから殿下はちょっと逡巡したような顔を見せた後、私の肩に、そっと触れた。ぽん、って。挨拶の延長みたいに。そのまま自分の席に向かう殿下を、私は目で追うことができない。
さ、触られた!
びっくりして、固まってしまう。殿下に触れられた肩は、熱を持って熱い。え、今、ぽんって、触ったよね。触ったよね? 自分でその左肩に触れていいものか、迷う。迂闊に触ってしまったら、殿下の痕跡が消えてなくなってしまうみたいな気がして。
でも、確かに今、触られた。
こんなこと、今まで一度だってなかったのに。
じゃあ、昨日のは現実だったんだ。夢じゃないんだ。私が玉砕覚悟で伝えた思いに、殿下は応えてくれた。都合の良い夢じゃなかった。殿下も私のことが好きだった――。
……っていうと、やっぱり何だか全然信じられない。
先生が教室に入ってきたことでようやくきちんと座り直すことができた私は、殿下の後ろ頭に、「夢じゃないんですよね?」って、念を飛ばすみたいに考えている。殿下の金色の髪の毛は、今日も一分の隙もなく、綺麗に整っている。
「あ、あの殿下、ちょっといいですか……?」
殿下を呼び出したのは、授業と授業の合間の、ちょっとした休憩時間のことだった。
殿下と話をしていたシルヴァンくんがその唇に笑みを浮かべて「俺に構わず、どーぞどーぞ」と言ってくれたのにお礼を言って、私は殿下と一緒に教室を出る。昼間は人気の少ない寮の方へと向かおうとしたら、殿下は私の隣をきちんと歩いてくれるから、ドキドキした。あれ? これはいつもそうだっけ? って、考え込んでしまったくらい(ちなみに、頑張って思い出してみたけれどこれに関してはいつもそうだった。)
私はやっぱり、自信がなかった。イングリットちゃんにこっそり「昨日はどうだったんですか?」と尋ねられても、上手く言葉にできなかったくらい。だって、やっぱり信じられなかった。殿下が私のことを思ってくれているっていうのが、どう考えたってありえないことのように思えたのだ。
寮と教室とに挟まれた通路の端に寄って、私は周囲に人がいないかを窺う。早く確かめないと、次の授業が始まってしまうから、手短にしなくちゃ。そう思うのに、人気がないことを確認した今も、私は殿下を前にもじもじしてしまう。向かいあった殿下が「……何かあったか?」って、優しく声をかけてくれることに、どうしようもなく緊張して、それと同じくらい照れてしまって。
「あ、あの、その……」
だけど確かめるって言ったって、実際どうしたら良いんだろう。
……昨日のことって、夢とか聞き間違いとかじゃ、ないですよね。
そういう風に聞いたとして、もしも不思議そうな顔で見られてしまったら? そう思うと、言葉に詰まる。振られた私の脳が作り出した優しい夢だったら? さっき肩に触れられたことが恋人である証左だと鼓舞しても、その隣で私の幻影が「でもそもそもそれも偶々当たっただけだったりするのでは?」と茶々を入れてくる。わあ、と振り払おうと首を振った。そうしたら殿下が、ちょっとだけ笑った。ほんの微かに、そうと分かるか分からないかくらいの細やかさで。
私が言葉もないまま、殿下のことを見つめていたら、殿下は私の視線に気がついて、「すまない」って、笑いながら目線を落とした。
「表情がころころ変わるのが、面白くて」
「えっ」
「は、感情がすぐに顔に出るから」
「ええっ」
自覚なんかないから慌てて頬を押さえたら、殿下はその眦をそっと細めた。「……そういうところが好きなんだ」って。それで私は、がんと頭を殴られたみたいになる。目を見開いて、固まってしまう。
「それで、の話っていうのはなんだ?」
「…………」
胸がいっぱいになる。好き、って、言う言葉が、殿下の声でもって私の内側にもぐりこんで、一斉に芽吹いたみたい。感極まった私は、ともすれば泣いてしまいそうなくらいの衝撃を抱えながらそこにいたのだけど、「?」と聞かれたとき、それを自分の奥にしまいこんだ。「わ、私の話は……」口を開いたとき、うっかり声が、震えてしまったけれど。
「もう全部、解決しました……」
殿下は私の言葉に、不思議そうにしているだけだった。嬉しくて駆け出したいのをぐっと押さえて、心の中で、イングリットちゃんの名前をいっぱい呼んだ。本当に、たくさん。教室に二人で戻ったとき、目が合ったイングリットちゃんはもう、全部分かっているみたいに微笑んでくれていたけれど。
実はあの時、本当は大聖堂でのことが全部夢だったんじゃないかって不安だったんです。数日後、そう打ち明けたとき、殿下は困ったみたいに笑った。その時にはもう、そんなことを話している場合じゃなかったんだけどね。それでも、ちょっとくらいは現実から目を逸らす時間がほしかった。少しでも、殿下に笑ってほしかった。
旧礼拝堂に魔獣が現われたとの報せが入り、逃げ遅れた生徒の救出に向かったジェラルトさんが殺されたのは、あの日、私が殿下に「もう全部解決しました」と口にした、数刻後のことだった。
ジェラルトさんは死んだ。ベレト先生はその死を、間近で見ていた。