私と殿下の間に、長い沈黙が落ちている。
 実際の所、それがどれほどの長さであったのかは分からない。思いを伝えて、これから玉砕することになるだろうと自覚している私だから、ほんの細やかな沈黙すらも永遠のように感じられたのかもしれない。
 落とした視線は、涙で濡れた自分の手を映している。きつく握りしめられたそれはいつの間にか真っ白になっていて、本当に自分のものなのかどうかも不確かに思えてくる。制服の下衣は不格好に皺が寄って、今の私そのものみたいで、本当は目を逸らしたかった。だけど、だからと言って顔を上げることもできなかったのだ。殿下がどんな顔をしているか考えただけで、怖くてたまらなかったから。
 ほとんど発作のように告白してしまった。
 好きだって、二回も言ってしまった。
 言い切った後、高揚し、熱を帯びていた頭が徐々に冷めていくのを感じていた。なんていうか、痺れていた腕に血が巡り始めて、感覚が戻ってくるのと似ている。それまではいっぱいいっぱいだった分火照って暑いくらいだったのに、今はもう全ての熱がどこかに奪われたみたいに冷えていて、涙ももう、止まっていた。長く続く沈黙の中で、今の私は冷静に自分の言動を振り返っている。やってしまったかもしれないとすら、思っている。
 だって、だって私が今してしまったことと言ったら、自分の感情の処理の押し付けだ。
 袋小路に入り込んでどうにもできないからって、私は殿下にこの思いにとどめをさしてもらおうとした。殿下に「諦めてほしい」って言ってもらえたら、この行き場のない感情がそのまま窒息してくれるんじゃないかって。
 なんて自分勝手なんだろう。それで今、きっと、優しい殿下を困らせている。こんなの、本来だったら自分が一人で終わらせなくちゃいけない問題なのに。殿下に迷惑をかけるなんて、もっての外なのに。
 謝って、なかったことにしてもらおうか。でもそれこそ殿下をもっと振り回すことになるかもしれない。じゃあ、殿下に断って貰う前に、どうにか誤魔化すとか?
 自分がどうすべきか決断を下す前に、「殿下」と、顔を上げて、だけど私はそのまま額を押さえられた。「ん」って、声にならない声が漏れる。一瞬何が起きたのか分からなくなるけれど、冷たいその感触に、自分の額に触れるそれが殿下の手であることが分かった。殿下は私に顔を上げさせないようにしているみたいだった。だけど殿下が押さえたのは額で、後頭部じゃなかったから、前髪と殿下の手の隙間から、私は殿下の姿を見てしまう。
 私を押さえているのとは逆の手で、殿下は自分の顔の下半分を隠していた。目線は私ではなく、私の爪先の、もっと向こうに落ちている。短いため息が聞こえた。何が起きているのか分からなかった。その指の隙間から見える殿下の顔が、びっくりするくらい赤かったから。
 ため息の後、そっと息を吸った殿下が口を開く。「すまない」って。掠れた声で、そう言って、それから。



「…………ちょっと、待ってくれ」



 短く、そう言ったのだ。
 なんで、そんなに顔を赤くする必要があるんだろう。殿下くらい素敵な方なら告白されるのなんか慣れっこだろうし、そうじゃなくたって、相手は私だ。殿下がこんな風に動揺する必要なんて、絶対にない。
 殿下、と呼んだら、瞬間、私の額にあった手に込められていた力が微かに揺るんだ。
 殿下はその眉尻を下げて、ほとんど観念したみたいに私に視線を寄越す。殿下の、私を押さえていた手の熱が離れていく。殿下の顔の下半分は、未だその手で隠されていて、私は瞬きをするしかない。
 殿下が動揺する理由がわからなくて、私は乱れた前髪を整えることもしないまま、殿下のことを見つめていた。
 「待ってくれ」って言った殿下の言葉の続きを、ただ待っていた。








 は何を言っているんだろうと思った。
 それとも、俺の聞き間違いだろうか。だけど、脳内で反芻させればさせるほど、それは実感を伴って俺の張った膜を剥いでいく。嗚咽を漏らし、「好きです」と確かめるように呟いたは、こんなたちの悪い嘘や冗談を言う人間ではなかった、決して。
 俯いたまま、その細い肩を震わせてじっと息を潜めているに、待ってくれ、と思う。心の底から。俺の脳が全てを理解して、この状況を受け入れるまで。
 好き? が、俺を? 一体どうして。
 そもそもどうして今、そんなことをが言ったのか。
 彼女の話を整理するに、は、俺とエーデルガルトのことを誤解しているようだった。俺がエーデルガルトのことを子供の頃からずっと、何なら現在も好きであると。成る程先の先生との会話を思い出せば、そう受け取られても無理もないのかもしれない(そして実際、俺にとって彼女が初恋だったのも事実だ。)だがそうとは知らぬは盗み聞きをしてしまったことへの罪悪感からか、或いは混乱と動揺のせいか、自らがそんなことをしてしまうに至った理由として自分の思いを吐露した。好きだから知りたかったのだと、そう言った。
 俺のことが。
 俺の沈黙を訝しんだのか、が顔を上げようとするのを咄嗟に制止する。今、顔を見られてはまずいと思った。咄嗟に押さえてしまった彼女の額に余計な力を加えないよう気を配りながら、けれど顔を見られたくなくて、「…………ちょっと、待ってくれ」と口にする。絞り出すような声色になってしまって、参った。そう、待ってほしいのだ、本当に。少なくとも、今は彼女にこの顔を見られたくない。押さえた口元が、頬が、熱を持って熱い。
 は、だけど返事をしなかった。俺の手に押さえられたままじっと動かずにいるものだから、咄嗟のこととは言え触れてしまったことが申し訳なくなり、そっと手を離す。それでも、まだ自分の顔が熱い自覚はあったから、顔を片手で隠したまま、目線を彷徨わせる。



「…………ええと……好き、というのは、俺のことで間違いないだろうか」



 やっとの思いで口にできた言葉がそれなのだから、嫌になる。
 は、驚いたようにその瞳を丸くしていた。さっきまで泣いていたはずの彼女はもう泣き止んでいて、それだけで安堵の気持ちが芽生えたが、「ええと……そう、です。……す、きです、でも、ご迷惑だと、思うので、その」と返す声が震えていた。



「いや、迷惑ではないんだ。すまない。なんというか……驚いてしまって……」



 そう、驚いたのだ。そんな可能性、一度だって考えたことがなかったから。
 俺は、はクロードのことが好きなのだろうと思っていた。
 クロードのような人間と、彼女は一緒にいるべきなのだろうと、そう思っていたのだ。
 クロードは自分のことを「猜疑心の塊」と評するが、俺よりも余程賢く、周囲に目を向けることのできる人間だ。感情の機微に敏く、いつも余裕があって、人の懐に入るのが上手い。人心掌握に長けている、というと、良くない言い方かもしれないが、実際にクロードと一緒にいるときのは、随分と肩の力が抜けているように見えた。俺の傍にいるときよりも、ずっと。クロードの方だって、のことを悪くは思っていなかったはずだ。



「…………お前はクロードのことが好きなんだと思っていたから」



 そう言った俺に、は目を丸くして「えっ」と上擦った声をあげた。「な、なんでですか」って、何でも何もない。俺にはそう見えたんだ。鷲獅子戦を終えた後、騎士の間で二人本を探していたその後ろ姿を見た時、そこに入り込めないように思ったから。
 は言葉を濁す俺に、「違います、お友達です」と首を振る。



「……殿下の勘違いです。私が好きなのは……殿下です」



 最後は消え入りそうな声で、そう言われた。頭を殴られたようで、どんな顔をしたら良いのか分からなくなる。咳払いを一つすると、は小さく瞬きをして、改めて「好き」と口にしてしまったことを後悔するように、そっと口元を手で押さえた。その仕草に、胸が詰まった。
 どうして俺なんだ。そうは思うけれど、それを確かめる余裕が、今の俺にはない。
 なだらかであるように努めていた感情が、不意に掻き混ぜられたような衝動がある。突き動かされてしまいそうになる。本当なら、きっとここで一度足を止めるべきなのに、今はそれができない、どうしても。



「……勘違いと言うなら、だって勘違いをしている」



 そう呟いたとき、は俺を見た。俺に押さえられたせいで乱れた前髪の下の瞳が、不思議そうに瞬いている。



「俺はエーデルガルトのことは、今はもう何とも思っていないんだ」



 そう口にしたときも、その表情は変わらなかった。眉が微かに動いたくらいで。
 天井の玻璃硝子から、柔らかな月光が差し込んでいた。それがの髪を照らしていた。線の細い面立ちは頼りなく、俺はと出会った春から、彼女を何度も怖がらせていたことを思い出す。出会って早々その腕に怪我をさせ、ザナドでは一人危険な目に遭わせた。ルミール村で、動揺からつい激しい言葉を使ってしまったせいか、煤を払ってやろうとしたときには、身を竦められた。それなのに、彼女はそれからも、俺にそれまで通り接してくれた。
 彼女は真面目な人間だった。いつも慎重で、自分に不足している部分を正しく見極めた。俺にはない、豊かな感性や表情を持っていた。思い悩み、他人の痛みに共感することのできる人間。何に対しても真摯で、その分一人で抱え込んでしまう。葛藤し、それでも進もうとする。
 は、まっとうだった。そのまっとうさに、惹かれていた。
 俺がもう二度と手に入れらないものだったから。



「俺は」


 
 逡巡してしまったのは、その背の奥に、白い腕が見えた気がしたからだ。俺が感傷に浸ることを許さない腕だった。それでもこの四年間、それを憎んだり疎んだりしたことは、ただの一度もない。あれは、いつだって俺の足を掴んだ。俺を引き止め、正しい道へと進ませた。今だって。
 本当は、誰かを愛することなど、してはいけない。必要ない。俺は父や継母、グレンや、失われた多くの命のために、成し遂げなければならないことがある。その道にを連れて行くことは、俺にはできない。そして一人成し遂げられたとて、そのとき、お前が俺を好きでいつづけることは、きっとないだろう。血を頭から被った俺を見て、お前は怯え、後ずさるだろう。煤を払おうとした俺に怯えたように。まっとうなお前は、そうであるべきだ。そのとき俺を捨てるべきだ。



「俺は、お前の思うような人間では、きっとないよ」



 けれど俺は狡い人間だから、お前が俺を好いていてくれるなら、その間は、お前を留めておきたいと、そう思ってしまうのだ。
 の瞳は、俺の背の後ろにある灯りを映して、煌めいている。「それでも」と口にする俺の一言一句を、聞き逃すまいといてくれる。
 悲しませたくなかった。無碍にできるわけがなかったのだ。例え、自分が、本当はに相応しい人間ではないと分かっていたとしても。は俺ではない男を選ぶべきだと思っていても。俺には資格がないことも。本当には幸せになれないと、知っていても。



「……それでも、お前が俺に失望するまでは、俺の傍にいてもらえるだろうか」



 いつか、お前が俺から離れたいと思う日までは、隣にいてほしい。俺の恋人として。
 目を見開いていたがやがて泣き出す寸前のようにその瞳を歪める。



「わ、私で、良いんですか?」



 そう震えた声で言うから、「お前が良いんだ」と、そう言った。俺の言葉に今度こそ泣き出した彼女がゆっくりと頷いたそのとき、今度ははっきりとその肩から、無数の腕が伸びたのを、俺は見た。それは、確かに俺を責めていた。の気持ちに応えた俺が、一人復讐の道から外れようとしているように、彼らには見えたのかもしれない。だから、違うんだ、と微かに首を振る。
 約束しただろう。俺はお前達の無念を、必ず晴らすと。
 感極まったようにはらはらと泣いているに手巾を差し出して、俺は白い腕から目を逸らす。この思いも、この人も、いつか手放すものだから。時がくれば、俺はお前たちのためにこの命を差し出すから。だからどうか今だけは、俺を許してくれないか。祈るように、そう思う。
 こんな風に俺が予防線を張り巡らせていることを知ったら、はもう、すぐにでも愛想を尽かすかもしれないな。
 誰にともなく心の中で呟いたそれに、答えはなかった。大広間からの音楽は、今はもう聞こえない。ただ、の鼻を啜る音が、弱々しい泣き声が、手を伸ばせばすぐに届く場所にあるだけだった。それを幸せだと思うこと自体、彼らにとっては、裏切りなのかもしれなかった。


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