「…………」
大聖堂の扉を開けたとき、思わずその名を呼んでいた。
俺を振り返ったの顔は、天井からの月明かりを受けて、微かに白んでいる。
逃げ隠れるように大聖堂にいた私の前に、殿下は現われた。
人の気配も、暖になるようなものもない星辰の節の大聖堂は、底冷えするような寒さがある。吐いた息は仄かに白くなり、指先はいつの間にかかじかんでいた。まともな判断力があれば、舞踏会の夜にこんなところには来ないだろう。なのに、殿下は今ここにいる。少しだけ乱れた前髪で、それでも平生の顔色のまま、安心したようにその眉尻を下げている。
「……隣に座っても、良いだろうか」
殿下は、私を探しに来たのだろうか。
でも、だとしたらどうしてだろう。わけがわからなくて、私は殿下の言葉に答えることもできず、目と口とを丸くしたまま、やっとの思いで小さく頷いた。
私の隣に、殿下は腰を下ろす。人一人分くらいの間隔が空いていたのに、緊張で息が止まりそうになる。大聖堂に来てからずっと泣くこともできずにぼうっとしていたから、余計に頭が回らない。
静謐な空気の流れる大聖堂には、私と殿下しかいなかった。一人大聖堂で放心していた私は、自分がここに来てからどれだけの時間が流れていたのかが分からなかった(けれど、大広間の方角からは今も絶えずに音楽が流れていたから、そんなに長い時間が経ったわけではないらしいことは確かだ。)舞踏会はまだ続いていて、なのに殿下は、こんなところにいる。
大聖堂の重たい扉が開く音も、最前列の長椅子に座る私の元まで響いた、殿下のその踵の音も、私の耳は鮮明に捉えていた。その間、私の思考はずっと真っ白になっていて、殿下が隣に座った今ですら、普段の半分も働いていない。だからもしかしたら、夢なのかもしれない。だってそうでなければ殿下がここにいる意味が、全然分からないから。私は一人大聖堂で眠ってしまっていて、それで、夢を見ているんだ、自分にとって都合の良いだけの夢を。
だけど、殿下は私たちの間に広がる沈黙の表面をそっと撫でるような声で、「シルヴァンに聞いたんだ」と言った。私の内心を汲み取って、否定するみたいに。
「…………シルヴァンくん……ですか?」
「が、俺を追いかけて出て行ったはずだと」
「あ」
驚いて、思わず手を口で押さえる。ああ、そうだった、私に殿下の居所を教えてくれたシルヴァンくんは、私が殿下を追いかけたことだって知っていたんだって。この短時間では処理できない情報がたくさん頭に入ってきたせいで、そんなことも失念していた。そうしてみると、夢だっていう可能性は、半分くらいに減るように思えた。だって、殿下の言葉で、どうして彼がここにいるのか、その線が繋がらなくもなかったから。
先生と別れた後大広間に戻った殿下は、シルヴァンくんに私のことを聞いた。優しい殿下のことだ、きっと私がまだどこかで殿下を探しているとでも思ったのかもしれない。それで、大広間を出たのだ。自分に何か用事があるのかもしれないと、考えてくれて。私が二人の話を盗み聞きして、勝手に傷ついて、打ちひしがれて一人大聖堂にいたなんてこと、きっと殿下は思いつきもしない。そう思うと、胸がひりひりと痛んだ。申し訳なくて、いたたまれなくて、乾いていたはずの涙がまた眼球の奥で作られてしまいそうだった。
私が「ごめんなさい」と言ったのは、だから、楽になりたかっただけの、ただの保身だ。
「ごめんなさい、殿下」
「? いや。そんなに探すのに手間取ったわけでは」
「ごめんなさい」
そっちもだけど、それだけじゃないんです。
そういう意味を込めて、ゆっくりと首を振る。
もう殿下の顔を見ることはできなかった。私は腿の上で、両の拳を握る。手の平に爪が食い込んで、それがはっきりと、痛かった。だからもう、これは夢ではない。
私は殿下とエーデルガルトさんの関係が気になって、先生との話を聞いてしまった。殿下にとっては個人的な話で、信頼の置ける相手にしか聞かれたくないものであったのは間違いない。それなのに私は、立ち去ることもしなかった。まさか、アランデル公が姪のエーデルガルトさんを連れてファーガスに亡命していた時期があったなんて想像もしていなかったし、エーデルガルトさんのお母様に関しても、そこまで王家と複雑な関係を築いていたなんて思わなかった。想像だにしなかった内容であることに動揺したのは事実だけど、そんなの全部言い訳だ。だって私は、殿下とエーデルガルトさんがどういう関係なのかを知りたいっていう本来の目的を果たしている。それでエーデルガルトさんへの、殿下の思いを知って、こんなに苦しんでいるんだから、救えない。馬鹿みたいだ。
胸がいっぱいになって、言葉に詰まる。「先生との話を聞いてしまいました」って、そう言わなければいけないのに。謝らなくちゃいけないのに。だけど、殿下はぎゅうと目を瞑ったままの私の隣で、ふ、って息を吐いた。それは優しくて、柔らかい、緊張を拭うような、温かい音だった。
「俺こそ、変な話を聞かせてしまっただろう」
殿下の声以外の音が、その時、なにも聞こえなかった。
目を見開いて、顔を上げる。殿下の方を見れば、その顔は、薄暗い大聖堂の中、酷く優しい。
「……どう」
して。言いかけた言葉は、殿下の声に遮られた。「シルヴァンから話を聞いたとき、もしかしたら、と思った」と。殿下を形作る全ては、今、痛いくらいの思いやりに満ちている。
「もしかしたら、俺を追いかけてきたは、俺と先生との会話を聞いてしまったんではないか、と。……違うだろうか」
「聞いてしまった」と言う言葉を使ってくれる殿下に、ともすれば泣きそうになってしまった。
殿下の推測が違っていることはないのに、違うんです、と思ってしまう。だって私は、聞かされたとか、聞いてしまったとか、そういうんじゃない。自分の意思で足を止めて、身を隠して、先生と殿下の話を聞いたんです。そこには、はっきりとした差がある、善と悪として、切り離されている。だけど、殿下は私の沈黙を肯定と捉える。
「過去の話とは言え、いきなりあんな話を聞かされて、きっと驚いただろう」
「そ……そんな」
「驚かせてしまって、すまなかった。お前が他言するような人間だとは思っていないが、エーデルガルトのことだけは胸に秘めておいてもらえるだろうか」
本人も俺のことを忘れているようだから、変に広まってしまうのは、少し気まずい。そう苦笑する殿下の顔は、それから数秒経って、表情をなくした。
緩く上がっていた口角は戻り、双眸は微かに瞠られる。その瞳の中に、私が居る。ぐちゃぐちゃの、見るに堪えない顔をした、私が。
「……」
殿下が私の名前を呼んだとき、私はその顔を自分の腕で覆っていた。
あとからあとから流れる涙を見られたくなくて、必死に制服の袖で擦る。それでも、涙は止まらなかった。際限のない水源があって、そこから止めどなく水が溢れてくるみたいに。どれだけ淵をおさえても、それは簡単に決壊してしまった。
どうして、私はこんななんだろう。もしも今泣かずにいたら、我慢して息を止めて、ここを乗り越えられたら、もしかしたら殿下とは、表面上だけでも、今まで通りの関係でいられたかもしれなかった。私が飲み込んで、当初の目的通り、一晩でこの思いをなかったことにして、そうしたら殿下のエーデルガルトさんへの好意を、その先を、これからずっと見守ることができたのかもしれなかった。なのに、できなかった。泣いてしまった。全部が壊れてしまった。泣きながら「ごめんなさい」と口にしたのは、一体何に対してだったのか。謝らなくてはいけないことは、だって、たくさんあったのに。
「私、そんなに良い子じゃ、ないです、殿下の話だって、意図的に聞きました、わかってて盗み聞きしたんです、殿下がエーデルガルトさんのことをどう思っているのか、お二人の関係が、知りたくて」
殿下がどんな顔をしているのか、怖くて見ることができなかった。俯けば、ばたばたと音を立てて涙が落ちていく。制服の下衣に、それはいくつもの染みを作る。こんな時なのに、私は春のことを思い出していた。ザナドから戻ったあの夜も、私たちはこうしてここにいた。叶うなら、あの夜に戻りたかった。殿下への好意を自覚する前の自分は、だって、もっとずっときれいだったはずだから。
息を吸ったら、それは喉に簡単に張り付いた。嗚咽と共に、私は殿下のことを呼んでいた。「殿下」って。勇気を出して顔を上げれば、殿下はぼろぼろに泣く私のことを、真っ直ぐ見つめていてくれる。
だから、もうおわりにしてほしかった。
「私、殿下が好きです」
吐き出した途端、それは私の胸を突き刺したみたいだった。引き裂くほどの力を持って、それは私の恋を終わらせようとしていた。
殿下がエーデルガルトさんのことを、子供の頃からずっと好きでいたとしても。
私は殿下のことが好きです。
泣きながらそう続ける私の声は、醜く歪んで、掠れていた。殿下が息を飲む音だけが、聞こえていた。
もう、それだけだった。