先生と話したことで、凝っていた肩も随分解れた。
大広間へ続く通路を歩きながら、深く息を吐く。先ほどまでの倦怠は、今はもうない。
謁見の間や書庫のある二階へと続く階段前を通りかかると、春のことを思い出す。俺はここで、赤い外套を身につけた少女と出会った。色素の薄い、艶めいた長い髪が、差し込む日差しを受けて微かな光を発していた。俺の気配を察した少女が振り向いたときの、あの清廉な眼差しを、今も覚えている。
「初めまして。ディミトリ王子……と呼べば良いのかしら」
「エル」だった。
背丈が伸びても、声の質が女性らしく変化していても、(どういうわけなのかは未だに判然としないが)髪の色が変わっていても、エーデルガルトは間違いなく、俺の差し出した短剣を受け取り、困ったように眉尻を下げ笑っていた、あの少女だったのだ。
俺達は帝国と王国を継ぐ者としての立場もある。彼女は素知らぬふりをしているだけなのかもしれない。そう考えもしたけれど、そんな思いは日に日に薄れていき、今はもう、本当に彼女があの日々を、俺を覚えていないのだと思っている。そして、それを仕方が無いことだとも。
誰にも話す必要のないことだ。けれど、どうしてか先生には、聞いてほしかった、俺はそう思っていた。俺が士官学校に入った本当の目的を知る先生に、俺は俺のことを知ってほしかったのだ。そしてそれは何も、「エル」のことに限った話ではない。話し終え、先生と別れた今、俺はそれを自覚する。
偶然にでも、今日その機会を得られて良かったのかもしれない。そう思いながら大広間へと続く扉を再び開けたその直後、俺は「殿下!?」と声をかけられることになる。
「え? ひょっとして、殿下一人ですか?」
人の気配と熱気に微かな不快感を覚えながら顔を上げれば、そこにはシルヴァンが立っていた。
これだけ生徒で混雑する大広間で何度も出くわすことは、なかなかないだろう。実際俺は舞踏会が始まって以後、シルヴァン以外とは同じ学級の者とほとんど話をしていない。だが、一人であることがそんなに驚かれるほどのことだろうか。訝しみ、首を傾げる俺に、しかしシルヴァンは「はどうしたんです」と尋ねた。目を瞠ったのは、俺の方だった。
「……がどうした?」
「いやいや、のやつ、さっき殿下を探しに出て行ったんですよ。殿下が出て行ってからほんの数分後に。もう会ってるもんだと思ってましたが……まさか、入れ違いになったのか?」
「入れ違い?」
顔には出さないように努めたが、シルヴァンの言葉のほとんどを、俺はすぐには理解できなかった。
だって、はクロードと踊っていただろう。そうでなくとも、他の生徒からだって声をかけられていたっておかしくはない。舞踏会を、彼女は楽しんでいたはずだ。それがどうして俺を探す必要がある。
眉を寄せたままの俺に、シルヴァンが明らかに困惑したように顔を曇らせた。「殿下……冗談でしょう」そう口走られたが、その意味が分からない。
俺の不在を知り、戻ってくるのを待っていたらしい女生徒たちからの視線が注がれているのが分かる。そのうちの一つが、俺とシルヴァンの間に入り込むように近づいた。「ディミトリ様、良かったら、この次は私と」そう声をかけられたのに、気がついたら首を振っていた。「すまない」と、そう口にしていた。
「用がある。悪いが、君とは踊れない」
シルヴァンの言う「冗談でしょう」の意味は分からなくとも、俺はを探さなければならなかった。
「用があるなら仕方ない。じゃあ代わりに俺と踊ろうか、綺麗なお嬢さん」そう機転を利かせてくれるシルヴァンに目だけで礼を言った俺は、踵を返して、再び扉を開ける。が俺を探していた。入れ違いになった。シルヴァンの言った言葉が脳内を駆け巡って、とある可能性に行き着いている。教室へと続く通路を引き返す俺の背の奥で、音楽は今も、途切れることなく続いている。それに紛れるように、大聖堂の方に遠のいていく足音があったのが、思考に引っかかるように残っている。
人のいないところに行きたかった。
でもこのまま寮に帰ってしまえば、そのまま布団に包まって延々と泣いて、自分が一人で深みに落ちてしまうのは想像に難くなかった。一人になりたかったけれど、後ろ向きに考えて閉じこもりたいわけではないのだ。だってそんなことをしたら、私はもうきっと、今後殿下の顔を見ることこすらも困難になりそうだったから。そんな三節を過ごすなんて、想像するだけで嫌だった。
先生と殿下が立ち去った後、私は鼻を啜ってのろのろと立ち上がり、行く当てもなく歩き出した。どこにいても人の気配が濃いのは、今日が舞踏会だからに他ならない。舞踏会を抜け出す生徒がいるのは勿論、それ自体が士官学校生のための行事であるが故に、騎士の方々が特に門の方を重点的に見回ってくれているのだ。
だったら、いっそ大聖堂の方に行こうかな。
こんな日にお祈りをしている人なんて、よっぽどいないだろう。もしかしたら女神の塔の噂にあやかった恋人たちがいるかもしれないけれど、そもそもあれは星辰の節の最後の日、って言われてるし、流石にそこまで気の早い人もいない気がする。目的地を薄らと決めて歩き出せば、ちょっとだけふらついて、そんな自分自身にびっくりした。
大広間からは絶えず音楽が流れていて、たったそれだけで、歩き慣れたガルグ=マクが自分の手の平から零れ落ちた、何か特別なものみたいに感じる。そういえば、いつだったか。あれはザナドでの課題が終わった夜のことだったと思うから、竪琴の節か。あの日も私は今みたいに、一人で大聖堂へと向かっていた。ザナドで失われた大勢の命が安らかに眠れるようにと祈った。あの夜、殿下は私の隣にいてくれたっけ。遠い昔のことみたいだ。あの時の私は、まだ、本当の痛みを知らずにいた。人を殺すことも、なかった。
殿下はどんな私を前にしても、役に立てなくても、民を殺してしまっても、傷ついても、いつだって励ましてくれていた。
だから好きだった。ちゃんと、本当に好きだった。
そんなことを思って、鼻の奥が痛くなる。涙は止まっていても、涙腺はふとした瞬間に呆気なく緩むだろう気配があって、私はそれをどうにか平生になるようにと耐えていた。この胸の痛みを受け入れて、噛み砕いて、飲み込んで、今日の夜のうちに、すべて消化してしまいたかったのだ、完全に。
大聖堂へと続く橋を渡るには、大広間の近くを通らなければならない。
誰かが扉を開けて、出てきたりしませんように。そう願いながら、息を止めて、小走りで駆け抜ける。一度手が届きそうなほどに近づいた音楽は、それで膜が張られたように、遠くなる。私が橋を渡る頃、背中の方で大広間の扉が開く気配があったけれど、私は決して振り向かない。
の姿は、俺と先生が先ほどまで話をしていた教室付近にはなかった。植木や柱の陰も、黒鷲や金鹿の学級の教室も覗き込んだ。食堂を見回し、寮の部屋の扉を叩くも反応はなかった。温室は真っ暗で、釣り池には見回りの騎士の姿があるのみだ。厩舎近くでアロイス殿を見かけたのでを見ていないかと尋ねれば、生徒の中から行方不明者が出ている事件と結びつけてしまったのか、大仰に驚かれたため、慌てて首を振った。大広間に戻り、改めて姿を探すもはいない。ならば、もう大聖堂以外にないだろう。今日の俺たちが全て行き違い、すれ違っているのでないならば。
大聖堂へと続く橋を渡り、閉じられた扉に手をかける。月明かりを受けた玻璃硝子が床に薄く色を落としていた。そこから少し離れた椅子に座っていた少女がこちらを振り向いたのを、俺は息を止めて見つめている。