最初、私は殿下が何を言っているのか分からなかった。
 聞き間違いか何かなんじゃないか、って、柱に身を隠しながら考えていた。ずっと、ずっと。



「以前、彼女と俺が義理の姉弟だという話をしたな」



 だって殿下は今、先生にそう言ったのだ。かつてエーデルガルトさんに踊りを教わったことがあると口にした、その直後のことだった。びっくりして声が漏れてしまいそうになるのに、慌てて口元を両手で押さえる。義理の姉弟、だなんて、殿下が何を言っているのか上手く飲み込めない。
 殿下の言う「彼女」が誰のことを指すのか。普通だったら、直前まで殿下が「踊りを教わった」と話していたエーデルガルトさんのことなのだろう。でも、そんなの、変だ。だって殿下はファーガスの王子で、エーデルガルトさんは、アドラステア帝国の皇帝になられる方である。義理とは言え、二人が姉弟だなんて、そんなことがあり得るのだろうか。今まで二人はそんな様子をちっとも感じさせなかったというのに。
 それに確か、殿下のお母様は十余年前に疫病で亡くなられているはずだ。そうである以上、義理というのならエーデルガルト様のお母様が、ファーガスの前王であり殿下のお父様でいらっしゃるランベール王の後妻になっていた、ということになる。それならば殿下の言い分も理に適っていないことはない。だけどそんな話、今まで一度だって――。
 柱に背を預けながら、殿下の言葉を、一言一句聞き漏らすまいと息を潜める。大広間からは今も微かに演奏やざわめきが漏れ聞こえていた。そこから離れた私の足元の、遥かその先を、月明かりが照らしていた。本当は、お前がこんなところにいていいわけがないんだ、って、それらが囁いているみたいだった。でも、じゃあ果たして、この状況で引き返せることのできる殊勝な人間が、この世にどれだけいるだろう? いや、分かってる、そんなの開き直ってるだけだ、って。でも、無理だった。私は聞きたかった。盗み聞きなんていう「ずる」をしてでも知りたかった。
 殿下とエーデルガルトさんの間に横たわった、秘密の沈黙を。
 私はただ、知りたかった。








 どうして俺は今、こんなところで身の上話をしようとしているんだろう。本来なら、口外するべきものではないというのに。
 息が詰まる舞踏会を抜け出して外の空気を吸ったことで、妙な解放感に包まれたせいだろうか。それとも、偶然出会ったのが先生だったせいなのか。きっとその両方だ。
 前節、ガルグ=マクを訪れていた義伯父上と話をしているところを先生に見られてしまった。継いで剥いだような会話を済ませた義伯父上は、エーデルガルトのことを「姪」と呼んだその口で、俺のことを「義理の甥」と呼んだ。表には伏せている事情だというのに、迂闊にも程がある。それとも、こういう可能性を見越してのことだったのか。真偽の程は定かではないが、それを立ち聞きしていた先生には、俺と彼女が義理の姉弟であるということを軽く説明する羽目になってしまっていた。先生は分かっているのか分かっていないのか、他の人間であれば想定されうる反応の一切を示さなかった。ただ「そうだったのか」と、それだけだった。それが俺の心を幾分か軽くしたのは、嘘ではない。
 だが、このことがなくとも、俺はもしかしたら先生に打ち明けていたのかもしれない。今、実際にこうして俺達の関係を詳らかにしているくらいなのだから。それは俺の気を楽にさせた。俺を雁字搦めにする糸の一本を、端からそっと引っ張って、正しい位置に戻す作業のようだった。
 エーデルガルトの実母と俺の継母が同じ女性であるということ。子供の頃の俺がそれを知らなかったこと。継母が実子の存在を俺に仄めかさなかったのは、きっと俺を本当の息子のように思っていてくれたからだ。少なくとも、俺はそう思っている、と。



「俺達は、互いの存在を知らずに育った」



 先生は口数が少ない。必要以上に言葉を発さず、相槌だって微々たる回数だ。表情が変わることはあまりないが、それでも出会った頃よりその心情は分かる。彼は俺を、俺達を、正しく導こうとしているのだという信がある。縋りたくなるときがあるのだ。情けないことに。
 唇が震えそうになって、代わりに小さく笑った。



「……だが、幼い頃の一年と少し、俺と彼女は友人だったことがあるんだ」



 「友人……姉弟ではなく?」珍しく口を挟んだ先生に、微かに頷く。
 脳裏に幼いエーデルガルトの、くるくると変わる表情が次々浮かんで、消えて行った。フェルディアに用意されたアランデル公の仮住まい。父に連れられ訪れたそこで見た、窓際の椅子に座り、ぼんやりと外を眺める幼いその横顔。継母に似ていた気がした。当たり前だ、二人は血が繋がっていたのだから。だけど、それを知らなかった俺にとって、彼女はそれだけで、守るべき少女たりえた。気難しそうな瞳が俺を捉えた瞬間の、薄暗い室内の具合も、微かな埃のにおいも、俺は覚えている。俺は彼女が好きだった。俺の手を引き、踊りをたたき込んだ。賢明な彼女が好きだった。ずっと笑っていてくれたらいいと思った。
 彼女の方は、もうあの日のことを覚えてはいないのだろうけれど。








 アドラステア帝国のアランデル公がファーガスに亡命していた時期があったなんて、初めて聞いた。
 けれど前節、偶然見てしまった殿下が記したと思しき紙片に、その名前があったのを私ははっきりと覚えている。1174年、フォルクハルト=フォン=アランデル。それが、殿下とアランデル公の関わりを示す証左であるように思えた。
 アランデルは、一世代前までは帝国の小領主に過ぎなかった。それが今、辣腕摂政と渾名されるほどの地位にいるのは、現当主であるフォルクハルト様の妹君が皇帝イオニアス9世に娶られたためである、とされている。
 そのフォルクハルト様が姪であるエーデルガルトさんを連れてファーガスを頼ったとするならば、時期から見ても帝国内で起きた七貴族の変に関係すると考えて良いだろう(そうなると、紙片の1174年という年号とずれてしまうのが気になるけれど、恐らくあの年号は亡命と関係ないものだ。)あの事件を機に、皇帝は力を失った。きっと、それに巻き込まれないよう逃げてきたエーデルガルトさんと、殿下は出会ったのだ。そして自分たちが義姉弟であるという事実を知らぬまま打ち解けた。踊りを教わった。
 どういう経緯があってエーデルガルトさんのお母様がファーガス王の後妻となったのかについては、この件には関係がないらしい。ただ、殿下とエーデルガルトさんが、士官学校に入学するよりも前に出会っていたこと。踊りを教わるほどに親しかったこと。エーデルガルトさんが帝国に帰るまでの一年が、殿下にとって代えのきかない美しい思い出になっていることは、事実だった。
 そしてそれは、容赦なく私を殴った。何の躊躇もなく。
 殿下の懐かしむような声音は、尚も私を追い詰める。それは、部外者のくせにここに居座り続けた私に与えられる、罰のようだった。そしてそれは実際、そうに他ならなかったのだ。



「なあ、先生。今考えても情けない話なんだが、俺は王国を発つ彼女への餞別に、何を渡したと思う?」



 聞きたくないなんて、今更何を都合の良いことを思っているんだろう。
 足が震えて、立っていられなかった。柱に背を預けたまま、ずるずると座り込む。石の感触はひんやりとして、私の体温を奪っていく。先生がなんて答えたのかだけは靄がかっているみたいに聞き取れないのに、私は殿下の声だけは、こんなにはっきりと拾ってしまう。



「……短剣だよ」



 過去を思い出すような、静かで優しい、けれど自嘲気味の掠れた声だった。今まで聞いたどの殿下の声よりも、それはどうしてか、燦然とした輝きを放っていた。殿下、と思う。ぐるぐると、私に殿下が向けてくれた色んなものたちが、いつまでも私の中を循環するように、巡っている。私の知らない幼い殿下は、きっと、想像するよりもたくさん、たくさん考えたんだろう。別れるエーデルガルトさんのために、何ができるかを。それで短剣を選んだ。その意味を、ファーガスに生まれ育った私は正しく理解している。
 彼女は不自由な生活を強いられていたから。その短剣で、望む未来を切り拓けるように、そう思って。淡々と話す殿下は、きっと優しい顔をしているに違いなかった。



「……まあ、それもこれも昔の話だ。あの時の少年のことなど、彼女はもう忘れただろう」



 殿下の声が、私の頭上から降り注ぐみたいに、澱として沈殿していく。
 私はエーデルガルトさんが、どれだけの苦悩を背負っているのかを知らない。次期皇帝であるが故の重圧も、過去経験した艱難辛苦も、知りようがない。そこまで殿下の中にいる彼女を、羨ましがっていいわけがない。その過去に濃い色を落とす存在である彼女を殿下が今も好きでいるのは、仕方が無いことだった。そこに余地などないことくらい分かっていたはずなのに、どうしてこんなにも苦しく、泣けてくるんだろう。「殿下とどうにかなりたいわけじゃない」っていうのは、本心だったはずだ。
 聞かなきゃよかった。踊りたいなんて思わなきゃよかった。馬鹿みたいだ。そうしたらずっと夢を見ていられた。偶像にするみたいな身分違いの恋を、最後まで。
 座り込んだ私は、立てた膝に顔を埋める。夜で良かった。誰も見ていなくて良かった。漏れた声を、大広間からの音楽が消してくれて良かった。
 殿下と先生が別れて、二人が方々に立ち去っていくのを、柱の陰で丸くなりながら感じている。何も知らないままの自分には、もう、どうひっくり返ったって戻れない。そう思ったら、嗚咽が漏れた。自分がこんなにも殿下を好きだったことにこんな形で気付いてしまうなんて、そんなのあんまりだ。


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