殿下の姿がないことに気がついたのは、クロードくんと一曲踊り終えて、彼と別れた後のことだった。
 これだけ人が多くても、クロードくんや殿下は他の生徒たちと違ってそれぞれ級長を示す外套をつけている。踊っていれば鮮やかなそれは一際目に付くものだったし、そうでなくても殿下の存在感は大きいものだから、大広間にその姿がないということは間違いなさそうだった。



「いない……」



 思わず漏らした言葉は、人々の生み出す漣のようなざわめきに、あっという間に飲み込まれてしまう。
 今度こそ、殿下を誘おうと思っていたのに。
 クロードくんのおかげで目立ってしまったし、おかげで変に度胸がついてしまった。今の自分だったら殿下に「踊ってくれませんか」って言うことだって、できなくはない、かもしれない、気がする、頑張れば、何とか、多分。だって、もう後がない。
 勿論、殿下と踊るための順番待ちがあるのならばそれはもう物理的に難しいことなのかもしれない。けれど、やっぱり舞踏会が終わるまで諦めたくないと思った。だって、クロードくんと踊っていて、気がついてしまったのだ。もうあと数節もすれば、クロードくんとも会えなくなってしまうんだな、って。そうしたら、殿下の薄い笑顔が頭を過ぎった。伏し目がちの、笑う自分を律するような、あの笑顔。
 星辰の節も、あともう少しで終わってしまう。そうしたら残りの学校生活は、たったの三節だ。いくら五年後に同窓会を開こうって約束をしたからと言っても、五年って、やっぱりすごく長い。イングリットちゃんの言うように、その間に殿下はきっと「陛下」になる。ガルグ=マクに居てですら遠い殿下は、もっと手の届かない人になってしまう。



「何かをして後悔するよりも、何もせずに後悔する方が、きっと辛いですから」



 イングリットちゃんに言われた言葉が脳裏に浮かんで、そしてそれは消えなかった、ずっと。
 あの時だって、私は頑張ってみようと思ったはずだった。なのにいつまでも一人でぐるぐると同じ所を歩き回って、馬鹿みたい。だめだったらだめだったときに落ち込めばいいんだって思ったはずなのに、どうして些細なことに一喜一憂して、自分のした覚悟を忘れてしまうんだろう。
 やっぱり殿下と踊りたい。
 殿下がエーデルガルトさんを好きでも関係ない。だって私の「好き」なんて、一生殿下に伝えることなんてないものなんだから。だったらもう、私は全部の勇気を振り絞りたい。踊ってくださいって、言うのだ、緊張でいろんなところが震えてしまっても、声にならなくても、誘う、絶対。
 けれどそれにはまず、殿下を探すことからだ――。
 そう思っていたから、大広間に殿下の姿がないことに、私は拍子抜けを通り越して狼狽してしまった。
 ついさっきまでいたはずなのに。私とクロードくんが踊るのと入れ違いで、殿下は女子生徒との踊りを終え、一度端に移動していた。舞踏会の開始直後から休むことなく踊っていたから、そのまま休憩しているのだろうか。だけど「気が重い」って言っていたし、実はもうこっそり帰ってしまっていたらどうしよう。実際、ぽつぽつと寮に帰り始めた生徒が見られているのだ(きっとフェリクスくんもその一人なのだろう。)そうしたら、流石にもう諦めるしかない。
 きょろきょろと辺りを見回していたら、「」と声をかけられた。舞踏会の始まる頃からその姿を探していた、イングリットちゃんだった。



「イングリットちゃん!」

「ああ、やっと見つけられました。すごい人ですね」



 ほっとしたように微笑むイングリットちゃんは、いつにも増してきらきらしていた。元々美しい顔立ちをしているけれど、お化粧をしたイングリットちゃんの頬はふんわりと色づいていて、殿下を探していたことも忘れて、見とれてしまいそうになる。
 「わー! イングリットちゃん、かわいい」と言えば、イングリットちゃんは困ったようにその眉尻を下げて、「あ、ありがとうございます。も、とても可愛いですよ。その色、とても似合っています」と言ってくれた。そういえば、私も口紅だけは引いていたのだった。何だか色々あって、自分がお化粧をしていたこともすっかり忘れてしまっていた。
 照れてお礼を返せば、イングリットちゃんはそろりと私の周囲に目線を送った。まるで誰かの姿を探しているみたいだ。ちょっと気になったけれど、イングリットちゃんはすぐに言葉にしてくれる。「ところで、は殿下とは踊れたのですか?」って。イングリットちゃんはイングリットちゃんで、ずっと気にしてくれていたのだろう。自分のことではないのに。それが、しみこむみたいに嬉しい。



「ええと……実は結局今に至るまでお誘いができないままで……それで今、殿下を探しているんだけど……イングリットちゃん、殿下のこと、見てないかな?」

「そうだったんですね。殿下でしたら……ついさっき踊っているところは見たのですが……どうでしょう、今は見当たらない気がします」

「そうだよねえ……もしかして、もう帰っちゃったのかな……」



 肩を落とす私の背後から、その時、声をかけてくれる人がいた。



「ん、殿下?」



 私とイングリットちゃんがほとんど同時に視線を向ければ、シルヴァンくんの姿がそこにある。びっくりして、肩のあたりがびくって跳ねた。こんな近くにシルヴァンくんがいるなんて、全然気がつかなかったのだ。
 殿下を探しているなんてことが知られてしまったら、聡い彼には色々バレてしまうんじゃないだろうか。そう思ったけれど、それを気にするよりも先に、シルヴァンくんの方が一人であることが気に掛かった。今日の彼の傍には複数の、そうでなくても誰か一人は必ず女の子がいたから。



「あらシルヴァン、珍しいわね、一人なんて」

「いやー、ははは……その話はやめないか?」



 目を凝らせば、薄らその頬に殴られたような痕があるように見えたのだけど、彼が平然としているところを見ると、光の加減による見間違いだったのかもしれない。そう思うことにする。



「ところで殿下だったら、学校の方に行ったのを見たぜ。今追いかければ、まだその辺にいるんじゃないか?」



 「学校……」思わず復唱する私に、彼は曖昧に笑っている。



「あ、ありがとう、シルヴァンくん。行ってみる」

「気を付けてな」



 大広間の外に行ってしまっていたなら自力では探せなかったと思うから、居所を教えてくれたシルヴァンくんには感謝する他ない。
 もう一度お礼を言って、「頑張ってくださいね」と背中を押してくれたイングリットちゃんとシルヴァンくんに手を振り、学校へと続く大広間の出口を目指す。人の波を縫って扉に手をかけたとき、自分の鼓動が、やけに近く感じていた。イングリットちゃんの手前、躊躇はできなかったけれど、本当だったら私は二の足を踏んでいてもおかしくなかったのだ。この期に及んで。そう思うと、自分の意気地のなさに情けなくなる。いや、だけど今の私は進もうとしているじゃないか。ならばもう、勢いのまま、行くしかない。
 体重をかけて外へと続く扉を開ければ、星辰の節の、張り詰めたような冷たい空気が肌を刺す。
 頭上には、一面に星々が輝いていた。木の陰は私を飲み込むほど濃く、吸い込んだ空気の冷たさも相まって、ちょっとだけ恐怖を覚えてしまう。大広間から遠ざかるほど、私の足音は響いていた。舞踏会を抜け出して来たのか、男女の気配があった。邪魔をしてしまっていそうで申し訳なくて、早足で駆け抜けた。
 そうしながら、殿下への誘い文句を頭の隅で考える。「私と踊ってください」「一緒に踊ってくれませんか」「思い出にしたいんです」殿下に向けるにはどれも拙い言葉たちであるように思えた。だけど、どんなに不格好になっても、誘うのだ。ここまでうじうじしたんだもの、もういい加減、蹴りをつけなくては。
 学校の、教室の前。私と殿下が、フレンちゃんの先生として一緒に踊った場所。果たして、そこで私は殿下の姿を見つける。
 だけど、殿下は一人ではなかった。
 その傍らには、ベレト先生の姿があったのだ。



「俺は子供の頃、エーデルガルトから踊りを教わった」



 私が二人の姿をみとめたその瞬間、耳に入ったその声は、紛れもなく殿下のものだった。
 エーデルガルト。
 彼はそう言った。



「…………気まずいだろ」



 我に返った私は、咄嗟に柱に身を隠す。気まずい。気まずいって、何が? 「……そういうものだろうか」そう答える先生の声は、殿下のものよりも少し聞き取りづらい。
 二人が予め待ち合わせをしていた、ということは、多分ないだろう。休憩のために外に出た二人が偶々ここで出くわして、話し込んでいるに違いない。二人の会話を立ち聞きするなんて、そんなの最低だ。頭ではそう分かっているのに、私は今、ここから一歩も動けそうにない。


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