こんなことを言ってしまえばシルヴァンに薄情だと呆れられてしまうかもしれないが、今夜の舞踏会に関して、最早自分が誰と約束をし、実際にそのうちの誰と踊ったのかを俺は覚えてはいなかった。
いや、そもそもあれは果たして約束と呼べるものだろうか。俺自身、そう受け取られないよう細心の注意を払い返答したはずだ。
「すまないが、当日、また声をかけてもらえないだろうか」
舞踏会前に何人かの女子生徒に呼び出され、当日に自分と踊ってほしいと申し出られたのは片手では足りないが、俺はその全てに、一言一句違えることなくそう答えていた。俺の曖昧な答えに、それでも食い下がるものはいなかった。少なくとも、そう思っている。
俺と踊りたいと言ってもらえることは有り難かったが、単純に、「約束」という形で縛られるのが億劫だったのだ。軽率にその日の行動を保証できなかった。そう漏らした俺を、シルヴァンは「なんて勿体ないことを……」と言い、信じられないものでも見るかのような目付きで見ていたが、乾いた笑いで答えるしかない。シルヴァンのように勿体ないと、そう思えたら良かった。人からの好意を、そういう形でしか返せないよりは、余程いい。
しかしそういった煩わしさがなかったとしても、舞踏会の類は昔から苦手だった。華やかなその表面を僅かにでも捲れば、粘度を持った欲望が渦巻いている。互いの裏をかきあい、腹を探り合い、弱みを握ろうとする人間が微笑み合っている。幼い頃はそこまでは考えてはいなかったが、あの舞踏会特有の、独特な空気が苦手だった。それならば、一人黙々と鍛錬をしている方がどれだけ良いだろう。他者の思惑に触れるくらいならば、己とのみ向き合っていた方が楽だ。
舞踏会を嫌い、舞踊の練習を避ける俺を諭す人は、けれど、一人だけいた。
「そうね、だけど、たくさんの人と出会い、見聞を広めることも大事なんじゃないかしら」
刺繍をするその手を止め、俺の頬を撫でる継母の手は傷一つなく、滑らかだった。俺はあの針が、一枚の絵画を作るように動くのを見るのが好きだった。魔法の手だと信じていた。
「だからね、踊りを覚えるのも、きっと大切よ」
歌うように話す人だった。その声が漏れることのないよう、その声色はいつも柔らかかった。
「踊りは人と人との心を近くするものだから」
大切なことを教えるときは、同じ目線になるよう、屈んでくれた。そのとき、俺は本当に彼女の子供であるように感じることができた。そういうことを、俺は一つ一つ覚えている。取りこぼして、この記憶から消え去ることのないように。
彼女のような女性を継母として慕えたことは、幸運なことだったと思う。継母は寂しそうな目をした人だった。だけど、俺と向き合うとき、その表情はいつも、確かに和らいだ。「ディミトリ」と俺の名を呼ぶその声が、好きだった。ずっと一緒にいられると思った。本当の親子のように。
母の記憶を持たない俺にとって、継母こそが母そのものだったのだ。
継母の助言を受けてから幾らか経つ頃、俺は舞踊を徹底的にたたき込まれることになる。後に血の繋がらない姉弟であることが判明する、継母の実の娘、幼き日のエーデルガルトによって。
不思議なかかわりだ。まるで、俺達は何かに導かれたかのようだった。その二人からの教えが今役に立っているなんて、本当に、何かの冗談みたいだな。そう思っても、それを漏らすことのできる相手はどこにもいない。
「ひえっ」
踊りは人と人との心を近くする。
継母の言葉を反芻すると、同時にあの日のを思い出す。俺が手を握って、悲鳴をあげた瞬間だ。あの時は、明らかに動揺していた。
先生に頼まれて、フレンの踊りを見てやることになった日のこと。練習場所には何故か先生とフレンだけでなくまでもがいた。男女が二人で踊っている様子を見てみたいのだと言うフレンに、最初はどうしたものかと思った。は、俺なんかが相手で嫌ではないだろうかと考えたのだ。
そもそも俺は、幼い頃、エーデルガルトに手ほどきと呼ぶには苛烈な特訓を受けた身であるとは言え、踊りはどうにも不得手だ。紋章の影響か、気をつけなければ相手の手を強く握りすぎてしまうきらいがあるし、相手がであるならば尚更いつも通りには踊れないかもしれない。……そう、我ながららしくないが、緊張していたのだ、がらにもなく。
それでも代わりを呼ぼうとしなかったのは、俺の一方的な独占欲のせいだろう。この機会を他の男に譲ることはしたくなかった。俺以外の男に触れてほしくなかったのだ。おかしな話だ。来る舞踏会で、彼女が他の男と踊らないはずなどないだろうに。
お互いが刻む拍の音だけが、ずっと響いていた。冬の日暮れは早く、傾いた陽が草木を染めていく。の頬や耳が赤く見えたのは、きっとその陽のせいだろう。一度ぱち、と視線が合ったとき、は困ったように俯いて、けれどその後、俺を見上げた。時間にして、数秒、本来ならば一曲の間、ずっと互いを見つめていなければならないというのに、それが限界だった。笑って、誤魔化すように目を伏せたのは俺の方だった。西日が眩しかった、そういうことにしておきたかった。
けれどあの数秒が、俺は、何よりも尊いもののように感じたのだ。あの時、舞踊を通じて俺達の心は確かに隣り合っていた。それ以上を望むなど、傲慢だ。
洗いざらしの、触れるのさえ億劫になる真っ白い布が一枚あるとして、俺にとって、それがだ。
頭から血を被った俺が触れてはいいものではなかった、少なくとも、今も、これから先も、ずっと。
舞踏会でもお前と踊れたら、なんて、そんなの、俺が願っていいことではないな。
そう思ったのは俺自身なのだから、クロードと踊るを見たとき、喉が引き攣ったような痛みを覚えたなんて、言えるはずがない。
まだ舞踏会は続くようだったが、大広間を抜け出すことを決めたのは、休みなく踊り続けていたことによる疲れのせいだ。
幸いにも、踊り終えたのを見計らって俺に声をかけてくる生徒が、丁度途切れた。ここで抜け出さなければ、次に外に空気を吸いに行くのが舞踏会終了後になってしまうとも限らない。前もって「踊ってほしい」と言ってくれた女子生徒ら、全員と踊りきったかと問われると自信はないが、それでももう、充分だろうと思った。充分、やることはやった。そこに、ある種の狼狽めいた感情がなかったとは、嘘でも言えない。
目だけでを探してしまう自分が、愚かしかったのだ。
もしもまだクロードと一緒にいるところを見てしまったら、きっと俺はクロードを嫉む。それは、俺には不要な感情だ。突き詰めて考えるならば、誰かを好きになること自体、俺には必要なかった。民を殺してしまったことに絶望し、葛藤する一人の少女を、それでもひたむきに進もうとする彼女を、俺の体調を気遣い、温室に連れて行ってくれた彼女を、あのときの匂いを、感触を、光を、愛することなどしてはいけなかった。五年後にまた会おうなんていう約束だって。
俺はこの命を復讐のために使うと決めたのだから。
「あれ? 殿下、どこ行くんです?」
大広間を出る直前、シルヴァンに声をかけられた。さっき見かけたときとは、違う女性を連れている。楽しんでいるようで良かった。それくらい、言えたら良かった。
空気を吸いに行くのだと短く伝えた俺に、「随分顔色が悪いですね、一人で平気ですか?」と眉を寄せる。変なところで気を遣う男だ。「大丈夫だ、心配をかけてすまないな」笑いながら言えば、シルヴァンは「なら良いんですが」と言うだけだった。必要以上に踏み込まず、放っておいてくれることが、有り難かった。
シルヴァンと別れ、踵を返すその瞬間、外に出ていたらしいエーデルガルトが視界の端を歩いて行った。すれ違い様、目が合った気がしたが、互いに口を開くことはしなかった。
九つの頃、あの白い手は俺の腕を引いていた。色素のほとんどない彼女の髪が、花の香りだけを残していく。その髪は、俺の記憶に残る彼女のものと、明らかに違う色をしている。