イングリットちゃんもお化粧をするって言ってたから(努力はする、っていう言い方だったけれど)、舞踏会の前に、私も唇に色をつけるだけはしておいた。家から持って来たお化粧道具はガルグ=マクで使う機会なんかほとんどなくて、塗った後で、やっぱり落とそうか、どうしようか、少しだけ考えてしまう。お化粧をしている自分に、途轍もない違和感を覚えてしまったのだ。
普段全然お化粧なんかしないのに、今日だけするなんて、変かなあ。
だけどイングリットちゃんもするらしいし、他の子だってそうかもしれない。いざいつものまま行ってみて、女の子が皆、普段よりずっときらきらしてたら、一人気後れしてしまうに違いない。
こんな風に迷うなら、今朝メルセデスちゃんとアネットちゃんに「一緒に準備しよう」と声をかけられたとき、無理をしてでもついていくべきだった。イングリットちゃんにお化粧をするのに朝から部屋に行く、っていう話だったのだけど、私は迷って、迷って、迷って、「ありがとう、でも、ごめんね」とものすごい渋面で首を振ったのだった。
断ってしまったのは、今日の昼までに提出をしなければならない課題がまだ終わっていなかったから。だから後悔するのなら、今朝誘いを断ったことではなくて、もっと早くから課題を片付けておかなかったことについてすべきだった。舞踏会のことで頭がぱんぱんで、うっかり提出を忘れていたなんて、本当に馬鹿げている。
もし皆とお化粧ができてたら、和気藹々と支度ができたのに。そうしたら、唇の色一つでこんな風に迷ったりしなかった。
誰かに意見を求めたかったけれど、隣のイングリットちゃんの部屋はもう随分前から静まりかえっている。そりゃあ、朝から夕方までお化粧なんかしないよね。皆はきっと、一足先に大広間に向かっているに違いない。そう考えながら、そっと唇を指先で触れる。
「うーん…………」
派手な色じゃないし、大広間の灯りの下であればきっと目立たないはず。落とすことは、いつだってできるし。そう結論づけて、唇はそのままにすることにした。それでもやっぱり、落ち着かなかった。
部屋を出る前、制服の裾やら袖やらに乱れがないかを確認した。髪はいつも通り梳いたし、幸運なことに肌の調子も悪くはない。ちょっとお腹が痛いけれど、それは緊張しいの私には良くあることだ。要するに今日の私は可も無く不可も無く、実に平生通りだった。
そろそろ集合時間になる。生徒の笑い声が部屋の外から聞こえて、思わず背筋を伸ばした。行かなくちゃ。舞踏会が始まってしまう。
部屋の扉を開けるとき、じっと息を潜ませ、耳をそばだてる。扉の奥に人の気配があるかどうかを、慎重に探っている。舞踏会を直前に控えた寮は、普段よりも人の気配が読み取りにくい。
廊下に出たとき、丁度殿下が歩いてきたりしないだろうか。できれば一人で。
私は未練がましく、そんなことを考えてしまうのだ。勇気を出せなかったのは、自分なのに。
それで、舞踏会会場の大広間までご一緒できたりしないかな。もしそれが叶うんだったら、私、今度こそ殿下に踊ってもらえないか聞きます、嘘じゃないです、絶対です――。
祈るように扉を開けた。知らないうちにぎゅうっと閉じていた目をそろりと開ける。だけど、奇跡なんか起きるわけがない。そこには誰の姿もなかった。窓から差し込む飴色の光が、空気中の微細な塵を輝かせていた。遠くで人の笑い声がした。どこかの部屋の扉が開く音がして、思わず顔を上げれば、部屋から出てきた黒鷲の学級のフェルディナントくんと目が合いそうになって、慌てて外へと続く階段を駆け下りた。
ああ、もう、本当によくないな。
頬を切る風は、もうすっかり冬めいて、痛いくらいだった。
見慣れたはずの大広間は、随分と煌びやかな様相を呈していた。
普段は夜であっても半分ほど落とされている灯りは今夜は全て灯されていて、天井の照明器具から零れ落ちる光はいっそ眩しいくらいだ。長椅子は全て取り払われ、壁に沿う形で円卓が等間隔に配置されている。庭のものを剪定したのだろう。それぞれの卓上には大輪の赤い薔薇が生けられて、目を奪われるほどに華々しい。
私が大広間に入ったときは、既にもう多くの生徒たちが揃っていた。
既に楽団の準備が完了しているためだろう。波のようなさざめきが、これから開かれる舞踏会への高揚を教えてくれる。
何となく居心地が悪くて、壁際を選んで立つ人たちの中から見知った顔を探そうとしたけれど、シルヴァンくんは既に女の子たちに囲まれていたし、イングリットちゃんは見つからなかった。ドロテアさんは私の知らない男子生徒と二人、薄く笑みを浮かべながらお話をしていて、アッシュくんは他の学級の男子と話し込んでいる。フレンちゃんは、端の方で何かセテス様に言い含められているようだ。メルセデスちゃんとアネットちゃんは、どこにいるんだろう。探したくても人が多すぎて、全然見つかりそうもない。勿論、殿下も。
これまで何節かをガルグ=マクで過ごしてきたとは言え、こんな風に生徒全員が屋内に集まることはなかったから、何だか気後れしてしまった。私はここにいる人たちのほとんどと話したこともない上に、顔と名前が一致している人の方が少ないのだ。
飲み物は既に準備されていて、談笑する彼らの手元には杯があった。私が手ぶらであることをみとめた給仕の女性に、「どうぞ」と手渡され、慌ててお礼を言い、受け取る。甘い林檎の香りがするそれを手にすると、動き回るのも億劫になってしまった。もしうっかり誰かにぶつかりでもしたら、零してしまいそうで。
この会場のどこかに、皆はいるだろう。殿下だってそう。でも、多分、っていうか、絶対、一人じゃないんだろうな。殿下はもう、きちんと殿下をお誘いした女の子と一緒にいる。それで、和やかに談笑しているのだ。ここにいる大半の人みたいに。その場面はやっぱり積極的には見たいものじゃなかったから、こんな風に人がいっぱいで、身動きも取りにくなって、却って良かったのかもしれない。そういう風に思う方が、きっと楽だった。
比較的人の密度の薄い、隅の壁に背を預け、細く息を吐く。それでも未練がましく視線を彷徨わせる私は、視界の端に、見慣れた人の姿を見つけた。
その人は、他の皆と違って、一人だった。飲み物すらも持たず、険しい顔で、私同様、壁に背を預けていた。距離にして、腕を広げた人が一人分、といったところだろうか。私たちの間には誰もおらず、私はうっかりその横顔を凝視してしまう。声をかけるべきか、どうしようか、迷う。だって私は、この人と二人きりで話したことが、多分ない。同じ学級であるにもかかわらず。
もしこの時、誰か見知らぬ人が私と彼と間にある空間に立ってくれたら、私はそのまま見て見ぬ振りをして視線を逸らしただろう。だけど、そんなことは起きなかった。誰しもが誰かとの会話に夢中だったし、これから始まる舞踏会を、今か今かと心待ちにしていた。私の視線は何者にも遮られることがないまま、彼の意識の淵をなぞる。その榛色の目が私を捉えたとき、私は思わず背筋を伸ばした。瞬間、壁の細工に後頭部をぶつけたけれど、痛みを顔に出すこともできない。
「こ、こんばんは」
フェリクスくん。
そう続けようとしたときだった。弦楽器の滑らかな音が会場に響き渡ったのは。
フェリクスくんは私に何か言葉をかけることもなく、その目線を、大広間の中央に向けた。つられて私も、視線を移す。奏でられる音楽は、舞踏会の始まる合図だ。視界に収まっていた数組の男女が目配せをし、中央へと歩み出る。そうすると、視界は一斉に開けた。空気が動いたのが、肌で分かった。
ゆったりとした三拍子の、舞踏会で度々耳にする、有名な音楽だ。手を取り、身体を寄せ、互いに見つめ合う男女は、総じて優美だった。音楽が始まっても、談笑を続けている人、躊躇いがちに相手を誘い、その手を取る人、色んな人がいる。あんまり目立たないけど、私たちみたいに、ひっそりと佇んでいる人も、探せばきっと他にいるんだろう。フェリクスくんは、きっと踊るつもりはない。くだらない、って思ってるんだろうな、今も。そう考えながら、人の頭のその先で、踊る男女をじっと見ていた。さっきの男子生徒と踊っているドロテアさんの姿が見えて、その美しさに、思わずため息が漏れた。
全体を見渡せるようなところでなかったのが、救いだったのか、そうではなかったのか、私には分からない。だけど、大広間にいる以上、いずれは女の子と踊る殿下の姿を見ることにはなったはずだ。ならばもう、良いも悪いもない。
杯に口をつけたとき、視界の端、大広間の中央に、青い外套が見えた。
目を逸らすこともできず、私はそれを見ている。
殿下、踊ってる。
誰にも言う相手がいないから、心の中だけで独りごちる。なるべく、淡々と。殿下はたくさんの女の子から誘われていた。分かっていたことなのだから、傷つくのだって馬鹿馬鹿しい。でも、殿下が踊りながら、皆がそうしているみたいに薄く微笑んでいたのが、私はちょっとだけ、苦しいな、と思った。頑張って勇気を出していたら、今、殿下の視界の真ん中にいられたのは、もしかしたら自分だったのかな、って。
後悔したって、仕方ないのにな。
大きなため息が聞こえて、そちらに視線を向ける。フェリクスくんはけれど、丁度私から目を逸らしたばかりだったみたいだ。彼は、何も言わなかった。ずっと壁に背を預け、腕を組んだまま、つまらなそうに目を細めていた。そんな風にできる彼が、私はただ、羨ましかった。
わ、と歓声が聞こえる。どうやらクロードくんが、なぜかベレト先生の手を取ったらしい。先導するクロードくんに、ベレト先生はきちんと答える。あちこちからあがる笑い声に、会場の空気は益々穏やかになっていくのに、私たちはそれぞれ一人ぼっちでいるみたいに、じっと息を潜めて佇んでいる。