結局殿下をお誘いすることができないまま、舞踏会の前日を迎えてしまった。
本当に、どうしてこう肝心なときに弱気になってしまうんだろう。同じ教室で勉強をしている以上、殿下に声をかけることはいつだってできたはずだった。訓練場でだって何度か一緒になったはずなのに。気がつけば、私は崖っぷちに立たされていた。
ずるずると先延ばしにしてしまうのは、最悪殿下には当日声をかけることもできるだろうし、っていう甘えと逃げが残っていたせいだろう。でも、やっぱりだめだ。舞踏会当日の、女の子の輪の中にいる殿下を想像したとき、私はそこに近づけない。その場合、殿下と踊ることができるのか、答えは否だ。だけどもしも前もって約束をしていて、殿下がそれを覚えていたら、殿下は例え女の子に囲まれていても、私の視線に気がついてくれるかもしれないじゃない。
後悔しないためにも、きちんと予め、お誘いしておかないといけない。皆の前では無理だから、「少しいいですか」って声をかけて。時機を見計らうのだ。そう、今日は舞踏会前日、もう後がないんだから!
だけど、日の暮れた教室で「気が重い」と殿下が言ったとき、私はもう、すっかり息が止まってしまった。喉がひゅ、って音をたてた。まるで他人事のように「他の学級も、皆凄まじい気合の入りようだな」と漏らした殿下に、ドゥドゥーくんが、舞踏会が全員参加であることを確かめた直後のことだった。殿下は「……そうだったな」と言ったのだ。そして、気が重いと。
「……気が……重い……」
思わず殿下を視界の真ん中に入れて、同じ言葉を繰り返す。
それは幸運にも、フェリクスくんの「こんなところでお前と意見が合うとはな」という言葉にかき消されて、誰にも聞かれることはなかった。だけど、私の中にははっきりとした重石をつけて沈んでいく。気が重い。舞踏会は、殿下にとって、そういう対象であるのだと、自分の芯に、杭のように刺さっていく。深々と。
「舞踏会で女と踊るよりも、訓練場で剣を振っていたほうがずっと良い」
よせばいいのに、怖い物見たさでつい殿下の表情を窺ってしまう。殿下はフェリクスくんの発言に、頷いていた。そう、首肯したのだ。そんな二人を信じられないものでも見るかのように見つめ、「冗談でしょう」と言ったのはシルヴァンくんだった。私の気持ちが表に漏れてしまったのかと思った。それくらい、彼の声と私の心境はぴったりと揃っていた。
「学校中の女の子と踊り放題なんですよ? そんな最高の日に野郎同士で剣の稽古なんて……正気の沙汰とは思えませんね!」
勿論、そこまでは思っていないけれど。
でも、動揺していたのは事実だ。気が重いという殿下の低い声が、いつまでも耳の中で反響していた。もしもシルヴァンくんの十分の一でも殿下が舞踏会を楽しみにしているのであれば、それは間違いなく私の背を押す原動力になったはずだった。けれど実際はそうじゃない。
教室を出るとき、頑張って殿下を呼び止めよう、そう思っていたのに、その覚悟はみるみる小さくなってしまう。何なら、小さくなるどころか、もうどこを探してもない。誘ったら、迷惑なんだ。だって、ただでさえ「気が重い」んだから。自分が殿下の気を益々重くさせる原因になりかねないなら、私の「踊りたい」なんか捨ててしまうべきだ。お誘いをするのを、今日までずっと躊躇っていて良かった。殿下の思いを知らぬまま、その厚意を受けてしまうとも限らなかったなんて、考えただけで倒れそうになる。
それでもずうん、と頭が重たくなってしまって、思わずそのまま俯いてしまう。「さん、どうなさいましたの?」と心配そうに声をかけてくれるフレンちゃんに、「なんでもない……」とぼそぼそと答える以外、できそうもなかった。
そんな私の背後では、アッシュくんが舞踏会を楽しみだと話している。仲間を見つけたとばかりにそんな彼の肩を組み、「良く言ったアッシュ! 俺が明日までに女の子の口説き方を仕込んでやる!」と浮かれた声をあげるのはシルヴァンくんだ。「そんなことよりも僕は踊り方を教えてほしいんですけど……」と漏らすアッシュくんに「踊りならあたしに任せて!」と手を挙げたのはアネットちゃんで、メルセデスちゃんはその様子を微笑ましそうに見つめ「折角の舞踏会ですもの〜。お化粧くらいはしなきゃよね?」とイングリットちゃんを覗きこむ。困ったように眉を八の字にするイングリットちゃんは、観念したように「そう……ですね、努力はしましょう」と目線を彷徨わせ、先生は皆を見守るように、その双眸をそうと分からないくらい微かに細めている――。
それは、何だか眩しいくらい、穏やかな光景だった。
そりゃあ、私自身は落ち込んでいる。殿下と踊る夢を一人で膨らませて、たった今それが粉々になってしまったばかりなんだから。だけど、その痛みはあっという間に薄れてしまった。教室で皆が楽しそうに笑っている、それだけで胸がいっぱいになる、あたたかくなる。ルミール村でのことがあったせい、なのかもしれない。こんな時に舞踏会なんて、と眉を顰める人も、確かにいた。だけど、やっぱりこんなときだからこそ、あってよかったのだ。皆が笑っていると、教室中、光の粒が舞っているみたいだった。春みたいだった。私たちは、春のただなかにいた。
殿下もきっと、同じように感じていたのだろう。
「……いつかまた、全員で、こうして集まれたらいいんだがな」
叶わない願望でも口にするような、どこか遠い声だった。
星辰の節も、もう明日の舞踏会が終われば、残り数日しかなかった。あとは守護の節、天馬の節、そして一年の終わりである孤月の節を残すのみだ。私たちはもう、あと三節ほどしか士官学校に居られない。
学校を卒業したら、私たちはそれぞれ自領に帰ることになる。広いファーガスに、てんでばらばらに暮らすことになるのだ。少なくとも、皆ともうこんな風に顔を合わせることはないだろう。
まだ先のことだと思っていたけれど、急に実感が湧いてしまった。そうしたら、がんと殴られたようになったのだ。皆と離ればなれになってしまう、って。イングリットちゃんとも、アネットちゃんやメルセデスちゃん、フレンちゃんとも。当たり前だけど、殿下とだって。
そんな私の衝撃を和らげるように口を開いたのは、ドゥドゥーくんだった。
「五年後はいかがです」
私たちがまた集まるときのことを、彼は言っているのだ。
五年後。それはガルグ=マクが落成して千年になる年だ。「五年後だと、殿下を陛下とお呼びしなくてはならないでしょうね」イングリットちゃんの言葉に、思わず目を瞬かせてしまう。そうか、五年。五年って、それくらいの変化があって、当たり前なのだ。殿下はきっと、国を背負う立場になる。皆だって。
「立場が変わろうと、俺は俺のままだ」一度目を伏せ、そう呟いた殿下が、静かになった教室を見回す。
「その頃には、皆それぞれ窮屈な身の上になっていると思う」
例えば領地を継ぐ者も、中にはいるだろう。私だって、もしかしたらその一人になっているかもしれない。お父様、お母様ときちんと話をしたことはないけれど、ガルグ=マクに通わせてもらうことになったのは、未来を見据えてのことだったと思うから。
そんなことをぼんやりと考えていたとき、殿下の目が私を見据えたから、びっくりした。驚いて声が出そうだった。時間にして、ほんの数秒。その数秒に、どんな意味が込められていたのかを、けれど私は想像もできない。
「けれど千年祭はこれまでにない規模の祝祭になると聞いている。……ここを訪れるには、丁度良い口実になるかもな」
「それって、同窓会ってやつですよね!」
楽しそう、大賛成です、と喜ぶアネットちゃんに、皆も続く。フェリクスくんですら、文句を言うことはなかった。その時は先生にも来てほしい。そう言われたベレト先生が、小さく、けれどはっきりと頷く。
五年後。五年後。五年。
じわじわと、自分の内側に浸食させるみたいに考える。春になれば毎日のようには、皆と会えなくなってしまう、だけどそんなの当たり前だ。私たちにはそれぞれやらなければならないことがあって、背負っているものがあって、ガルグ=マクに居るのだって、結局はそのためなのだから。私たちは私たちの守るべきもののために、元いた場所に帰らなくてはならない。皆と別れて、思い出を抱えて、それぞれの場所で生きなければならない。
だけどその時、五年後に皆とまた会えるっていう約束があるなら、それはどれだけ私の背骨を強固なものにしてくれるだろう。
「ふふ、皆さんとまたお会いできるなんて、とっても素敵なお話ですわね。……五年なんて、あっという間ですわ。ね、さん」
隣で微笑むフレンちゃんに、小さく頷いた。
五年後、自分がどうなっているかなんて、全然見当がつかない。だけど、せめて皆に胸を張って再会することができるくらいの自分でありたいと、そう思った。
そのとき「万一俺がここに来られないときは、先生にまとめ役を頼みたい」と殿下が口にした、その声だけが耳に届いたけれど、私は振り向かなかった。先生が「断るよ。……必ず来るように」と答えていたし、「王様の仕事が大変すぎるのは分かるけど、諦めるのが早すぎるんじゃないかしら〜?」ってメルセデスちゃんも言っていたから。殿下が困ったような声で笑って、「そうだな。すまない」と謝ったのが、いつまでも耳に残っていた。「万一俺がここに来られないときは」。引っかかるみたいに、いつまでも、それは消えなかった。