白鷺杯と舞踏会の丁度中間あたりに、殿下のお誕生日があった。
 個人的にお祝いなんて勿論できるはずもなくて、皆で作った焼菓子を女子一同という形で贈った。おめでとうございます、っていう、短いお手紙も添えて。勿論、これも女の子たちで一言ずつ書いたものだった。
 殿下は「美味そうだな。ありがとう」と微笑んでくれた。比較的好き嫌いのないように見受けられる殿下だったけれど、喜んでもらえたことが嬉しかった。
 そうして笑う殿下はやっぱり、春に出会ったときの、私の良く知る殿下だった。








「こっそり個別に手紙を渡しても良かったのではないですか?」



 教室から寮までの道中、イングリットちゃんがそう口にする。
 星辰の節に入って、陽が落ちるのも随分早くなった。ラルミナはガルグ=マクより西にあるから、例年よりもずっと日暮れが早く感じる。薄闇の中、階段を踏み外さないように足元に視線を落としながら、「私だけそんなことしたら、変だよ」って、なるべく何てこと無い風に言った。本当はそうしたかった、なんてことが、表に出ないように、慎重に。でも、イングリットちゃんはそういうのを全て見透かしているみたいだった。そういう機微には疎いと言っている割に、私のことになると、イングリットちゃんは妙に慧眼だ。



「殿下も鈍い方ですから、それくらいしても良いのでは……」

「だ、だから、良いんだよ、別に。殿下とどうこうなりたいわけじゃないんだって」

「でも、折角なのですから。舞踏会だって、やはりお誘いしても良いと思います」

「もう殿下とは踊れたもん。舞踏会まで望んだら、罰が当たっちゃうよ」

のそういう慎ましいところは美徳だと思いますが、もう少し欲深くなっても良いのではないでしょうか」



 イングリットちゃんの言う「欲深く」って、要するに舞踏会で踊るくらいのことは望んでも良い、ってことだろう。そりゃあ、本音を言うんだったら私だってもう一回、殿下と踊りたい。それが舞踏会っていう場所だったらどんなに良いだろう、って思う。でも、やっぱりお誘いする勇気が無いのだ。色々脳内で「もう充分だ」だの「他の子も踊りたいだろうし」だのと言い訳を並べ立てているけれど、結局突き詰めて考えると、問題はそこにあるのだった。
 ううん、と唸ってしまう。考え込むように目線を彷徨わせていたら、イングリットちゃんはちょっとだけ目を見開いて、「」と私を呼んだ。そこには、気遣いと細やかな焦りの色があった。



「私の考えで、嫌な気持ちにさせてしまっていたら申し訳ないです。何分、私も色恋には疎いので……」



 見当違いなことばかり言ってしまっているかもしれません、そう眉尻を下げたから、私も慌てて首を振った。イングリットちゃんから客観的な意見を言ってもらえるのは、とても有り難いし、嬉しいのだ。一人で抱えていたら、私はきっともう自分が押し込めた感情に向き合うことすらしないから。そう言おうとしたときだった。イングリットちゃんが、「ですが」と切り出したのは。



には後悔をしてほしくないのです」



 その顔に落ちる陰影は、普段よりも濃い。



「何かをして後悔するよりも、何もせずに後悔する方が、きっと辛いですから」



 イングリットちゃんの声は、とても静かだった。それは私たちの立つ石畳の上に、雪みたいに落ちていった。その横顔を見たら、イングリットちゃんは、何かを思い出すような目で空を見上げている。標高が高いせいか、ここは私の暮らしていたラルミナよりも、星が近い。
 イングリットちゃんは今、グレンさんを思い出しているのかもしれなかった。もうこの世にはいない、イングリットちゃんの婚約者。そうだった人。それ以上言葉を続けようとしないイングリットちゃんは、きっともう、これまでに自分の感情に整理をつけているのだろう。私と出会うよりも前、ガルグ=マクに来るよりもっと前、ダスカーの悲劇が起きてからの四年の間に。私よりも背の低い、まだ幼い面立ちをしたイングリットちゃんを想像する。その彼女が、「後悔をしてほしくない」と私に言う。そうしたとき、イングリットちゃんが今私に向けてくれた言葉は、益々重みを持った。何もしないことを選んで、果たしてそれは将来、良い思い出になるんだろうか。
 殿下とどうこうなりたいわけじゃない。殿下には好きな人がきっと居て、それは当たり前のように私ではなくて、そうでなくたって殿下はいずれ国を継ぐ方なのだから身分違いも良いところで、ならば私はじっと息を潜めているべきだ。そういう言い訳をして過ごす数節に将来後悔をすることはないなんて、私には言い切れなかった。
 ぎゅう、と目を閉じて、それからじっと息を止める。だめだったらだめだったで、仕方ない。そうしたら、その時に泣けば良い。そういう風に思えた、少なくとも、今この瞬間は。



「……やっぱり、がんばって、みようかな……」



 お誘い、しようかな、って。ぽつりと言った言葉に、イングリットちゃんは私を見て、それから花が開いたように笑った。「ええ、ええ。それがいいですよ。応援します」って。つい最近もイングリットちゃんとこんな話をしたばかりなのに、私って、うじうじしてばかりで、みっともないな。「ごめんね」って言ったら、イングリットちゃんは全く意味が分からないと言わんばかりに「どうして謝る必要があるんですか」って言ってくれた。イングリットちゃんみたいな女の子とお友達になれたことが、今の私には、泣けるくらいに嬉しかった。








 頑張ってみると宣言したところで勇気が出るくらいだったら、私はとっくに殿下に声をかけることができている。
 殿下は毎日のように舞踏会当日のお誘いを受けているって言うのに。きっともう、殿下の予約はパンパンだ。私の入る余地なんて、これっぽっちも残されていないに違いない。勝手にそんなことを考えて追い詰められたような気持ちになるのは、随分馬鹿馬鹿しいことだった。絶望的な気持ちになるのを頭を振って追い払って、私は祈るような気持ちで殿下の後ろ頭を見つめている。太い首に、広い肩幅に、いちいち目をちかちかさせながら。
 舞踏会当日が近づいた今、クロードくんの言っていたように、皆どうにも浮つきはじめている。イングリットちゃんも、何人かからお誘いをいただいているらしい。そういう話を聞くと、私だけがぽつんと取り残されているような気になる。



「難しく考えずとも……。もどなたかにお誘いはされているでしょう? その要領で殿下を誘えばいいのですよ」



 自分が受けた誘い文句を定型文として使わせてもらえ、ということであれば、首を捻らざるを得ない。だって私は「当日暇を持て余すようなら踊ってやる」と言われただけなのだ。そう、クロードくんに。それ以外は、特にない。自分の異性からの人気のなさがここで効いてくるとは思わなかった。
 恥も外聞も全てかなぐり捨ててしまえるなら、私はとっくに殿下に踊ってほしいと伝えている。それどころか、女神の塔にだってお誘いするだろう(星辰の節の最後の夜に男女二人で行き、願い事をすれば叶う、なんていう伝説が、女神の塔にはあるのだ。信憑性のほどは定かではないけれど、例えそれが噂話に過ぎなくても、憧れてしまうのが女の子ってやつだと思う。)
 だけど、やっぱり私は殿下を前にすると、何も言えなかった。一度だけ、殿下が私を呼び止めてくれたとき、殿下が「そういえば、お前が育てていた花は咲いたか?」って、尋ねてくれたあのとき、もう少しかかるみたいです、って答えた直後、良かったら舞踏会で、って、誘えたら良かった。でも、脈絡がなさすぎるな、っていうので、足が引っかかったみたいに、言葉に詰まった。そのとき私たちの間に奇妙な間が落ちてしまったことを思えば、いっそ脈絡がなかろうが強引だろうが、踊ってくださいって言えば良かったのだ。私って、やっぱり意気地なしだ。


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