望むものなんて、もう他に何もないって思えるくらい、最近の私はふわふわしていた。あの日のことを思い出す度、簡単に頬が緩んだ。
フレンちゃんの舞踊の指導という名目で、殿下と踊ったこと。士官学校を卒業して、私が領地を継いでも、結婚しても、しわしわのおばあちゃんになっても、きっと忘れない。
芝生の上だったし、音楽の一つも無かった。西日は眩しく、衣装は制服。乾燥した冬の空気に髪は乱れ、唇も肌も乾いていた。殿下に間近で見られるにはあんまりにもな風貌だったに違いない。だけど、それでも私にとって夢のようだった。フレンちゃんにも先生にも、後でたくさんお礼を言ってしまったくらいだ(先生は良く分かっていなかったようだったけれど、フレンちゃんには「ふふ、お二人はそういうご関係でしたのね。わたくし、ちっとも知りませんでしたわ」と勘違いされ、勢いのままに「ち、ちがうの、私の片思いなの」と余計なことを言ってしまった。フレンちゃんは「あら、あらあら、まあ。そうだったのですね、うふふ」とにこにこするだけで、何だか恥ずかしくなってしまったのだった。)
見違えるほど踊れるようになったフレンちゃんが臨んだ白鷺杯は先日、無事に終わった。
残念ながら、フレンちゃんは優勝とはならなかったのだけど、それでも凄く楽しかったみたいだ。
「とっても良い思い出になりましたわ。先生、皆さん、わたくしのわがままに付き合ってくださって、ありがとうございました」
教室でぺこりと頭を下げたフレンちゃんに、拍手を送らない人なんていない。
だって、フレンちゃんは白鷺杯で、とっても上手に踊れていたから。苦手だったところもどうにかこなして、殿下に言われたように、胸も張って、顔もきちんと上げていた。とっても可憐な踊りだった。それでも優勝を逃したのは、ひとえに他の学級の代表者であった二人の格が、全く別物だったためだ。
金鹿の学級はグロスタール家の嫡子であるローレンツくんで、流石場数を踏んでいるだけあって彼の踊りは洗練されていた。彼と優勝を競ったのは黒鷲の学級のドロテアさんだ。舞台で歌っていた彼女の堂々っぷりといったら! まるでそこにだけ光が差し込んでいるかのような美しさだった。観衆の中には、涙ぐむ女生徒すらいたくらいだったのだから。
結局白鷺杯はドロテアさんの優勝に終わった。ローレンツくんは悔しそうにしていたけれど、彼女の優勝に異議を唱える人なんて、誰もいなかった。「おめでとうございます」って伝えたら、ドロテアさんは、踊っているときとは別人みたいに、少女然とした笑顔を浮かべた。
「俺はてっきり、が白鷺杯に出るんだと思ってたよ」
クロードくんにそう言われたのは、白鷺杯が終わって数日が経った食堂だった。
その日はイングリットちゃんが先生に呼ばれていて、私は一人、食堂の隅っこで食事を摂っていたのだけれど、その隣の椅子をクロードくんは引いた。「ここ、良いか?」って。丁度口に小さく切ったお芋を入れたところだったから、私は咀嚼しながら、こくこくと頷いたのだ。それで言われたのが、白鷺杯がどうとかいう台詞だった。
口に入ったものを飲み込んでから、「まさか」と答える。
「どうして私? フレンちゃんが立候補してなくても、代表は私じゃなかったと思うよ」
「だが、貴族は踊れるもんなんだろう? まあ、俺は苦手ではあるが……」
「踊れないわけじゃないけど、そんな大層なものじゃないし……」
「へえ、残念だったな。俺はが踊っているところが是非とも見たかったんだが」
「もう、そういうこと言うの、よくないよ」
眉根を寄せれば、クロードくんは声をあげて笑う。「冗談じゃないんだけどな」って。こういうところがイングリットちゃんに「真に受けるな」って言われてしまうんだ、って、私もようやく分かって来た。
クロードくんは人とおしゃべりするのが好きだから、良くこうして話しかけてくれる。どうだっていいことも、案外真面目な話も、すれ違う一瞬であっても。どんな話題であってもあんまり暗い方には持って行かないから、そういうところは、一緒にいてすごく安心する。私自身が悪い方悪い方に物事を考えがちなせいなんだろう。まあなんとかなるさ、って笑ってくれるクロードくんのことが、私は好きだった。本当になんとかなるんじゃないかって思えるから。
「で、舞踏会はどうなんだ?」
「どうって? 出るよ。楽しみ」
「そうじゃなくて。……ディミトリのことは誘ったのか?」
「ディッ!?」
まさかクロードくんから殿下の名前が出てくるとは思わず、すっかり咽せてしまった。
びっくりした。そりゃあ、確かにクロードくんだ、鷲獅子戦で弱いところも見せてしまった以上、私の殿下への気持ちに気付いていても不思議ではない。それに、殿下とエーデルガルトさんが話しているところを横切れずに隠れていたのだって、彼には見られていたのだし。
だけど、こんなに真っ直ぐに水を向けられてしまうと、私だってびっくりする。げほげほと咽せる私に、「おいおい大丈夫かよ」って水を差しだしてくれるから、有り難く受け取った。クロードくんの手の中にあると小さく見えた杯は、私が持つと、全く一般的な大きさになってしまう。
「びっくりした……な、なんでそんな話になるの?」
「いやあ、周りが色めき立ってるもんだからさ、はどうするんだろうと思ってだな」
「ど、どうもしないよ、お誘いなんて、そんな」
クロードくんは、私が殿下をどう思っているかについては、きちんと確認しようとしなかった。もしかしたらそれは彼の中で既に確信していることなのかもしれないけれど、それでも面と向かって殿下が好きなのだと異性の友人に言うのは気が引けたから、却って良かったと思ってしまう。
けれど、クロードくんの言う通り、白鷺杯が終わってから士官学校の生徒たちの間で空気が変わり始めているのは事実だ。他の学級の女の子から、殿下が呼び出されているのも何回か見た。その度に私はどうしようもなく不安になって、お腹が痛くて、うう、と思ってしまうのに、では自分も彼女らと同じように行動に移せるかというと、できないのだ。それくらいの勇気が持てない時点で、私はもう、彼女たちを羨んだり、嫉妬めいた感情を覚える資格はない。
一方で、私はもう夢を見させてもらったので大丈夫、と自分を慰めるのは、想像以上に効果があった。あの夕暮れを思い出す。からからの空気に、殿下の長い睫毛。籠手の嵌められた手が、想像以上に優しく私の手を取ってくれたこと。現実逃避ではなくて、本当に私は満たされていたのだ。勿論、欲を言えば舞踏会でも、とは思うのだけど、そんなの望みすぎだ。私と同じように、殿下を影から見守っている女の子が、その分夢を叶えられたら良い……と思う。本当に。うう、とは思うけど、それだって嘘じゃない。
玉石混淆。今の私は、そんな感じだった。
ふ、とクロードくんが笑ったのが、音だけで分かった。まだ半分くらい杯に残っている水の表面から、そっと目を上げると、クロードくんが机に肘をついて私を見つめている。
「まあ、もしが舞踏会で誰とも踊れないまま暇を持て余すようだったら、俺が相手をするよ」
「そ、そんな呪いみたいなこと言わないで」
「いやいや、最悪ずっと壁の花ってのは回避できるだろ?」
「う、うーん……確かに……? それはありがとう……」
「はは、どういたしまして」
クロードくんが目を伏せて笑うのを、私はじっと見ていた。
彼がこうして時折見せてくれる優しさを、そのまままるっと受け止めて良いのかどうか、私には良く分からなかった。