、少し良いだろうか」



 授業後、ベレト先生に手招きされたとき、私は自分が何かをやらかしてしまったのではないかと思った。
 先生の背の後ろにある窓の外は星辰の節らしく空が白んでいた。最近は、教室にいても肌寒さを感じる。ガルグ=マクよりも北に位置するガラテアで暮らしていたイングリットちゃんなんかはまだけろっとしているけれど、大修道院も本格的な冬に近づこうとしていた。



「な、何か……」



 先生に呼び出されるって、あんまりない。
 課題はちゃんと提出してるし、訓練も下の下の実力なりに頑張っているつもりだ。それとも、今節の学級課題に関することだろうか。礼拝堂の調査のため、私個人に何かしてほしいことがあるんだろうか。そう考えていたのだけど、先生は温度の低いままの瞳で、その唇をそっと開いた。



「フレンに踊りの手本を見せてやってほしいんだ」



 全く想定外のことで、思わず「え」と短く声をあげてしまう。
 踊り。フレンちゃんに。一瞬で数日後に開催される白鷺杯のことが頭を過ぎる。



「お、踊りですか? フレンちゃんってことは……白鷺杯の?」

「ああ。自分はどうしても門外漢だから。貴族ならば誰でも踊れるものだと聞いた。は踊れるんだろう」

「ええ、まあ、踊れないことはない……です」



 なんでもフレンちゃんは、白鷺杯で披露することになっている舞踊を踊ったことがなかったらしい。
 確かにあの踊りは相手がいなければ踊る必要もないものだから、セテス様みたいなお父様を持つフレンちゃんにはとんと縁が無かったのだろう。踊ってみたい、と立候補したフレンちゃんは、簡単な舞踊は出来ても白鷺杯で踊らなければならないものに関しては経験がなかった。そのため誰かに手本を頼もうと思ったのだけど、私以外の他の女子生徒は今日はそれぞれ何らかの当番や作業があったらしい。それで私に白羽の矢が立ったのだ。



「急で悪いが、頼めないだろうか」



 そう言われると、私も首を横に振ることは出来ない。それに、先生には先日「いやです」って言っちゃってるし、この程度の頼みを断るのは気が引けた。



「えっと……はい。私で良ければ」



 そう頷けば、先生は「良かった」って、少しだけ、そうと分からないくらいに小さく笑った。その顔を見て、やっぱりこの前白鷺杯の出場を断ったとき、先生はちょっと悲しかったのかも、って、思考の淵に色をつけるような感覚で、ふと思った。
 その直後に殿下の名前を出されるなんて、思ってもみなかった。



「ディミトリにも頼んであるから」

「え?」

「準備ができたら来てほしい」



 先生はそう言うと、踵を返して教室の外に向かってしまう。外套を引っつかんで止めることなんか、私にはできなかった。そもそも、急に先生の口から出てきた殿下の名前に、私ははっきりと動揺していたのだった。
 殿下にも頼んでいるって、どういうこと?
 確かめようとして教室内に殿下の姿を探すけれど、そこに彼はいなかった。








 フレンちゃんと先生は、教室前の中庭で練習をしていた。何もこんな目立つところでなくてもと思ってしまうのだけど、舞踏会に向けて舞踏の確認をしている生徒は他にもちらほら見受けられたから、こっそりほっとする。
 フレンちゃんは私の姿に気がつくと、ぱっと顔を上げて微笑んだ。



さん! 今日はよろしくおねがいしますわね」

「ううん、ちゃんと教えられるか分からないけど……」



 でも、殿下にも頼んであるって、どういうことなんだろう。だって、フレンちゃんに踊りを教えるなら私一人でも充分なはずなのに。
 その答えは、目の前のフレンちゃんが教えてくれることになる。



「とんでもないですわ。わたくし、どうしても踊れないところがあって、すっごく、すーっごく困ってましたのよ。だって白鷺杯の舞踊って、元はお相手……そう、殿方がいらっしゃるものなのでしょう? だけどわたくし、殿方と踊る経験なんてこれまで一度もなかったものですから、感覚が分かりませんの。それで何度か先生にお相手をしていただいたんですが、やっぱりお手本となる方がいらっしゃらないと難しくて……」



 客観的に動きの確認が出来ない以上、行き詰まってしまうのは分かる。それで、誰か手本となる二人に踊ってもらい、自分は先生に相手をしてもらいながら一つ一つ動きを修正していくことを思いついたらしい。「名案ではございませんこと?」フレンちゃんはそう微笑みながら、顔の前でその手の平を合わせた。
 フレンちゃんの言う通り、男性と踊る感覚を養うっていうのは大切なことだと思う。相手を思いやってこその舞踊だと、私も昔先生に教わったことがあるから。
 でも、それのお手本として選ばれたのが私と殿下だなんて。私はフレンちゃんに真剣な面持ちで頷きながら、一方で混乱もしている。そっと先生の方に目線を向けて、思わず尋ねてしまった。



「そ、それで殿下と私なんですか……?」

「ディミトリだと困る?」

「いえ、そんなことはないんです! む、むしろ、うれし……」



 首を傾げるベレト先生に、食い気味に首を振った後、思わず本音まで漏れてしまいかけて慌てて口を塞いだ。
 困るけど、困らない。だって殿下と踊りたかったのは、紛れもない事実なのだ。それが舞踏会だろうが芝の上だろうが、場所は問題ではなかった。楽器隊がいなくても、雰囲気がどうであっても、殿下と踊る機会があるならばどんなに良いだろうと、ここ数日の私はずっと夢見ていたのだから。だけど、こんな風に降って湧いた幸運を手放しで喜べるほど、度胸があるわけではない。
 要するに、覚悟ができていないのだ。



「すまない。遅れてしまった」



 そこに殿下が現われたものだから、私は思わず叫んでしまいそうになる。
 殿下は、今日の練習をどういう風に聞いていたのだろうか。その瞳がフレンちゃんから先生、私へと向けられ、最後にもう一度ベレト先生へと戻った。困惑しているように見えるということは、もしかしたら殿下は私同様、フレンちゃんの舞踊の練習としか聞いていなかったのかもしれない。



「…………ええと、今日はどういう練習を?」



 フレンちゃんから私がされたのと同じ説明を受ける殿下の目が、ちょっとだけ困ったように泳いだのを見た。








「手ほどきは受けているが、舞踊はあまり得意ではないんだ。……迷惑をかけたらすまない」

「そんな、迷惑だなんて……! わ、私の方こそ、足を踏んでしまったらごめんなさい。ひ、久しぶりなので」

「……そんなことは気にするな。お前に足を踏まれたところで、どうということはない」



 そう言いながらも、殿下はお手本みたいに私の手を取った。
 びっくりして背筋が強張ってしまう。急に手の平にじとりとした汗をかいてしまったような気がして、私は一旦それを拭いたいのに、殿下の手を振り払うわけにもいかず、じっと息を殺してしまう。そうしながら、伝わってくる温度がひんやりしていることに気がついて、それからようやくほっとした。殿下は籠手をしているから、私が手に汗をかいていようと気付かれることはないのだった。
 だけど、殿下の右手が腰に回されたとき、「ひえっ」と悲鳴をあげてしまう。瞬間殿下は私からぱっと両手を放した。



「……すまない。力が強かっただろうか」

「い、いえ、ちがくて、その」



 どきどきするんです。それを表に出すのに適した表現として「緊張してしまって」と口に出せば、殿下は二秒半くらいの間を開けて、それから、その眉尻を下げ、ふ、って、笑った。
 殿下の金色の髪が、冬の光を受けて白んでいた。今まで手が触れ合っていた分、その距離はいつもよりずっと近い。目を伏せ、「そうか」と、ほとんど独りごちるように呟いた殿下の声は、掠れていた。耳元に直接囁かれたように、勘違いしてしまった。



「俺も緊張している」



 その瞬間、私はずっと自分の内側に抱えていた重苦しい箱に、花が咲いたように思った。伸びた蔓はその蓋をこじ開ける。解放する。
 眩暈がした。殿下が緊張しているなんて、優しい嘘に惑わされたせいじゃない。殿下を構成する一つ一つに、急に殴られたように思えた。泡が弾けるみたいに、目の前で小さな光が爆ぜていた。春の空みたいな色をした瞳が好きだった。それを縁取る睫毛の色素が、私のものよりもずっと薄いところだって。鼻梁の美しさも、陽に溶けるような髪も、好きだった。好きだと思う部分は、両手で抱えきれないくらいだった。そうだ、私は殿下を取り巻く全てが好きだった。
 例え殿下が何を背負っていたとしても。
 殿下、と口にしてしまいそうになる。もしも今ここが、生徒の行き交う教室前でなければ、すぐ隣に先生とフレンちゃんがいる状況じゃなければ、浮遊する感覚のまま、思わず自分の思いを伝えてしまったかもしれないくらいの衝撃が、まだ自分の内側から外側に向けて、残っている。水の中に小石を落としたときみたいに、波紋が広がっている。



「……そろそろフレンに手本を見せて貰っても良いだろうか」



 先生がそう声をかけてくれなければ、私は現実に引き戻されることのないままいたかもしれない。「ご、ごめんなさい!」と慌てて謝った。フレンちゃんは先生と私たちとを見比べていたけれど、やがて「お二人とも、よろしくおねがいしますわね」と柔らかく微笑むだけだった。
 殿下が気遣うように、さっきよりも優しく私の手に触れる。悲鳴はもう、無理矢理飲み込んだ。
 殿下が例え本意でなくても、本当は困っていたとしても、充分だった。音楽はなく、互いの口から漏れる拍を刻む音だけが響いていた。フレンちゃんに時折質問をされ、その都度細かな動きを確認する。フレンちゃんは飲み込みが早く、先生に相手を務めてもらいながら、みるみる上達していった。沈んでいく陽の中、物珍しげな視線だけが時折生徒たちから向けられたけれど、何も恥ずかしくなかった。ただ、すぐ傍で聞こえる殿下の呼吸を、背中に回された手の感触を、覚えていたかった。
 胸を張って、顔を上げて、って殿下がフレンちゃんに言うのを聞く。つられてそうしたら、殿下と目があってびっくりした。殿下は微かに目を瞠った後、小さく笑った。


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