「い、いやです」
先生は首を振る私に、「そう、残念だ」とほとんど真顔で言い切ると、そのまま踵を返して大広間の奥へと歩いて行った。その足取りは軽くも重くもなく、極めて平生通りで、私は先生が今何を考えているのかを想像するけれど、結局諦めてしまう。ベレト先生は以前よりも表情が豊かになりつつあるとは言え、その内心を表面から読み取れるほど単純な人ではない。決して。
星辰の節に入って、初めての休日だった。
まだどきどきと鼓動のする胸をそっと押さえながら、こっそり息を吐く。びっくりした。だってもう、全然そんなの、思っても無かったから。「白鷺杯の学級代表になってくれないか」なんて、とてもじゃないけれど頷けない。
白鷺杯というのは、ガルグ=マク士官学校で毎年星辰の節に行われている舞踊の対抗戦だ。各学級から一人ずつ代表者が選ばれ、舞踊の技と美しさを競うもので、審査員(聞いたところによると、騎士団から選ばれるらしい)と生徒、先生、それからレア様達の前で踊らなければならない。「最低限まともに踊ることはできる」くらいの人間が出るものではないはずだ。多分。
別に、踊りができないわけじゃない。一応は私も貴族だし、舞踊に関しては作法くらいは身につけているつもりだ。でも、白鷺杯となると話が違う。学級を背負って踊るなんていう度胸も技量も、私にはない。
大聖堂の方からやって来たアネットちゃんにも話しかけているところを見ると、先生は学級の全員に声をかけて回っているらしい。断ってしまったことに罪悪感めいたものを感じていないわけでもなかったから、少しほっとした。
アネットちゃんは、了承するのかな。分からないけれど、こういうのって技量云々の以前にやりたいって思っている人がやるべきものだと思うから、そういう人が見つかればいいな、と思う。でも、いるかな。イングリットちゃんやドゥドゥーくんなんかは断りそうだし、アッシュくんはまずびっくりしそう。フェリクスなんか先生を睨んで終わりだろうし、そう考えたらやっぱりアネットちゃんとか、メルセデスちゃんとかフレンちゃん、シルヴァンくんも案外引き受けてくれそうかも? そんなことを考えながら、大広間の高い天井を見上げた。
殿下も、踊れないってことはないだろうし、お願いされたら断らなそうではあるよね。って、そんなことを考えながら。
今節は、ガルグ=マクの落成を記念しての舞踏会も控えている。
そっちは、ちょっと楽しみ。
ルミール村のことやトマシュさんの件があったばかりで不謹慎かもしれないけれど、内側から湧き上がる高揚感を無理に抑えるのは、なかなか困難だった。
結局青獅子の学級は、フレンちゃんが白鷺杯の代表を務めることになった。
「フレンならきっと可憐に踊ってくれることでしょうね……拗れず代表が決まって、良かったです」
明らかに安堵したように言ったイングリットちゃんは、舞踊はあまり得意ではないらしい。舞踏会も気が重い、そんなことを漏らすイングリットちゃんの顔は、ちょっとだけ険しかった。
舞踏会は、各学級の代表から優勝者を決める白鷺杯とは違う。本当に、その名の通りの舞踏会だ。楽器隊が呼ばれて、食事が用意されて、談笑しつつ、踊りも楽しむ。普通の舞踏会と違うのは、衣装が制服である、ってことくらいだろう。ああ、でもあとは国や身分を越えて交流ができるってところも、普通の舞踏会には、あまりないかな。
貴族が開く一般的な舞踏会は、それぞれの国の中で行われるものだ。もっと言うと、それだっていくつかの決まった家同士で開かれることが多い。私だって、ほとんどローベ家やゲライント家、エレボス家が集まるくらいの舞踏会にしか出たことがなかった。こんな風にフォドラ全土の人たちが出席できる舞踏会なんて、後にも先にも、きっとない。
「私はああいう類の催しは得意ではありませんが、はそうではないでしょう? ……舞踏会、殿下と踊れるといいですね」
誰とでも舞踊を楽しむことができる。それは要するに、もしかしたら私だって殿下と踊れる可能性がある、ってことだった。
「えっ」
頬に熱が籠もるのが分かる。両手で押さえながら、あまりにも直接的な言葉を向けたイングリットちゃんを見つめ返した。
確かに、殿下と踊る、ということを一瞬たりとも考えたことなどないと言ったら嘘になる。
だって、そんなの本当だったら、できっこないのだ。ファーガス貴族とは言え男爵家でしかない小さな家の出の私が、将来国を背負うことになる殿下と踊るなんて。「級友」として、大手を振って踊ることのできるこの機会を逃したら、もう次はないだろう、絶対に。
「わ、私なんかが踊っても大丈夫かな」
「何を言っているんですか。問題なんて一つもありませんよ」
「本当に……?」
「ええ、保証します」
イングリットちゃんは力強く頷いてくれるけど、でも、どうやってお誘いしたらいいものか。今からお願いしておく? でも、そもそも予め約束なんかするものなのだろうか、恋人同士でもあるまいに。こういうのって、その場の雰囲気で踊ったりするものなんじゃないかな。だとしたら当日、それとなく殿下に話しかけるとか? でも、緊張して、上手くお話もできない自分しか想像できない。それに万が一お誘いできて、了承してもらえたとして、それでその後はどうするつもりなんだろう。手が触れただけで意識を失ったっておかしくないのに、踊るなんて、とんでもないことだ。
想像するだけで顔が熱くなったり、逆に指先がひんやりしてきたりするけれど、でもやっぱり、殿下と踊ってみたいな、と思う。
本当に、一曲に満たなくてもいいから。
微笑んでいるイングリットちゃんに、「……が、がんばってみる」とゆるゆると頷けば、イングリットちゃんは「ふふ、応援しています」と益々相好を崩した。
分不相応な細やかな願いとは裏腹に、だけど殿下は、本当に大丈夫なのだろうか、という不安も掠める。
殿下は、いつもの殿下に戻った。真面目に授業をこなし、訓練に集中し、先日は学級をあげてフラルダリウス領まで山賊退治にも出向いて、ファーガス国内の治安維持にも尽力した。その時の殿下の表情に、ルミール村で見た翳りはなかった。
殿下は私にも、今まで通り接してくれる。訓練に付き合ってくれるし、食堂でばったり会えば向かい合って食事をしてくれる。厩舎の当番では、飼い葉を代わりに運んでくれた。そういうときの話題と言えば、課題のことや授業の内容についてなど、良く言えば当たり障りのないものだった。何かを測っているようにも見えたけれど、私は聞き分けの良い子供のように、それを察していることも、表に出さないように笑う。
先日、古い礼拝堂に侵入者があったらしい。警戒と、侵入者の調査が今節の課題になるようだ。一体何が目的なんだろうな。あそこには貴重品など何もないと聞いているが――。
ルミール村を焼いた犯人らの足取りが未だ不確かであると誰かが話すのを耳にしたそのときだけ、その目はそうと分からないくらい、微かに歪んだ。そういうとき、私は殿下に、殿下とは反対方向に、そっと肩を押された気になった。
本当だったら、舞踏会のことでそわそわしている場合ではないのだ。
けれど、「殿下と踊りたい」という願いは、思いもよらない形で叶うことになる。
白鷺杯の開かれる、数日前のことだった。