ルミール村で起きた事件から数日が経ち、季節は冬になっていた。
住処や家族を失い、頼る伝手もないルミール村の人々を、レア様はガルグ=マクへと呼び寄せた。特に両親を亡くした子供たちは、教団が世話をすることにしたらしい。それを知ったときは、ほっとした。何もかもを破壊し尽くされたルミール村は、立て直すにしたって数年はかかるだろうことは明らかだったから。
全てを失った子供たちの目は、暗かった。大聖堂の長椅子に、一日中座り続ける女の子を見た。貰ったお菓子を手の平に乗せたまま、動けずにいる子を見た。アッシュくんと私が炎の中に見つけた男の子の姿はガルグ=マクにはなかったけれど、あの子のお母さんが無事だったのかどうかを、私は確かめる勇気が無い。
一方でトマシュさんのいない書庫は、どこまでも静かだった。その静けさは私に、欠けた球体を思い起こさせた。後任は次の春にならねば見つけられないだろうとセテスさんが言うのを聞いた。それはもう、あと数節もしないうちにガルグ=マクを去ることになる私には、関係のない話だった。
星辰の節に入ったばかりのある日、墓地に続く階段下で子供達が集まっているのを見かけた。その中心にいるのは、ドロテアさんだ。ドロテアさんは、内緒話でもするみたいに子供達と顔を寄せ合っている。何をしているんだろうと足を止めたとき、風に乗った微かな声が、階段の上にいる私の元まで届いてきた。
囁きのようなそれを、私は最初、詩だと思った。子供達の身体や頭に隠れて見えないけれど、きっとドロテアさんは何か本を持っていて、それを子供達に聞かせてあげているのだと。
だけど、違った。詩ではなかった。息を止めて、耳を澄ますと、それは確かに歌なのだった。
ガルグ=マクに来るまではかのミッテルフランク歌劇団に所属し、歌姫と呼ばれていた彼女だ。私は歌劇を観たことはないけれど、舞台で高らかに歌い上げる歌姫が主人公の本は読んだことがある。親に連れられた劇場で、歌劇と出会い、歌姫を志し数々の苦楽を乗り越え夢を叶えた少女の物語。私にとってのドロテアさんは、あの物語の主人公だった。高らかに歌い上げる場面しか頭になかったせいだろう。ドロテアさんが、まるで正反対に、あんな風に声を潜めて歌うなんて、全く想像していなかった。
柔らかく、優しい歌声だった。ぼろぼろの皮膚を、あるいは芯にまで負った裂傷を癒すように、ドロテアさんの歌声は美しかった。
もしも心が目に見えるものならば、私のそれは毛羽だって、どうしようもなかったかもしれない。ルミール村での一連の出来事を真正面から受け止められるほど、私は強くできていなかった。ドロテアさんの歌は、そんな私のささくれだった心すらも包み込んでくれるようだった。
そっと息を吐いたとき、ドロテアさんの瞳が階段上の私をとらえる。帽子の下で細められた瞳は一瞬驚いたように瞬かれたけれど、次の瞬間には、笑みの形に変わっていた。
子供達がばらばらに階段を上っていくのを、ドロテアさんは優しく見送っている。
最後の子が視界から完全に消えたとき、私は「いつもこうやって歌ってあげてたんですか?」と彼女に尋ねた。いつも不安そうにしていた子供達は、ドロテアさんにはとても良く懐いているように見えたのだ。
「そうねえ。あの子たちがガルグ=マクに引き取られてから、二日に一回くらいは」
「二日に一回! ええと、じゃあいつもここで?」
感心しながらも、こんな墓地の前じゃなくたって、ガルグ=マクにはいくらでも相応しい場所があるだろうに、と思い、つい重ねて聞いてしまう。ドロテアさんはそんな私に「そうよ」と薄く笑った。
「だって、ここじゃないと煩わしくて」
ドロテアさんはその美貌から、生徒や騎士に声をかけられることが多いみたいだから、きっと、そういうことを言っているんだと思う。
「子供達を元気づけるために歌ってるんだもの。それ以外の人には聴いてもらいたくないわ」
「それ以外……。あっ、どうしよう、私、聴いちゃった。ご、ごめんなさい」
「やだ、ちゃんは別よ。気にさせちゃって、こっちこそごめんなさいね」
ドロテアさんはそう言うと、私の顔をじっと見た。「それに、ちゃんだって、元気がないわ」って。だけど、それを言うならばドロテアさんだって元気がなさそうに見えた。そう指摘したら、ドロテアさんは困ったように眉尻を下げて、それから小さく笑い、ぽつりと呟く。「そりゃあ、あんなものを見ちゃったらね」その声は語尾に行くに従って、掠れている。
ドロテアさんの所属する黒鷲の学級は、ルミール村の後片付けに携わっていた。
酷いものだったわ、そうドロテアさんは言う。たくさんの子供が泣いていて、家は全て瓦礫になっていた。あの戦いでは犠牲を最小限に抑えることができたとは言え、最終的に「実験」の犠牲になった人の多くの命が失われてしまった以上、それは詭弁だ。
遺体は結局、村から少し離れた丘の上に埋葬された。私たちは、それを手伝った。そこからは唯一残された村の風車が見えた。煙はいつまでも燻り、立ち上っていた。
「少しでもあの子たちが元気になれたらって思って歌ってるんだけど、無力なものよね。私じゃああの子たちの家族にはなれないし、その人生の面倒を見てあげることもできない」
自嘲気味に言うドロテアさんが空を見上げるから、私もつられてそうした。空には鳶が、引っ掻き傷を描くみたいに飛んでいる。
周囲より一段低い位置にある墓地は、そうしているとひっそりと静かだった。人の話し声や笑い声なんかも、膜を一枚二枚隔てた先にあるように遠い。ガルグ=マクに住み着いた猫が、ドロテアさんの足首にじゃれるように額を擦りつける。ドロテアさんは目線を落とし、滑らかな手で猫を撫でる。そんなときに、「でも、無力じゃないですよ」と言ってしまったものだから、ドロテアさんは何だか不思議そうな顔で私を見た。
「だって私、ここに来るまで本当に元気がなかったんです」
目を閉じれば、ルミール村の光景はまだ目に焼き付いていた。夢の中、「大丈夫って言ったのに、どうしてお母さんを助けてくれなかったの」と、あの男の子が私を責める。魘されて目を覚ませば、私は安全な寝台で、今までと何ら変わらないままいる。
何事もなかったかのように振る舞う殿下のことも、気に掛かっていた。人の目のないところではどうなのか知らないし、先生ならばもしかしたら殿下とあの日のことを話すこともあったのかもしれないけれど、誰も殿下のあの時の発言については触れなかったから。あれは、殿下らしくなかった。殿下の皮を被った、別の人だったって言われた方が、ずっと良かった。
でも、戦いが終わった後に話した殿下は、やっぱり、優しかったのだ、とても、とても。
ガルグ=マクに戻ってから、殿下は殊更元気そうだった。私の良く知る殿下だった。武に励み、座学もこなした。級長として、申し分ない人だった。だけど、「もしも私の良く知る殿下がそもそも間違いなのだとしたら」? そう思うと、怖かった。少なくとも、ここを通りかかるまではずっと、猜疑心でいっぱいだったのだ。
がちがちに凝り固まった心を、ドロテアさんは解してくれた。子供達の輪の中に入れて貰って聴いたドロテアさんの歌は、あまりにも優しく私を撫でた。
「でも、今ここでドロテアさんの歌を子供達と一緒に聴いてたらね、心が軽くなったみたい」
ドロテアさんは、何も言わず、私のことを見つめている。
「だから、子供達もきっと、元気になってます。救われてますよ、絶対」
彼らの目には光があった。ドロテアさんの歌は、希望に満ちていた。
ドロテアさんの瞳が丸くなる。化粧の施された瞼が何度か瞬いて、それから、「そうかしら」とぽつりと零すように言うから、「そうですよ」と頷いた。
ドロテアさんはそのまま、幾許かの間を置く。それから、急に我に返ったように、向かい合う私を抱きしめた。「わ!」ドロテアさんの身体は柔らかくて、信じられないくらいに、甘い、いいにおいがする。
「ありがとうちゃん、あなた、とっても良い子ね」
「あ、あの、あの」
「あなたに歌を聴いてもらえてよかった。ちゃんみたいなお友達がいてくれて、幸せだわ」
「え、ええっと」
「ドロテア」
益々その腕に力を込められたそのとき、不意に、私でもドロテアさんのものでもない声が響く。
ドロテアさんが、ぱっと顔をあげた。彼女の腕から力が抜けたのを受けて、私も階段の上を振り返る。
昼の光が、建物の合間を抜けて彼女の髪を神々しいまでに光り輝かせていた。左肩の赤い外套が、風を受けて広がる。色素の薄い髪が靡いたとき、「エーデルちゃん」と、ドロテアさんは言った。
エーデルガルト=フォン=フレスベルグ。
黒鷲の学級の級長であり、アドラステア帝国の後継たる皇女である。
「貴方に話があるの。今、時間はあるかしら」
良く通るその声は、肌が粟立つほどに凛として美しい。
「ええ、大丈夫。今行くわ」
そう答えたドロテアさんは私から離れると、軽く私の手に触れ、「今日はありがとう。またゆっくりお話しましょ」と囁き、階段を上っていった。
その後ろ姿の先にあるエーデルガルトさんに視線を向ける。最初は気がつかなかったけれど、傍には側近であるベストラ家のヒューベルトさんも控えていたので、その顔触れにちょっと面食らってしまった。私は黒鷲の学級の人とは、ドロテアさん以外ほとんど面識がないから、必要以上に緊張してしまうのだ。
それに、そうじゃなくたってエーデルガルトさんは殿下の思い人なのかもしれないし――。
そう思ったとき、エーデルガルトさんと目が合った。
息を飲むほど美しい人だった。品のある佇まいも、一つ一つの造形も、はっとしてしまうほどに。
エーデルガルトさんは、私にそっと目を細めると、口角を、ほんの微かに上げた。慌てて頭を垂れて、ご挨拶をする。ああ、私ったら、すっかりエーデルガルトさんに見とれてしまっていた。本当は私の方から、こうして頭を下げなくてはいけなかったのに。
どれくらいそうして頭を下げていたかは分からないけれど、次に私が顔を上げたときには、ドロテアさんもヒューベルトさんも、エーデルガルトさんも居なかった。思わず胸を撫で下ろす。星辰の節は、ガルグ=マクも流石に寒い。