「助けて、誰か、助けてよお……!」

「いました! 、こっちです!」



 助けを求める声を辿って、火に巻かれて身動きの取れずにいる子供を見つけたアッシュくんが、私に手を振って合図する。
 立ち上る黒煙は、私たちの視界のほとんどを奪っていた。崩れた家屋や石壁により行く手を塞がれ逡巡するけれど、アッシュくんの進んだ道を追うように進んで、何とか彼らの元へ辿り着く。戦ったわけでもないのに、息が切れていた。上手く酸素が吸えないせいだろう。ここにどれだけ長い間取り残されていたのかも分からないこの子は、一体どれだけ心細かったか。
 まだ五歳にも満たない男の子だった。アッシュくんは「もう大丈夫だよ、良く頑張ったね」と男の子に微笑みかけると、穏やかな声色で続けた。彼の弟妹に向けるような、柔らかな声だった。



「このお姉さんが、君を安全なところに連れていってくれるから、安心して」



 彼は煤で汚れた男の子の肩を撫でるけれど、男の子の瞳は歪み、濡れたままだ。
 私たちが救助に入ってから、村の状況は益々悪化していた。火の手はあちこちであがり、暴れ回る村人は見境なく武器を振り、騎士団にも負傷者が出始めている。大きくなり続ける炎に巻かれないようにしなければ、二次被害すらも出かねない状況だった。
 男の子と目線を合わせるためにしゃがみこんでいたアッシュくんは、そっと立ち上がる。



「僕はこの道の突き当たりまで見てきます。は、その子をお願いします」

「一人で? 大丈夫?」

「大丈夫ですよ。今は一刻も早く、その子を安全な場所に連れて行かなくちゃ」

「わ、わかった。……アッシュくんも気を付けて」

「はい。も」



 頷くや否や、アッシュくんは炎が燃え移り始めた奥の小屋の方へと向かって行った。その後ろ姿が炎の影に消えて行くのを、祈るような気持ちで見送る。
 私たちに割り当てられた区画は、今アッシュくんが向かった方以外はもう見回ることすらできそうにないくらい、火がまわるのが早かった。燃えやすい民家や納戸が密集していたせいだろう。その分人も大勢いるかと思ったけれど、この男の子と、もう一人、ここに来るまでに救助した若い男性以外は姿が見えなかった。きっと、自力で逃げたのだ、今はそう思わないと、私も動けなくなってしまう。
 火の勢いは凄まじくとも、自我を失い暴れる村人は騎士団の人たちが上手く引きつけてくれたらしい。そのおかげもあってか、この辺りはまだ静かな方だった。だからこの男の子も襲われることなく済んだのだ。
 間に合ってよかった。胸を撫で下ろしながら「よし、じゃあ一緒に逃げようか」となるべく柔らかく言えば、男の子はややあってから頷いた。その手を取って、今来た道を引き返そうとしたその時だった。乾燥した唇を、男の子がそっと開いたのは。



「お母さんが変になっちゃったんだ」



 ぼろぼろと涙を流す男の子の声は、火の爆ぜる音でところどころかき消されてしまう。ぱちぱち、何かが音を立てて、弾けていた。炎に照らされる男の子の顔は、橙に染まっている。
 私はそれに、何と答えたら良かったのだろう。
 変になっちゃった。それが示す言葉の意味が、わからないはずがない。
 彼の母親は、正気を失ってしまっているのだろう。今騎士団の人たちが相手にしている彼らと、同じように。



「ずっと寝てたのに、おかしくなった、急に起き上がって、大きな声を出して」



 吐き出さなければ保ち続けられないとでも言うかのように、男の子の口からはぽろぽろと言葉が零れ落ちていく。



「僕、びっくりして、どうしたのって聞いたんだ、でも、お母さん、僕の声なんか聞こえないみたいだった。僕を引っ掻いて、そのまま叫んで、どこかに行っちゃった」



 大丈夫かなあ。お母さん、ちゃんと逃げてるかなあ。って。彼は言う。



「お母さん、大きな火が嫌いだったから、怖がってるかもしれないよ」



 思わず地面に膝をつき、男の子の手をそっと握った。そうしなければ、私の方が泣いてしまいそうだった。柔らかくて、小さな手だった。爪も指も何もかも小さくて、あたたかい。震えるそれに、もう片方の手を重ねる。



「大丈夫、大丈夫だよ」



 何の確証もない「大丈夫」だ。だって「おかしくなった」人の身体に何が起きているのかを答えられる人なんか、いないんだから。
 それでも私は、嘘になるかもしれなくても、今はこの男の子を安心させてあげなくてはならなかった。焼け落ちた家々の中、炎の灯りで橙に染まる顔、今私たちの周囲で爆ぜる何かは彼を育てたありとあらゆるものたちだ。この子にこれ以上の絶望を与えることなんか、絶対にできなかった。
 泣かないよう、声が震えぬよう、細心の注意を払いながら口を開く。



「お母さんも、きっと元に戻るよ」



 男の子は鼻を啜る。煤で汚れたその頬には、大きな引っ掻き傷があるのに、私はそれを癒してあげる術も持たない。








 この場においての総指揮権は、セイロス騎士団の団長であるジェラルトさんにあった。
 ジェラルトさんは私たちに、逃げる村人の救出を指示した。騎士団の精鋭が、正気を失った人たちを引きつけている間に、安全な場所へと誘導するようにと。何やら村人ではない、怪しげな雰囲気を放つ人物らの確保よりも、まずは人命を助けなければならないと。
 武器を持ち暴れていると言っても、所詮は戦いを知らない村人だ。そう思っていたけれど、彼らの振る剣は力強く、気を抜けばこちらがやられてしまってもおかしくないくらいで、ぞっとしてしまった。急所を外して戦うなんて器用な真似、できる気がしなかった。
 何者か、ドゥドゥーくんの言っていた不審な人物らが村人たちをおかしくしているのなら、元凶を叩かなければならない。殿下は村の南、風車の立つ丘の方へと向かおうとしていた。その背をフェリクスくんが、どこか忌々しげに見つめていることに、私は実を言うと、気がついていた。フェリクスくんの目は、苦虫を噛み潰すのと、苛立ちを押し殺すのとが混ざり合ったようだった。殿下はその視線に気がついているのか、いないのか、決して振り返ることはしなかったけれど。
 殿下は一体、どうしてしまったんだろう。
 普段の、私の良く知る殿下であれば、ジェラルトさんの言うように村人たちの救助を最優先したはずだ。怪しげな人たちを捕えることについては、少なくとも彼ら全員を助け、その安全を確保した後でなければならないと、そう考えるはずだった。そして、それでも直接的な言葉でその命を奪うことを私たちに命じることは、きっとしなかった。
 だのに殿下は今、その青い目に炎を映しながら、「殺せ」と短く言っている。それも、なるべく苦痛を与えるようなやり方で。反芻させるのも躊躇ってしまうくらいの、残酷な言葉だった。
 私には、それが信じられなかった。それを聞いた瞬間から、ずっと頭の中で、暗い色の渦が巻いているみたいだった。
 赤い粉塵の舞う空気は、皮膚にちりちりと焦げ付くような感覚を与えた。熱いな、そう思ったけれど、口にはしなかった。炎によって細くなってしまった道は、男の子を抱えて駆け抜けた。見上げた空は黒く、悲鳴はまだやまなかった。
 救出した人たちを集めた天幕は、負傷者でひしめき合っていた。人々のすすり泣く声、苛立ちによる叫び、呪詛のような呟き。充満する血の匂いも、呻きも、慟哭も、動かなくなってしまった人にかけられた布も、何もかもが現実味がなかった。この世の終わりのような光景だった。これ以上の絶望も、衝撃も、ないような気がした。
 この事件の首謀者が、長く姿を消していた書庫番のトマシュさんだったと聞かされたときに、それをすぐには飲み込めなかったのは、そのせいだ。


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