南に険峻なオグマ山脈を抱くガルグ=マクからは、直接帝国領に入ることができない。
 よって帝国領北西部にあるルミール村に辿り着くには、王国エレボス領を西に向かい、国境を越えてアランデル領に入り、それから山道を進むしかなかった。帝国領に入って以南、整備のほとんどされていない山道はしかしそれなりに人の往来があるらしく、馬車や馬が通行することは可能だったのだけど、そうでなければ気が急いて仕方が無かったかもしれない。
 この道を、列を成して歩いた春が遠い昔のことのように思えた。あのとき私は皆が持っている荷物の半分の重さのものしか背負えずに、息を切らせて後を追いかけていたっけ。それから、足を滑らせて転んでしまった。いちいち落ち込んでいたあの日の私は、その夜に賊に襲われるなんて思ってもなかったし、その事件を経てベレト先生が私たちの担任になるなんてことも全く想像していなかった。こんな風に、これだけの不安を抱えてこの地を再び訪れることになるということだって。
 いつもよりも速度の出ている馬車に揺られ、車輪の音を聞きながら、そっと目線を外に向ける。ジェラルトさんの率いる騎士団は、私たちとほとんど同時にガルグ=マクを出立している。ルミール村の急変。そんな言葉だけが先行して、ここにいる私たちは誰一人、それが一体どういう状態を指すのかを分からない。
 鬱蒼と茂った木々の続く、見晴らしの良くない森の中では、立ち上る黒煙の一筋すらも見つけられなかった。それでも、ざわざわと耳鳴りがする。ずっと身体の内側で、激しい鼓動がしていた。大丈夫、きっとどうにかなる、そう言ってほしいのに、誰もがずっと押し黙っている。



「もうちょっとですかねぇ」



 沈黙を破るというよりは、そっとその指先で確かめて、その表面を撫でるような声色で、シルヴァンくんが呟いた。
 殿下はずっと唇を引き結んだまま、私と同じ窓の向こうを見ている。その目は、遠く、ルミール村の方角へと向けられていた。疲労の滲んだその目がどうしようもなく痛ましくて、ほんの少しの間でも目を閉じていてほしいと言いたかったのに、私はついぞ唇を開くことができなかった。








 私たちが辿り着いたとき、ルミール村は炎に包まれていた。
 家々は燃えさかり、黒煙となって空を覆う。ちりちりと肌の炙られるような感覚に、肌が粟立つ。悲鳴と轟音。叫び、逃げ惑う人々は村のあちこちに取り残されていて、行く手を燃えさかる炎に阻まれている。
 元々は長閑で、静かな村だったのだろう。しかし元の面影を探す方が、きっと難しかった。用水も兼ねる小川は煤で黒く濁り、民家の屋根は順に崩れ落ちていく。丘の上の風車の羽根には無数の穴が空いていて、それでもそれは休むことなく回り続けている。ぎぃぎぃという古めかしく重い音が、悲鳴に紛れて消えて行く。



「……ひどい」



 思わず漏れた声は、自分自身にすら届くことがなかった。踏みしめた地面は、水分を含んでしっとりと重い。
 ルミール村の光景を異様なものに見せていたのは、けれど狂乱状態に陥った村人の存在だっただろう。正気を失った彼らは見境なく暴れ回り、逃げ惑う村人たちを追いかける。その身体に噛みつき、落ちた木材を振り回し、焼け落ちた納戸から自分に火が移るのも構わずに斧を取る。泣き叫ぶ子供にそれを振り上げたのを、既に村人の救出へと入っていた先遣の騎士団が防いだのが見えた。それに安堵なんかしていられないくらいに、あちこちで悲鳴があがっていた。
 これだけ自分の両の目が現状を映しているというのに、私はそれでも、信じられなかったのだ。



「……何がどうなってやがる」



 ジェラルトさんの押し殺したその声は、呆然とする私の腕を引く。



「ひどい、こんなの……。早く助けなきゃ……!」



 アネットちゃんの言う通り、この光景に衝撃を受けて動けなくなっている場合では、少なくともなかった。どうしてこんなことになっているのか、その答えを探すことだって、今は相応しくない。ここに居る私たちは、彼らを救出しなければならなかった。
 いつの間にか荒くなっていた呼吸を、そっと目を伏せて、意識して整える。まず逃げ惑う村人の安全を確保すること、それから、暴れている人たちはどうしたらいいんだろう? あの譫妄を越えた状態が一時的なものなのか、永久的なものなのかを判別する術がない以上、峰打ちか何かで意識を失わせることが一番だとは思うけど、そんなに上手くできるだろうか。先生と殿下は、どう考えているんだろう。そう思って顔をあげた。その時、私の目に殿下の横顔が映った。
 透き通るような、青い瞳をした人だった。彼の目はいつも真っ直ぐで、歪みなど一つもないまま、真っ新な世界を映しているんだと思っていた。それを縁取る長い睫毛も、くっきりとした二重の瞼も、一分の隙もない美しさがあった。そしてそれは、どこか寂しかった、いつも。
 殿下。
 漏れそうになった声は、だけど私の喉の奥で引っかかって、外には出てこない。
 殿下の目は、燃えさかる炎を映していた。悲鳴をあげ逃げ惑う人々を、半狂乱に陥り、我を失った人たちを。飛び散った血飛沫を。轟音を。空に立ち上る黒煙を。殿下は瞬きの一つもしなかった。睫毛を震わせることもなかった。ただじっと、全てを飲み込むようにしていた。だけど、そうしながら殿下は、何か遠くを見ているようだった。それは、この間のアッシュくんが見せたものに似ていた。それよりも、ずっと粘ついたものが、その瞳のさらに奥にあるように思えた。
 ルミール村の光景は揺らぎとなって、殿下の瞳に影を作る。濃く、黒々とした、生々しい影だった。私はそれが、怖いと思ったのだ。それは、私が春に殿下に感じていた恐怖とは、全く別の種類のものだった。仄暗い穴があって、そこに何かを投げ込んでも音がしないのに、いつまでもそれを凝視していなければならないような。息の詰まるような恐怖だった。殿下、と、もう一度呼びかけようとしたのに、どうして私は声を出せないんだろう。殿下を連れ戻せないんだろう。
 殿下は取り残されているような目でそこにいるのに。
 その時、手前の納戸が崩れた。人がそこにいたように思ったけれど、農具の影だった。それでも殿下は動かなかった。ただ息を潜めて村の惨状を見ていた。先生が殿下の名を呼び、その肩を叩くまで、ずっと。



「ああ……すまない。俺のことはいい。一刻も早く、村人を救出しよう」



 私は何もできなかった。だから、村人たちの救出方法について確認し合う最中、村の中に怪しい人影があるようだとドゥドゥーくんが言ったとき、殿下が微かに顎を持ち上げたのを、殿下らしくない様子でその目が細められたのを、ただ息を潜めて見ていた。殿下の声は、地を這うように低い。



「村の異変の元凶は、その者たちか」



 掛け違えた何かがあって、それが今の殿下になっているような気がした。けれど、私はそれが何なのかを分からないし、今更そのずれを元に戻せる人間でもなかった。



「殺せ」



 殿下の短い声に、ベレト先生が、その双眸で殿下を見る。
 その場にいる誰しもが、きっと殿下に視線を向けた。冴え冴えとした良く通る声は、けれど、微かに震えていた。



「一匹たりとも逃すな。四肢をもぎ、首をへし折ってやれ」



 もしもこの時目を背けず、殿下の手を握る覚悟があったなら、何かが変わったのかな。
 数年後の私はそう考えることになるけれど、このときの私には、それができなかった。
 ただ、殿下の瞳の色が炎と混じり合って歪んで見えたのが、こわかった。


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