殿下の体調に関しては気がかりであったけれど、ガルグ=マクにいる以上、ルミール村の件も同様に注視せざるを得ないものであった。
 ルミール村は今、大半の村人が何らかの症状に苦しめられているらしい。その意思にかかわらず動き回る人、攻撃的になる人、眠りについたまま目覚めない人。疫病か、毒物、或いは何らかの呪術、闇魔法によるものなのかは、未だに判然としない。断片的な情報であっても、それがどれだけの混乱をもたらしているかは、ガルグ=マクにいても尚伝わっていた。
 ガルグ=マクは今、混乱している。
 代わる代わる派遣された騎士団のうち、先に帰還した騎士の顔は土気色だった。これはその騎士の方曰く、の話である。
 ほとんどの村人が何らかの症状を訴えるルミール村はどんよりと湿った雲に覆われているような異様な雰囲気で、何か重大な事実がそこには隠されているはずなのに、同行した学者も魔道士も、誰もその答えを見つけられずにいる。あらゆる角度から調査をしても、原因が解明されるにはまだ時間がかかるだろう。その間に、事態がいつ急変するとも限らない。例えば、それが疫病であった場合は騎士団にも蔓延する可能性もあるし、この状況が続けば村人たちの命が失われる可能性もある。このままでは、我々も、彼らも、重大な局面に立たされることになるだろう。いや、最早それはこの爪先にまで迫っていないとも限らない――。
 表情を強張らせ帰還する騎士は、一人二人ではなかった。誰もが、己の力の及ばぬ現状に疲弊し、恐怖していた。唇を引き結ぶ彼らから、それは確かに伝播した。誰もがルミール村の惨状に心を痛め、気に病んでいた。








「疫病とは、思えませんよね」



 大聖堂で偶々一緒になったアッシュくんがぽつりと呟いたのは、その帰り道、大広間とを繋ぐ橋の真ん中でのことだった。
 唐突とも思える話し口だったけれど、それがルミール村の話であると分からない人は、今のガルグ=マクにはいないだろう。相槌も打たず、目線だけをアッシュくんに向ける。そばかすの浮いたその面立ちは、春よりも、少し大人びたように思う。



「もし疫病の類だったら、症状が人によって異なるのはおかしいですから」



 普通は、同じように発症して、同じように悪化するものですし。その速度だって、もっとはやい。なんていうか、こう、人間の手には及ばないもの、悪いものに引き寄せられるように、あっという間に、連れて行かれるみたいに死んでしまう。
 アッシュくんは遠い過去の記憶を探るようにぽつりぽつりと言葉を口にし、その目を遠景にやる。私はロナート様に引き取られる以前のアッシュくんの話をほとんど聞いたことはないけれど、もしかしたら、過去、近しい誰かが流行病に罹ったことがあるのかもしれないと思った。そしてそれは、アッシュくんの本当の、血を分けたご両親なのではないかとも。



「……それに、騎士団の人たちで同じような症状を引き起こしている人はいないなんて、おかしいですよ。ルミール村の人だけ、なんて」



 アッシュくんが言葉を続けたから、それ以上、私はそのことについては考えることをやめたのだけど。



「……うん、そうだね、確かに」



 騎士団の人たちは、疲れを見せてはいるけれど、ルミール村の人々のような病状を訴えているわけではなく、ほとんどが精神的な疲労であった。もしかしたら、だけどそれは今だけのことで、これから一気に広がることもあるんじゃないか。体内に潜り込んだ病原菌は、何かの合図を待っているだけではないか。そんな思いが頭を掠めないでもなかったけれど、でも、アッシュくんがその前に語ったものとは状況がかけ離れているのもまた事実だった。そう、症状が多岐に渡っている。下手をしたら全く真逆の病状である村人もいるくらいなのだ。流行病とは言えないだろう。
 疫病ではない、何か他の要因で引き起こされた異常。それが今、ガルグ=マクからも、ラルミナ領からもそう離れていない帝国領のルミール村で起きている。そう思うと、益々ぞっとした。アッシュくんは、その唇を引き結び、何か考え込むように視線を落としていた。
 士官学校の校舎近くを通りかかる。視界の端に映った殿下の金色の髪を、私はこんなときですら、目で追っている。












 赤狼の節もあと数日で終わるという頃だった。
 重い雲が幾重にも重なりたれこめる空は、昼間だというのにほとんど夜みたいで、いつ雨が降ってもおかしくなかった。ばたばたと慌ただしく駆ける騎士団の人たちがすれ違い様に口にする「急げ!」「準備はできたか?」の言葉たちに、何かただ事ではないとは察していたのだけど、不安から一度教室へ戻ろうとした私の背に声をかけたベレト先生の声は、普段のものよりも、僅かに切迫していた。思わず姿勢を正してしまうほどに。



「先生」

「すまないが至急、出立の準備を頼む」

「え、出立……ですか」

「ああ。もし他に誰か見かけたら、伝えてもらえるだろうか。ルミール村に向かう」



 どうやらルミール村の様子が急変したらしい。
 セイロス騎士団が全力を挙げても究明できない一件に、私たちのような士官学校生が関わっても足手纏いになってしまう。そう思っていたのは私だけではなかったはずだけど、事態の急変は、騎士団以外の人手をも必要としているらしかった。
 何が起きているのか、先生は説明しようとしなかった。情報が錯綜しているのかもしれない。ガルグ=マクを包み込むように大きな傘状のものが開いていて、そこから絶え間なく不安の種を降り注いでいるみたいに、落ち着かない。
 どうしてこんなに恐ろしく思うのか、私は分からなかった。殿下のことが気に掛かっているせいだろうか。殿下も、先生だって本調子でないこんな時に私たちが踏み込もうとしているその場所が、状況が、あまりにも不透明なせいだろうか。思い当たることはいくつかあったけれど、それ以上に、殿下がずっと膜を張ったようにいるのが引っかかっていた。一方でその引っかかりは、殿下が書き記したあの紙片から、私自身が生み出したものではないかという気もしていた。



「準備が出来次第、門に集まって」



 先生に言われなければ、私はそのまま、ずっとそこに留まっていたままだったかもしれない。



「は、はい!」



 慌てて背筋を伸ばす私に先生は小さく頷くと、そのまま早足で大広間の方へと向かって行った。先生の足取りは確かだったけれど、その顔色はやっぱり少しだけ白く、私は後ろ髪を引かれるようにその背を見送る。
 先生の外套は、今のガルグ=マクの空と同じ色をしている。その色は、ずっと私の瞳に、ほとんどうつるように残っている。先生は、大丈夫ですか、ずっと具合が悪いみたいですが。その言葉を言えなかったことを、私は今更後悔している。


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