フォルクハルト=フォン=アランデル。
 アランデル領領主であり、帝国の摂政だ。元々は帝国の小貴族であったが、御令妹が皇帝に娶られたことで急伸。1171年、中央への権力集中を恐れた帝国貴族たちにより「七貴族の変」が起こったが、その主犯の一人と目されている人物でもある。
 自分の知っていることと、ガルグ=マクの書庫に収められている書物を合わせても、分かることはその程度だ。アランデル領は国境を越えてすぐ、それこそ今まさに不穏な状況にあると言われているルミール村を有しているが、私自身、春の野外訓練以外では訪れたこともなく、どうして彼のことを殿下が気に留めているのかは分からない。
 他に、アランデル公に関する情報が記された書物はないのだろうか。書庫番であるトマシュさんに尋ねてみようかと思ったけれど、生憎不在だった。アネットちゃんによると、もう随分長いことガルグ=マクにはその姿がないらしい。行き先も、誰も知らないのだとか。前節の中頃までは見かけたように記憶しているから、トマシュさんがガルグ=マクを出たのなら、それ以降、ということだろうか。いずれにせよ、ルミール村の件で慌ただしい今、トマシュさんの消息もまた心配ではあった。
 書庫の隅で、だから私は一人、思考を重ねていくしかない。
 1174年。フォルクハルト=フォン=アランデル。
 その二つが示すことが、フェルディアで生まれ育った殿下と一体何の繋がりがあるというのだろう。
 全く見当もつかないというと、本当はちょっと違う。皇帝の室となったアランデル公の御令妹は、エーデルガルトさんのお母様だ。殿下とアランデル公との関係性を見つけられずとも、エーデルガルトさんのことを念頭に置けば、それは簡単に紐付けられる。
 殿下は、エーデルガルトさんの周辺を調べているのかもしれない。
 何のために? って、私が思いつくことは一つしかなかった。そしてそれは、口にしたり、思考したりするだけで、容易に私の心を苦しくさせるものだった。








「それでわたくし、お兄様にお願いしたんですの。街へお買い物に行かせてほしいって。でもね、お兄様ったら、一人では駄目だ、せめて騎士団を連れていってくれ、なんて仰るのよ?」



 結局、先生に付き添いをお願いしましたの。フレンちゃんは神妙な顔でそう続けた。
 平時ならば兎も角、今はルミール村の一件で、騎士団も多くが出払っていてそれどころではなかったのだろう。「先生が引き受けてくれてよかったねえ」と頷く私に、フレンちゃんは「ええ、とても楽しかったんですのよ。……ですが先生、顔色がとても悪くて……。わたくしのお買い物に付き合わせて、悪いことをしてしまいましたわ」とそっと眉尻を下げた。
 それで、何か先生にお詫びとお礼になるものをと考え、フレンちゃんは温室にやって来たらしい。どんなお花が良いか、私といくつか言葉を交わした後、フレンちゃんは何種類かを見繕った。紐で結んで、小さな花束にするつもりらしい。小ぶりの、淡い色の花は、フレンちゃんの手の中にあるといっとう可憐だった。たっぷりとした緑色の髪を揺らして、「さん。付き合ってくださってありがとうございました。とっても、とーっても助かりましたわ。それではわたくし、お先に失礼しますわね」と微笑み、フレンちゃんは温室を後にする。一人になった私は、数日前よりも少しだけ大きくなったように思えるスミレを見つめ、その葉を指先でそっとついた。温室のぬくい空気は、まるで春みたいだった。








 頭が痛いと言っていた殿下は、けれど以降、平生と変わらぬ様子で日々を送っていた。
 私の他に殿下の症状を知っているのはドゥドゥーくんと、それからベレト先生であったようだったけれど、フレンちゃんの言う通り、先生は先生で調子が良くなさそうだった。話しかけても反応が鈍かったり、どこか遠い一点を見つめたまま固まっていることがあった。倒れたところを見た人もいるらしい。それでも訓練となれば本来の調子を取り戻し、手合わせで一本たりとも落としはしないのだから恐れ入る。けれど、だからと言って剣を握っていない先生に私のもやもやを吐き出すことはできなかった。先生の負担になることを恐れたのもあるけれど、教室にいる殿下はやっぱりどうしたって「普通」であるように見えたから。心配するドゥドゥーくんに「しつこいぞ」と目を伏せ笑い、けれどはっきりと自身の半径のいくらかあたりに線を引いて釘を刺す殿下に対して、私ができることなんか、ないように思えた。
 だけど、一方私は私で傍から見たら途轍もなく険しい顔をしていたらしい。自覚なんか、全然なかった。クロードくんに「ちゃんと寝てるのか?」と声をかけられて、ようやく自分に意識を向けられたのだ。



「…………寝てるよ?」

「ほう。じゃあ考え事か何かか? ここに物凄い数の皺が寄ってたぞ」



 書庫だった。クロードくんは声を潜めることなく自身の眉間を指差すから、慌てて目線を周囲へと走らせる。この日も相変わらずトマシュさんの姿はなくて、さらに言えば、他に信徒の方や生徒も見当たらなかった。



「寄って……るかなあ」



 思わず眉間のあたりを指の腹で揉んだ。クロードくんは小さく笑って、私の言葉には答えない。
 クロードくんは、読書家だ。士官学校内ですれ違う彼は大抵何かに紛れるように何らかの本を抱えていたし、こうして会話をするようになる以前も書庫で何度か姿を見かけている。書庫の本だけでなく、騎士の間の蔵書にもきちと目を通しているのは、私に戦術の本を薦めてくれたことからも明らかだった。クロードくんの目線は、もう私の隣にある本棚へと向けられている。
 ちらりと脳を掠めたのは、もしかしたら、クロードくんに聞いたら、殿下の書き記したものの意味が分かるのではないか、ということだった。個人的なことだけど、今ここには、私とクロードくんの他に誰もいないんだもの。不可能ではない。1174年、それから、アランデル公の名前。殿下の頭痛の正体。クロードくんだったら、何か私の思いつかない答えを見つけてくれるのではないか――。
 ちらちらとその横顔に目線を送っていたのが、鬱陶しかったのかもしれない。クロードくんは本の背表紙から目を離すことなく、口元だけで笑った。



「……いや、見すぎだろ。なんだ?」



 「なんだ?」の時には、クロードくんの翡翠色の瞳は、もうこちらに向けられていた。
 その双眸は、真っ直ぐ私を捉えている。それで私は、少しだけ狼狽してしまう。古い紙と洋墨の匂いに包まれて、言葉を取り出すのに少し考える。殿下のことを。あの夜のことを。そうすると、温室の匂いや温度、あのときの胸の高鳴りまでが一緒に戻って来てしまって、困った。そうしながら、なんて醜い足掻きだろうとも思う。だって、私は殿下が好きだからといって、それで殿下と何か、そう、恋人になりたいとか、そういう分不相応な願いを持っているわけじゃないはずだった。私は残りの数節を、殿下の傍で過ごせるならそれでいいと、イングリットちゃんにもそう言ったのだ。だったら、殿下が誰を好きだろうと関係がなかった。私は、殿下の体調が良くなればと願うことだけをしていればいい。ふとした拍子に手に入れてしまった破片を元に、殿下に踏み込もうとするなんて、酷く失礼なことだった。
 クロードくんは、私が言葉を紡ぐのを待っている。私は彼に、やがて、「なんでもない」と首を振る。「なんでもいいなんて顔、してないように見えるけどな」そうクロードくんは目を伏せて笑った。それでも追求することを、彼はしなかった。それが今は、ただ有り難かった。


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