夜の温室は初めてだった。
 灯りの消えた出入り口から管理人の女性が出てくるところに丁度出くわしたが、はその姿をみとめると、慌てて駆け出して彼女を呼び止めた。風の音は二人の会話を途切れさせたが、が何かを受け取ったのだけは見えた。どうやら、温室の鍵らしい。
 女性はに一言二言続けると、どこか親密な仕草でそっと手を振り、こちらへ歩いてきた。目が合ったときに会釈をされ、慌てて返す。薄闇の中、彼女の背は食堂へ向かって消えて行く。



「殿下〜!」



 の声に振り向けば、彼女は温室の前で大きく手を振っている。「鍵を借りられました!」遠目からでも、彼女の姿は燦然と輝いていた。先ほどまでの彼女はどこか緊張していたように見えたが、今はそれも和らいだらしい。抱えた本を落とさぬようにしながら、の元へと向かう。
 微かにサビの浮いた鍵を使って開けた扉の先は、温められた空気が満遍なく広がっていた。青い闇に縁取られた温室は、俺と彼女の他に気配がない。薄闇の中、陽の光の下であれば見慣れた草木はしんと静まりかえっている。俺は、品種によっては夜にはその花弁を閉じる花もあることを、間違い探しでもするように脳裏のそれと見比べた今、初めて知った。
 幾つか灯りを灯したは、その一つを手で持つと、俺を奥の方へと促す。「あのね、こっちです」内緒話でもするかのような、囁くような声音だった。その表情は、今、彼女が俺の前を歩いているせいで窺えない。
 彼女の数歩後を追いかけながら、昼間の間に温められた土が放つ濃い匂いを、無意識に深く吸い込む。ファーガスには、とりわけフェルディア近辺にはない匂いだった。体温を根こそぎ奪うには至らない程度の風も、空気の温度も、何もかもが俺の生まれ育ったものとは違う。俺は今、ガルグ=マクにいるのだと思う。土地の肥え、大河には獲りきれぬ魚が泳ぎ、何を食べるにも不足することのないガルグ=マクに。
 恐らくフェルディアにいれば関わることのないままだった少女と。



、一体ここに何が」



 あるんだ、そう尋ね終わるよりも先に、ふと脳の端を掠めるものがあった。
 見せたいものがある、そう言ったが、夏、若草色の表紙の本を抱え、俺に話してくれたこと。花をもらったが枯れてしまった。折角だから、次は種から育てて、それで咲かせた花を部屋に飾りたい。もしも花を咲かせることができたら、殿下にも――。
 思い至った俺に気がついたらしいは、けれど慌てたように首を振った。



「ご、ごめんなさい、咲いてないんです、まだ」



 核心に触れるような言葉はなくても、それだけで互いが何を思っているのかを分かり合えるのは、どことなく面映ゆい。「ああ、いや」と歯切れ悪く首を振る俺に、はその眉尻を落とした。



「……育てていたんだな、本当に」



 本当に、は失言だっただろうか。そう思ったけれど、彼女はさして気にした様子も見せず、「授業とか、課題の合間にですけどね」と小さく微笑む。



「でも一時期、うっかり水やりを忘れてしまって……。スミレって、芽が出るまで水を途切れさせてはいけないそうです」

「……そうなのか」

「だから実は、二回目なんですが……。この前やっと芽が出たんですよ」



 この鉢なんです。
 灯りを持ったが、温室の隅にひっそりと置かれていた小さな植木鉢を指して、それからしゃがみこんだ。の持つ灯に微かに揺らめく緑の新芽は、指で簡単に潰れてしまいそうなほどに小さい。けれど、それは間違いなく生きていた。触らずとも分かる生を放っていた。瞬きをしたら、微かに睫毛が震えたような感覚があった。



「水を切らしてはだめだけど、あげすぎても根腐れしてしまうんですって」

「……ああ、ドゥドゥーから聞いたことがあるな」

「そうそう、ついこの間、ドゥドゥーくんに『水が多い』って注意してもらえて。助かりました」



 やっぱり、花を育てるのって難しいですね。の声は、温室の温い空気に紛れ込むように柔らかい。
 題の色に照らされたの顔は、互いにしゃがんでいるせいか、いつもより随分近くにあった。瞳を縁取る長い睫毛は、ゆらゆらと揺れている。幾つもの光が瞳に浮かんでいた。それがこちらに、窺うように向けられたとき、思わず息を止めてしまう。「殿下」の声は、胸に両膝を押し当てた体勢のせいなのか、微かに掠れていた。



「ごめんなさい、やっぱり、まだ頭、痛いですか?」



 本当は、お花が咲くまで見せるようなものではないとは思っていたんですけど、もしかしたら何か、殿下の気分転換になるかもしれないと、そう思って。彼女はそう、一つ一つ確かめるようにして続ける。
 申し訳なさそうな、曇った表情だ。好意を持っている相手にこんな表情をさせてしまうのが心苦しいと思う反面、しかし俺は、そこに細やかな喜びに似た感情も覚えてしまっている。その事実に、打ちのめされる。
 誤魔化すように首を振る俺を、彼女は信じたのか、そうでないのか、わからない。ただ、今は本当に痛みがなかった。土の湿った匂いは俺の爪先から頭のてっぺんまでを柔らかく包んでいたし、彼女の育てたスミレの芽の瑞々しさに、細やかな感動も覚えていた。そういったひとつひとつが、俺を敵のない野に横たわらせるようだった。
 「すごいな」と口にしたとき、の目が微かに見開かれる。
 だから、確かめるように、もう一度「すごい」と呟いた。



「……失敗しても諦めることなく、ここまで育てられて」



 俺にはきっとできないから。
 俺には、そういう余裕がない。他のことを考え、そこに時間と思考を割くことが、俺にはできない。
 は俺の言葉に、何度かその目を瞬かせている。まるで裏や表、その影に、何か別の意図が隠されているのではないかと疑うように、慎重に脳裏で言葉を反芻させているようにも見えた。どれくらいの沈黙があったか。やがて開いたその唇から、言葉が漏れた。



「それは、喜んでも良いんでしょうか……?」



 それに、つい笑ってしまったのだ。瞬間、何か複雑に絡み合った糸が緩んだようだった。強張っていた肩が、そのとき確かに、ほんの少しではあったが軽くなったようにすら思えた。
 声を殺して笑う俺を、は神妙な表情で見つめている。
 足の裏に、柔らかな土の感触があった。それは俺に、生を感じさせた。草いきれの濃い匂いはいつまでも纏わり付いた。静かな夜だった。まるでこの世界に俺としか存在しないのではないかと思わせるような。
 復讐のために生きると決めた俺に、こんな温度が必要なものであるとは思えないのにな。
 だから、せめて忘れたくないと思った。が俺のために、こうして温室へと連れてきてくれた夜のことを。土の柔らかさも、風の温度も、指先に揺れた小さな芽も、の目に浮かんでいた光も、何もかも、ありとあらゆるもの。それらに救われたように思ったことを。俺は忘れたくなかった。
 俺が彼女に小指を差し出したのは、そういう感情が溢れそうになったせいだった。








 殿下と別れて自室の扉を閉めたとき、私がすることといったら、思い切り息を吐き、胸を押さえることだった。
 そのまま床に座り込みそうになるのをどうにか堪えて、寝台まで向かう。別れ際に殿下から手渡された本を寝台に置き、自分自身はその横に、却って乱暴に飛び込んだ。きっちりと積まれた本の小口は、大勢の人が読みこんだ形跡を確かに残している。それをそっと撫でながら、今日の自分はおかしくなかっただろうかと、記憶を反芻し続けた。自分が口にした言葉、殿下の表情、隣を歩くときのその速度から、別れるまでの細やかな所作に至るまで。どれもがかろうじて正解であるようにも思えたし、どれもが間違っていたかもしれないように思えた。そういうことを考えると、安心するよりも、お腹の内側がきりきりと痛んだ。
 殿下は、赤狼の節に入ってから、難しい顔をすることが増えた。全然関係ないと思うけど、エーデルガルトさんとお話しているのを見かけた日くらいからだ。何かを思い悩んでいるようで、苦しそうで、それがすごく、気になった。
 何か気がかりなことでもあるのだろうか。鷲獅子戦を優勝という形で締めくくり、士官学校での生活も折り返してしばらく経った今、殿下に何か問題でも起きているのだろうか。探るように殿下を見ても、答えはどこにも記されてはいない。
 殿下の顔色は、最後まで薄ら白かった。それでも、送ってくれると言ってもらえたことが嬉しかった。体調の優れない中、温室までついてきてくれたこと、最近芽を出したスミレを見て感心してくれたこと、「すごい」と言ってもらえたこと、正しい返答ができなかった私に、笑ったこと、それから、それから、最後のあれも。そういう一つ一つが私の広げた白い布に光の粒を落としていった。胸がいっぱいになって、少し、泣けた。籠手を介してだったけれど、殿下に触れた小指を軽く折り曲げる。そうしたとき、私は本の小口に触れたそれが、何か別の感触を覚えたことに気がついた。



「あれ?」



 それは、本に挟まれていた一枚の紙だった。きちんど挟み込まれず、その角が僅かに飛び出ていたのだ。
 考えるよりも先にそれを引き抜く。この本を、前に借りた人の書き付けか何かだろうか。そう思ったのだ。
 だけど、違った。



「1174年?」



 短い走り書きだった。1174年、フォルクハルト=フォン=アランデル。帝国アランデル領主の名前が、一体どうしてこんなところに記されているのだろう。
 不思議に思って身体を起こし、それが挟まっていた本に手を伸ばした。ざらついた手触りのそれは、私がクロードくんに勧められて読み進めていた戦術書では、なかった。目を瞠ったとき、部屋の扉が叩かれる。ほとんど咄嗟に、持っていた紙をその本に挟めた。私はその時、これが殿下の持っていた本であることを、アランデル公の名前が記されたその紙が殿下の書いたものだということを、瞬時に理解していた。そして、今部屋の扉を叩いたのが、本を取り違えたことに気がついたのであろう殿下であるということだって。「すまない、少し良いだろうか」控えめなその声に、慌てて返事をする。



「は、はい!」



 二度と落ちないように、しっかりと紙を挟み込んだ本を手にし、扉へと向かう。
 1174年。フォルクハルト=フォン=アランデル。それが意味することを、この時の私はまだ知らない。


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