義伯父上は、しばらくガルグ=マクの城郭都市に滞在することになったらしい。
フォルクハルト=フォン=アランデル。帝国の北西、王国領に隣接する領地を持つ彼は、アドラステア帝国の辣腕摂政とも呼ばれている人物だ。ここ数年、聖教会と距離を置いているように見えたが、突然セイロス聖教会の総本山を訪れるなど、一体どういう腹積もりなのか。
「……正直、驚きました」
ここ数年は、教団への寄進も控えておられたようですし。そう薄い笑みを貼り付けた俺に、義伯父上は特別表情を変えることもなく、「それは領内の懐事情によるものだ」と答えるだけだった。そう言われてしまっては、これ以上追求はできまい。曖昧に笑い、それに頷く。
そうしながら、果たして彼はこんな表情をする男だっただろうかと考える。記憶を探るもそこに霞みがかるのは、当時の俺がまだ幼かったせいなのか。それとも、他の思い出が俺の中で膨らみすぎているせいなのか。
エーデルガルトの伯父でもある彼は、俺と「それらしい」会話をした後、姪の顔も見に行くつもりだと言って俺と別れた。
その後ろ姿を見送ってから数刻経った今、当のエーデルガルトはそのような様子を俺に露ほども見せずにいる。平生と変わらぬ彼女の表情は、面でもはりつけたようだった。
「ルミール村で異変が起きているらしいことは聞いた?」
小さく首を傾げるその目は、瞬きの回数があまり多くはない。
騎士の間と大広間の間の通路だった。赤狼の節の、ひんやりとした風が髪を撫でていた。尤も、フェルディアの寒さに慣れた俺からすれば、この季節のものとは思えぬほどの柔らかくはあったが。
エーデルガルトは、義伯父であるアランデル公ともう会ったのだろうか。心に浮かぶそれは、顔には出さない。彼女はあの頃のことを何も覚えてはいないようなのだ。伯父と会ったことを、俺に話す義理などあるわけがない。
「ああ、先生から聞いたよ」
微かな濁りのようなものが胸に落ちるのを誤魔化すように、思考を切り替える。
ルミール村と聞いて思い出すのは、大樹の節、士官学校に入学して初めての野外訓練で起きた、あの出来事だ。俺達は賊に襲われ、囮となったクロードを追う形でルミール村に滞在していた傭兵――先生と、ジェラルト殿だ――に助けを求めた。あの村の人々が今、何やら奇妙な事態に襲われているらしい。
多動になる者、凶暴化し暴れる者、床に伏せる者、目を覚まさない者。症状が多岐にわたることから、マヌエラ先生の見解では疫病ではなく、呪術か複数の毒物、或いは闇の魔道によるもの、ということらしい。いずれにせよ、穏やかではない。
「一体何が起きているのか……。心配だが、今は派遣された騎士団の報を待つしかないな」
「……ええ、そうね」
思案するように目を伏せたエーデルガルトの、色素の薄い睫毛を見る。俺の知る「エル」のものとは似ても似つかぬ色だ。それはまるで、生来の、生まれ持っての色であるようだった。
流れた月日は、間違いなく俺達に大きな変化をもたらしていて、けれど俺は彼女のそれに触れることはないのだろう。もしも四年前、俺がすべてを失うことがないままであれば、俺は彼女に踏み込んだのかもしれないが。それが、酷く残酷なことのように思えた。あの時の小さな手の平の感触が、脳裏に掠めるように蘇った。
大広間の壁から伸びる白い腕から目を逸らしたその時、こめかみの辺りが、鈍く痛む。視界の端で、何か白い光のような、いや、翳りのようなものが瞬く。緩やかな頭痛を覚えながらも、俺の耳はクロードの声をとらえていた。
「お、これはお二人さん。仲が良いな」
その声を聞きながら、俺は義伯父の、アランデル公のことを考えている。俺は彼のことを疑っている。ダスカーの悲劇に、何らかの関わりがあるのではないかと。
俺には成すべきことがある。
春に比べれば表情の穏やかになったように思う先生に絆されながら、ひたむきなを目で追いながら、まるで空からの天啓のように、「そんな場合じゃないだろう」と冷めた声が降ってくるのを、俺はこの背で受け止めている。そうする度、俺は自身の中に針金が一本通されるのを自覚する。
俺は知らなくてはならない。誰が父を、継母を、グレンを殺したのかを。ダスカーの悲劇がもたらし、そしてその影が隠したものを。復讐の相手を見つけ出さなくてはならない。それは最早渇望の域を超えていた。俺の生を懸けても到達すべき場所だった。それは耳元で囁く声の主たちが決めたことであり、無数の手が求めるものであり、一方で、俺が自ら選んだものだった。
満足に眠れぬこの身体は、限られた時間を活用するのに適していた。鍛えること。俺に足りぬものを学ぶこと。何もかも、来たるべきその日のために。投げ打たねばなるまい。ありとあらゆるものを。こめかみが痛かった。前節までの好調が嘘のようだった。原因は明らかだ。「こうして義理の甥と言葉を交わせたことも嬉しいがな」あの声が、今も耳について離れない。
「……か、殿下」
俺の周囲に落ちるのは、暗い光のようなものだった。そうとしか言いようがなかった。耳鳴りがしているのか、落ちた葉が風に吹かれかさかさと音を立てているのか判然としなかった。思い出したように俺を襲う頭痛の原因をドゥドゥーは寝不足からくるものなのではないかと言ったが、ならば俺はもう四年前からそうであるべきだったし、今更この痛みに立ち止まることなくいられるはずだった。原因など、それに、俺にとってはどうでもよかった。この視界の点滅だけを取り除いてくれれば、それで構わなかった。
「殿下!」
の声に、我に返る。
教室だった。人の気配は他になく、日はとうに落ち、蝋燭だけがいくつか灯されている。これは俺がつけたものだっただろうか。覚えがない。
「……」
「殿下……」
安堵したようにその表情を和らげたは、何度か俺に呼びかけていたらしかった。
机の上には書庫から持ち出せなかった記録の写し、それからドゥドゥーの目を誤魔化すための数冊の本があった。ほとんど無意識に紙を本の間に挟み、それから俺の机の前に立つの、透き通るような白い顔を見た。血色が悪いのかもしれない。そう気がつくのに、少しだけ時間がかかった。
「ええと……すまない。どうかしたか? 俺に何か用事でも……」
「そ、そういうのじゃないんですけど……声をかけても反応がないから、どうしようかと思っちゃって……」
ごめんなさい、きっと何か、集中してたんですよね。
申し訳なさそうにそう続けるは、しかし俺を思いやるような目線を寄越した。どうしてこの時、まるで救いを求めるかのように目の奥に鋭い痛みが走ったのか。思わず目を閉じれば、は心配そうにその顔を曇らせた。「どこか痛むんですか?」母のように、と言うには、彼女は少女然としすぎていた。労るように眉尻を下げるに、首を振れば良かったのに、俺はどうして馬鹿正直に「頭が、少し」と答えてしまったのか。は益々困ったような顔をした。それを見て、胸の奥で絡まった蔦のようなものが微かに緩んだように思えた。
「お疲れなのでは……」
「ドゥドゥーにも言われたよ。……だが、そこまで酷いわけじゃないんだ」
この痛みで死ぬわけではない。ならば、休む意味などあるものか。「でも」と言いかけたに、小さく笑って首を振る。ならば始めから痛みを訴えねば良いのに、自分の根にある浅ましさがそうさせない。
はじっと俺のことを見つめていた。ともすれば、それが泣きそうなもののように見えた。それで初めて、申し訳なくなる。俺は自分の欲を満たすために、いらぬ不安を彼女に与えてしまったのだと気がつく。
「本当に、大丈夫なんだ。……少し休めば良くなる」
「……本当ですか?」
「本当だよ。……は、今部屋に帰るところか? 寮に戻るなら、一緒に行こう」
最近は、夜中に忽然と姿を消してしまったという他学級の生徒の噂も聞く。日の落ちた外を見やりながら、に言えば、は、先日から持ち歩いている戦術教本を胸に抱え、それでも明るいとは言えない表情で、「……はい」と、小さく頷いた。彼女が俺を心配してくれているのは、明白だった。
教室を出た途端、強い風が吹き付けた。「わ」と舞い上がる髪を押さえつけるの手から、本が落ちそうになったのを思わず支える。が目を丸くしたのは、指が触れてしまったせいだろうか。そんな風に驚かれたら急に気恥ずかしくなってしまって、ほとんど誤魔化すように「俺が持つよ」と口にしていた。
「だ、だめです。殿下、だって頭が痛いんでしょう? 本くらい、自分で持てます」
「もう治まった」
「う、で、でも」
「力なら有り余っている。……それに、万が一大切な本を傷めては困るだろう?」
は、こういう言い方をされると弱い。そう知りながら言葉を選ぶ俺は、もしかしたら狡いのかもしれなかった。けれど唸るような風は未だに俺達の髪やら制服の裾やらに吹き付けていたし、寮までの道中を歩くとき、彼女の両手が空いている方が安全であるのは間違いなかった。
俺の言い分に正当性を感じたのだろう。彼女は少々目線を彷徨わせてから、最後には「えっと……じゃあ、お願い、してもいいでしょうか」と本を手渡してくれた。自分が持っていた本に、彼女の分を重ねる。の手の中にあると重たそうに見えた数冊の本は、俺の手の中に元々あったかのように収まりが良かった。
俺はこれが、クロードの手を介して彼女の手に渡ったものだと知っている。
見かけたのだ。あの後。エーデルガルトと別れた俺は、クロードを追いかけて騎士の間へと向かったから。それで、すぐに引き返した。我ながら小心だった。本を選ぶ二人の後ろ姿をみとめて、声をかけられなかったなんて。
もっと言うならば、鷲獅子戦、彼女がクロードの策略に嵌り、抱きかかえられ救護用の天幕にやって来たということも聞いている。治療をクロードが手伝っていたことも。その後の宴でクロードと共に笑っていたことも。少し前から二人が良く話をしていることも。クロードが、彼女のことを度々目で追っているように見えるのも。俺は知っていた。
胸の内側に燻るような感覚が芽生えてしまう。その燻りに紛れて、思わずクロードの名前が口をついて出かけた、その時だった。彼女が不意に、「そういえば!」と、今思いついたというよりは、どこか真に迫ったような声音で言葉を発したのは。
建物から漏れる光に照らされたその顔が、俺を見上げている。
「その……殿下、これから少しだけお時間ありますか?」
の言葉に、思わず瞬きをする。俺を見つめるは、どこか意を決したように、緩くその唇を噛んでいる。