なんで物陰に隠れているんだろう。
 数冊の本を抱えたまま、私は柱の陰でじっと息を潜めている。



「ど、どうしよう……」



 縋るように口の中で呟いた声は、私の周囲に積もるように落ちていくだけだ。
 でも本当に、殿下を追いかけてとか、殿下を探してとか、そういうのでここに居合わせたんじゃない。大修道院や士官学校の校舎、大広間に食堂、その他様々な施設の建ち並ぶガルグ=マクで、偶然二人が話しているところに出くわしてしまっただけなのだ。そろりと顔を出して、様子を窺う。
 殿下と、それから黒鷲の学級長であるエーデルガルトさん。向かい合った二人の声はここまでは届かないけれど、傍目からは談笑しているようだ。それはもう、仲睦まじく。実際のところは、勿論私には分からないのだけど。
 ぎゅう、と胸の内側が締め付けられるような感覚になる。
 殿下は言わずもがなであるけれど、見目麗しい二人だ。アドラステア帝国の次期皇帝となることが約束されているエーデルガルトさんの色素の薄い髪は陽に照らされ、仄かな輝きを放っている。紫水晶のようなその大きな瞳は、いつも凛としていて、彼女の立つその周囲の空気までが張り詰めているみたいだ。
 殿下とエーデルガルトさん、級長である二人が向かい合って話すその姿はどんな絵画にも及ばないくらい美しく気品があり、崇高なものに見えた。
 どうしよう、戻れなくなってしまった。
 私が現在いるのは、騎士の間だ。前節青獅子の学級が勝利を収めた鷲獅子戦においての自身の失態を省みるために、騎士の間の蔵書である戦術教本を数冊持ち出そうと訪れたのだけど、私が本を選別して戻ろうとした今、二人はその出入り口の先にある通路で話し込んでいるのである。
 普通に考えたら、私はこの本を抱えたまま彼らの横を会釈をし、通り過ぎればいいのだろう。だけど、どうしてもできない。私は絶対に顔が引き攣ってしまう。下手をしたら、うっかり涙ぐんでしまってもおかしくない。そんな醜態、殿下の前で晒せるものか――。








 思い出すのは鷲獅子戦の後、クロードくんの提案によって学級の垣根を越えた「宴」が催された際のことだ。
 マヌエラ先生に足の治療をしてもらった私は、若干の痛みを覚えながらもその宴に出席した。色々落ち込むことはあったけれど、クロードくんに励まされたのが大きかったのだ。
 食事会ではなく「宴」という名の通り、普段の数倍は賑やかな食堂だったけれど、そこに飛び込んでみれば悪いものではない。その日ばかりは互いの健闘を称えるため、学級の別なく輪を作った。私はクロードくんによって手招きされ、金鹿の学級が大半を占める席に座らされたのだった。
 金鹿の学級の人たちは、底抜けに明るかった。「ほーんと、皆惜しかったよねー。あたしも頑張ったんだけどー」と笑うヒルダちゃん(この宴を経て、そう呼ぶように言ってもらえた)は、フェリクスくんに紙一重で届かなかったらしい。一方でローレンツくんも、シルヴァンくんにあと一歩及ばず……というか、ほとんど相打ちのような状況であったところを、ヒルダちゃんを落としたフェリクスくんの加勢により白旗を上げざるを得なかったのだとか。
 私の右隣に座ったヒルダちゃんは、先の戦いで見せた表情と一転して、柔らかく笑う。



ちゃんも大変だったでしょー? クロードくんたら、本当に変なこと思いつくわよねー」

「う、うん。びっくりした」

「あんた、あれで足とか捻ったりしませんでしたか?」

「それは大丈夫……」

「はは。鷲獅子戦だからな。そこまで危ない罠なんか用意しないさ」



 向かいの席、含んだように笑うクロードくんは、私にしか分からないように片目を閉じてみせるから、言葉に詰まってしまう。そう、「鷲獅子戦だから」問題なかった。結果的にはイグナーツくんを落としたのは私とメルセデスちゃんということになるし、罠に嵌ってもこうして生きている。だけど次はもう、あんな失態は見せたりしない。答えるようにその目をじっと見返せば、クロードくんは微かにその口角を上げただけだった。
 クロードくんが私の治療のために棄権を表明したその頃、青獅子の学級は砦の南西に陣を広げていた黒鷲の学級の指揮官へと駒を進めていた。私やメルセデスちゃんの他にも、青獅子の学級は何人か撤退を余儀なくされていたようだったけれど、それでも金鹿との戦いで疲弊していた黒鷲の学級を攻めるのには問題なかったらしい。最後は殿下がエーデルガルトさんとの一騎打ちを制し、クロードくんの予想していた通り、私たち青獅子の学級が勝利を収める形になった。
 そうして鷲獅子戦が終わりを迎えても、殿下も、先生も皆も、救護用の天幕で治療を受ける羽目になった私を責めたり、詰ったりしなかった。
 勝利の余韻もあるのだろう。だけど、殿下に足の怪我をいたく心配されてしまったのには、少しだけ参ってしまった。殿下の優しさは、時々沁みるくらいに痛い。
 次はもっと頑張れる。クロードくんのお陰でそう考えられるくらいにはなったけれど、それでもやっぱり、私は殿下の役に立ちたかったのだ。



「はぁあ、こんなにうんめぇ肉に囲まれて、オデ、すんげぇ幸せだぞ!」



 一つ離れた机に座っていたラファエルくんが感極まったように叫んだおかげで、現実に引き戻される。その時、私はラファエルくんの身体の奥に、殿下の青い外套を見た。
 食堂の、隅の一角だ。少なくとも鷲獅子戦の功労者が座る席ではない。盛り上がる周囲の波にひっそりと沈むように、殿下はそこにいた。その隣に座る白く長い髪の少女の後ろ姿に、私は目を奪われたのだ。
 その机には、彼ら二人だけが座っていたようだった。殿下の目は、エーデルガルトさんにだけ向けられていた。その殿下の横顔を見た瞬間、息が止まった。
 エーデルガルトさんを見つめる殿下の目が、酷く優しいことに気がついてしまって。



?」



 呼びかけられて、杯を持ったまま固まっていたことに気がついた。危うく手から放してしまいそうになったのを、すんでのところで耐える。「わわ!」と叫べば、クロードくんが「何やってんだ」ってからかうように笑った。
 人の身体の隙間から見える殿下は、今も、親密な人にするように、エーデルガルトさんを見つめている。








 そんなことがあった直後だから、私は今、どうしても二人の横をすり抜けて教室に戻ることができずにいるのだ。
 殿下の同級生として数節を共に過ごし、その傍に居続けた私は、殿下のエーデルガルトさんを見るその目が「特別」であることを察している。それは私が、殿下に恋をしているからこそ分かるものでもあるのだ。
 成る程殿下とエーデルガルトさんはお似合いだ。容姿という点から言っても勿論、その身分も。アドラステア帝国の皇帝とファーガス神聖王国の国王が婚姻関係となるならば、二国間の関係は良好なものになるだろう。両国民も盛大に祝福するに違いない。商人の行き来は活発になるだろうし、きっと仕事も増える。路頭に迷うファーガスの人々だって、賊に身をやつすこともなくなるかもしれない。そう、殿下とエーデルガルト様の婚姻が成れば――。
 自分の腹を自ら刺すような妄想に胸を痛めていたときだった。「お、これはお二人さん。仲が良いな」と聞き慣れた声が外から響いたのは。
 クロードくんの声って、どうしてあんなに良く通るのだろう。エーデルガルトさんが呆れたような声音で彼に何かを呟いているその言葉は、ほとんど聞き取れないのに。
 級長三人は互いに二言、三言、言葉を交わす。クロードくんはけれど長居をする気はさらさらなかったらしい。二人に軽く手を振ると、彼はあろうことか私の隠れる騎士の間に向かってきた。咄嗟に身体を捻り、さらに死角へ隠れようとするも遅い。いや、というかそもそもどうしてクロードくんからも隠れようとしたのか、それすらも定かではないのだけど、いずれにせよ私は彼に呆気なく見つかってしまう。



「……何やってんだ?」



 顔を覗きこまれた私は、「えへ……」と気まずさを押し殺しながら笑う他なかった。








 クロードくんって、本当に目敏いというか、なんというか。
 彼はその後、私と外に立つ殿下たちとを見比べて、得心がいったというように軽く頷いた。彼の優しいところは、わざわざそれを口にしたりはしないところである。目線を逸らすだけの私に、彼は小さく首を傾げてから、「それよりもに合いそうな教本があるぞ?」と笑った。呆気にとられる私に、彼は目で合図すると、奥にある壁面本棚の方に向かい、ひょいひょいと、逡巡なくその長い指で本を引き抜いていく。
 私の腕の中にある戦術の本を見て、私がここにいた理由を察し、その上でお勧めのものを探してくれたのだ。そう察するのに時間はかからなかった。



「あ、ありがとう……」



 お礼を言う私に、「いやいや」とクロードくんは緩く首を振る。



「この間にあいつら、いなくなってると良いな?」



 最後の最後でそこに触れてこなければ、私も顔を赤くさせずに済んだのに。
 何度か瞬きをしながら「な、なにが?」ととぼける私に、クロードくんは薄い笑顔を浮かべるだけだった。優しい人だと思ったけど、結局口にされてしまっては、撤回せざるを得なかった。クロードくんって、ちょっと意地悪だ。


PREV BACK NEXT