メルセデスちゃんに囮になってもらったあの時だろうか。
隙をついて攻撃をした私に、イグナーツくんは即座に振り返って矢を放った。身を捩って避けたとばかり思っていたけれど、私が怪我をしていたっていうなら、あの時に違いない。気がつかずにいたのは、戦場の緊迫感に麻痺していたせいだ。視野狭窄に陥り、結果深追いして罠に嵌められた。冷静になって引き返していたら、少なくとも私は罠にかかることもなく、フェリクスくんたち、或いは先生たちに合流して、まだ動くことができたはずなのに。そうしたら、もう少し殿下を助けることもできたのに。
情けない。すごく。すっごく。
クロードくんに抱きかかえられたまま、グロンダーズの広い空を見る。薄く白んだ秋の空は乾いて、透き通っていた。鳶だか、鷹だか、鷲だか、判別できない鳥が空を舞うように飛んでいる。風が運ぶ土と草木の匂いに、どうしてか胸が詰まる。
怪我をした太股がずきずきと痛むのは、罠から解放されたとき、クロードくんが思い切りそこに触れたせいだ。ちょっと気持ちが悪いのは、自分の足で歩けていないせい。痛さと心細さと抱きかかえてもらっていることへの申し訳なさと、色んな感覚やら感情やらに襲われて、鼻の奥が痛い。こっそり鼻を啜ったけれど、その痛みはちっとも誤魔化せなかった。
「泣くほど痛いか?」
救護用の天幕は、鷲獅子戦の舞台となる砦付近からは僅かに離れた場所にあった。
私を抱えて歩くクロードくんと、腕に怪我を負いつつも身軽なイグナーツくんとでは歩く速さが違う。イグナーツくん自身の怪我も治療してもらわなければならないため、クロードくんは彼を先に行かせた。だから、今地面に伸びているのは、クロードくんと私の合わさった影だけだ。
泣いてない。そう言いたかったけれど、クロードくんの言葉に上手く返事をできずにいたら、クロードくんはややあってから、そっと口を開いた。「悪かったな」って、いつもよりも少し低い、掠れた声だったから、思わず目線を彼に送る。
彫りの深い顔立ちをした人だ。
黒に近い髪は陽に透けて、やや茶色がかって見えた。長い睫毛が頬に影を落として、しっかりとした眉は今微かに下がっている。翡翠の色をした瞳の真ん中に、私はいた。
彼が謝ることと言ったら、何だろう。木から下ろすとき、私に痛い思いをさせたことだろうか。そんなこと、全然良いのに。だってあれはわざとじゃなかったし、もう謝ってもらったし、そうでなくても今こうして私の面倒を見てくれる人に、どうして怒ったりできるだろう。
謝るのは、私の方だ。
「私こそ、ごめんね」
そう言ったら、彼は微かにその目を瞠った。どうして、と言われているように思えて、言葉を続ける。
「私が怪我をしてなかったら、クロードくん、まだ戦ったでしょう? そうしたら戦況がひっくり返る可能性だってあったかもしれないのに」
「おいおい、それは俺を買い被りすぎだろ。生憎、俺はディミトリやお前のところの先生とは違うんでね。正々堂々ぶつかって勝てるほどの力はないさ」
高く評価してもらえるのは有り難いが。乾いた笑いは、けれど自嘲気味なものでは決してなかった。
先生やフェリクスくんたちも言っていたけれど、クロードくんは兵の動かし方が巧みだ。殿下や先生のような一騎当千の力はないと肩を竦める彼も、もし何か一つでも状況が違っていたら、鷲獅子戦を勝利することができたはずだった。
私を気にさせまいとして自分を卑下しているのか、心からの言葉なのか、判断しかねる。だけど、真に受けて開き直ることなんかできなかった。
眉尻を下げる私と対照的に、クロードくんは「だから、お前が気にする必要なんかないんだって」と笑う。
「それよりも、俺にはお前の方が未練たっぷりに見えるね。」
「え」
「十中八九、この戦いは青獅子の学級の勝利に終わる。っていうにもかかわらず、随分辛気くさい顔だ」
「辛気くさい……」
「この際、吐き出したらどうだ? 幸いにも、天幕までまだ距離がある。心情を整理するにはうってつけだろ」
思わず、クロードくんの目をじっと見つめた。そこに映る自分の顔を確かめようと思ったのだ。だけど細められてしまって、失敗する。それで、そろりと視線を落とした。本当は改めて確認するまでもなく、自分が鬱鬱としていることは自覚していたのだ。
戦場特有の喧噪は、もう、遥か後方にある。それが随分小さくなっているように感じられるのは、私たちが離脱の途にあるからなのか、戦い自体が終わろうとしているせいなのか、わからない。両方なのかも。クロードくんの腕の中で揺られながら、私はそっと頬に手を添えて、軽く揉んだ。秋の風に晒されたそこは少し乾燥して、確かに強張っている。
「殿下の力になりたかったの」
ぽつりと吐き出したそれは、本当だったら、胸の内側に閉じ込めておくべきものだった。クロードくんの目が一度瞬いて、それから私へと向けられる。口角は下がって、けれど少しだけ開いた唇から、「ふぅん?」って、漏れた。続きを促されているようだった。
「私、こんなんだし、皆と比べたらやっぱりどうしても足手纏いだから」
「イグナーツを追い詰めたじゃないか。上出来だろ?」
「イグナーツくんは結果的に棄権っていう形になったけど、もしも治療のできる人が本陣に残っていたらまた戦闘に戻れたでしょう? 本当だったら、私もメルセデスちゃんも一方的に落とされて終わり、ってなってたわけじゃない」
もしこれが本当の戦場だったら、知らないうちに敵の罠に嵌って命を落としたことになる。役に立つどころか、まんまと策に嵌められて、死んじゃってるのだ。これで反省しないでどうするんだろう。
そこまで話したら、クロードくんは、「はは」って声に出して笑った。「そりゃそうだ」って。思わず眉根を寄せた私に、クロードくんは緩く首を振る。悪い、そういう意味じゃないんだ、って、彼は小さく弁明して、そして、それから今度は、目だけで笑った。
そのとき雲間から差した光に、目を奪われた。
「じゃあは、もう二度と同じ手にかからないな」
木々の合間を、柔らかな風が吹く。戦場の、生臭い臭いの混じった風だ。右側に垂れ下がったクロードくんの三つ編みが、微かに揺れている。
「それだったら、今日の戦いには意味があったことになる」
翡翠の瞳は、光に晒されて、その色を薄くしていた。思わず目を細めたのは、耳の飾りに光が反射したせいだ。
「そう思えば、今じゃなくても、いつか『殿下』の役に立てるってことにならないか?」
ちょっとだけ視界が滲んでしまったのは、足が痛くて、気持ちが沈んでいたから。心が少し、弱っていたから。
鼻を啜った私の顔を、クロードくんは直視せずにいてくれた。木々の切れた先に、天幕はある。救護係として天幕で待機していると言う、マヌエラ先生の良く通る声を耳が拾った。心地よく伸びるその音に目を閉じる。瞼は光を遮るには薄すぎて、眼球がひりと痛む。
頑張りたかったけど、全然だめだった。フェリクスくんに「できるな」って言われたんだから、その期待に応えたかった。殿下に褒めてもらいたかった。叶わなかったのは、自分の力が足りなかったせいだ。
でも、クロードくんの言うように、この失敗にも意味があって、今日の経験がいつか実を結ぶって言うなら、こんな自分も許せるように思えるのだ。
クロードくんが、私の身体を抱え直すように体勢を整えた。
「ご、ごめんね。重いでしょう」
いくら怪我を負っているからって、随分な距離を抱えてもらっている。目を開けてそう言えば、けれどクロードくんは首を振った。「軽いよ」って。その優しさが、びっくりするくらい、温かかった。
遠くで歓声が聞こえる。終わったみたいだな、って、クロードくんが呟く。耳を澄まして、その歓声の中に殿下の声を探すけれど、うねりのようなそれを聞き分けるには、私の耳は出来がよくなかった。